2011年8月30日火曜日

男の嫉妬は見苦しい

民主党政権が、今日三度目の首相を出した。反小沢がどうのこうの、派閥の権力争いがどうのこうのとマスコミが騒いでいる。まあ、その通りなのだが、政治が権力闘争であるのは古代ギリシア・ローマ以来の人間の業(ごう)というものだと私は思うのである。
権力を得る栄光があれば、権力から遠ざかり嫉妬を深めることを人類は繰り返してきたわけで、ガソリンスタンドCMの『男の嫉妬は見苦しい。』というコピーは、まさに『時』を得ている。嫉妬は、次の権力争いの源になり、また嫉妬を生む。民主主義における権力闘争とはそういう見苦しさが露わになってしまう。それは政治家と政治家だけでなく権力にかかわる官僚も、国民全体にもおよぶものだと私は思っている。

と、ここで今日の主題。民主党の三代の首相の”ベクトル”の変化について考えたい。その”ベクトル”とは、官僚に対する姿勢である。初代は、まさに反官僚というか、『政治主導』という美麗美句で大衆の人気を集めた。これは、多くの国民が、東大出を中心とするエリート官僚への反感、彼らの天下りやそのために作られた法人の無駄使いに怒ったことを利用している。たしかに、無駄ではあるが、私は必要悪のように考えている。
たとえば、財務省のエリート中のエリート、主計局の主計官(予算作成にあたる中枢の官僚である。)の仕事時間は半端ではない。無茶苦茶だといってもいい。徹夜の連続、一週間以上家に帰れないこともある。莫大な予算書を査定するのである。さすが、日本の超優秀な人間だと私は思っている。長時間にわたる外科手術をする医者が高収入を得ていることに我々は不満を抱かない。私は同様の畏敬の念を感じている。彼らが組織上の問題として、同期の中で1人を残して出世レースから、脱落していかねばならないことを止揚するために生まれた天下りと言うシステムは、私は賛成とは言わないまでも、(医者の高収入に不満を抱かないと同様に)許容されてもいいと思うのだ。これは、国民の嫉妬ではないだろうか。東大出という勝ち組に対する嫉妬。彼らの優秀さを認めない、悪だと断じる嫉妬。うーん、私はそんな風に感じるのだが…。

初代は、そういう嫉妬をうまく利用した。『仕分け』というショーで、悪代官をやっつける姿を演じたが、「(科学技術で)2番じゃいけないでしょうか」などという幼稚な政治家のスタンスが見え、基地問題や国連での二酸化炭素25%削減発言など、世界で大国だといわれる国の首相とは思えないアホさを露呈、しかも大金持ちの坊ちゃんが脱税していたことまでバレて自爆した。政治家とはそれほどアホなのかということを証明したのである。
もちろん、官僚も黙って「政治主導」を許したわけではない。それが、当時の小沢幹事長への国策捜査である。佐藤優氏が指摘しているように、この事件、かなりおかしい。私は、小沢的な強引な手法は好かない。しかし、彼こそが政治主導の総本山だとして、総力を挙げて官僚組織は反撃に出たのだと思う。どっちもどっちだが、これはうまくいった。小沢への国民のなんとなく嫌いという感情が、権力者への嫉妬となった。で、党員資格を失うまでに追い込まれていったのだ。初代首相の税金問題も、おそらく全官僚組織がうまくリークしたのだろうと思う。初代と幹事長は、「政治主導」と言ったために、官僚の反撃を受けたのではないかと私は思っている。

第二代首相は、「反小沢」を錦の御旗にした。しかし「政治主導」の旗も下ろさなかった。しかし到底、官僚に立ち向かえるような力はない。大震災の時に完全に破たんした。官僚としては、肉を切らせて骨を断ったというところだろうか。あまりにみじめな政治主導の姿を現出させた。こう書くと、官僚が国を滅ぼしたようだが、事務次官等会議(毎週行われてきた各省庁の官僚のトップ会議、事実上の閣議だった。)をつぶしてしまったのは、民主党政権である。あの国難において各省庁のスムーズな連携は、きわめて難しくなったはずだ。何もわかっていない政治家の小田原評定では何も前に進まない。

ところが、第三代首相は、ちょっと違うようである。財務省の意見をよく聞くようである。「政治主導」の旗を下ろしたとは聞かないが、少なくとも初代・二代とはベクトルが違うようである。幹事長に小沢グループの番頭を置いたらしいが、うーん、このベクトル、どうなることやら。

この話、族議員という政治家のあり方にも関わってくる。それは選挙区にも関わってくる。とりあえず、今日は、政治主導と官僚の反撃という視点から考えてみた。だから、なんだ?と言われたら、こう結論付けようかな。…やっぱり「男の嫉妬は見苦しい」

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