2011年8月3日水曜日

ウガンダの忘れられた紛争

ウガンダ北部内戦地域
先日、「広報ひらかた」を見ていた妻が、「お父さん、お父さん、ウガンダの講演会があるで。」と教えてくれた。栗田さんという「子ども兵社会復帰事業」を手掛ける方の講演会があるという。「行くっ。」と言うわけで、申し込み開始日の今日、めでたく先着80人に入り込んだのだった。何故か予約ナンバーは84と85だった。(笑)当日は、ウガンダの学校給食の試食会もあるようで、楽しみだ。私は、豆の炊き合わせだと予想している。

さて、このウガンダの子ども兵問題を含む北部内戦について調べてみた。かなり複雑怪奇である。(特活)アフリカ日本協議会の資料がかなり詳しい。
http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/activities/uganda_fact_sheet.pdf

高校生を相手に概説するというスタンスで、「ウガンダ北部内戦」をまとめると、およそ次のようになる。ウガンダが、イギリスによって植民地化されていたころ、例によってイギリスは南部の諸民族を上位に置いて、北部をも間接統治した。さて、第二次世界大戦が起こり、ウガンダ軍を編成すると、南部で独立運動が盛んになったことから、その主力を北部の民族に変えたのである。独立に際して、政治的に優位を持っていた南部の民族と軍事的に優位に立っていた北部というねじれた民族対立が現出した。軍を握っている方が強い。当然のように、軍事クーデターを生むことになる。例のアミン大統領も北部出身である。彼は、南部の民族を追い出す形で、タンザニアに侵攻するが、ニエレレ大統領のタンザニア軍と南部民族の武装組織によって反攻を受け、反対にリビアに亡命する羽目になってしまった。その後もイロイロあるのだが、今は南部の民族が政権を担っている。北部には(歴史的にも)これに反対するLRA(神の抵抗軍)がゲリラ闘争を行っているわけだ。
このLRAは宗教的な反政府勢力で、その基盤はキリスト教と伝統信仰で、十戒に基づく統治を理念としているらしい。彼らが、子ども兵を獲得してゲリラ闘争をしているというのである。今や、ウガンダ政府軍にも、南スーダン政府軍に追い詰められ、和平交渉で物資を得たりしているという。なんか、カンボジアのポルポト派の末期に似ているような気がする。最後に、このRDF資料から、ちょっと引用したい。

『 北部ウガンダ紛争は「忘れられた紛争」と呼ばれてきた。ムセヴェニ政権下では、ウガンダは国家としては安定した経済成長をとげ、またエイズ対策の成功モデルとみなされてきた。国際社会は、ウガンダを「アフリカの成功モデル」として位置づけてきたため、その「暗部」ともいえる北部内戦は、国際社会の注目を殆ど得てこなかった。しかし2003年11月に国連の人道問題担当事務次長ヤン・エーゲラン(Jan Egeland)が北部を訪れ、「世界最大の人道危機」と述べたこと、また2004年1月、LRAの犯罪に対、また2004年1月、LRAの犯罪に対して国際刑事裁判所(ICC)が予備調査を開始したことで国際的な注目を集めるようになった。』

京橋のウガンダ人(昨年の4月26日付参照:ウガンダ人もよく京橋に立っている。)も、この北部内戦から逃れてきたのだろう。アフリカの学びは深い。まだまだ勉強不足だと感じだ次第。

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