2025年12月31日水曜日

2025年 回想 ドジャーズの事

https://www.mlb.com/ja/news/will-klein-dodgers-bullpen-world-series-game-3-2025
2025年は、ロシアとウクライナの紛争継続やイスラエルのガザやイランへの攻撃、さらに前述の中国の経済的苦悶と戦狼外交などに加え、欧州やカナダも様々な問題が露呈しており、戦々恐々とした1年だった。

そんな中で、ドジャーズのWS連覇は、一筋の光明ともいえる話題だった。このブログでもドジャーズの事をエントリーする機会が増えた。シーズンでは、ブルペン陣の不甲斐なさ、特に山本投手の勝利を9回に消し去るというショッキングな試合もあり、結局それが響いて地区優勝したものの、他地区より勝率が低くでワイルドカードシリーズを余計に戦う羽目になった。大谷選手は、投手復帰とホームラン王に1本届かずという凄い成績をあげ、見事な”翔タイム”を何度も見せてくれた。山本投手も先発ローテーションを唯一守りきったし、ササミローキ選手も怪我で離脱したものの最後の最後にクローザーとして大活躍をした。

ポストシーズンは更に盛り上がった。大谷選手が”ヒリヒリするような”ポストシーズンの試合がしたくて、弱小エンゼルスを出たわけだが、まさに今年のポストシーズンは、”ヒリヒリ”の連続だった。特にフィリーズ戦やブリューワーズ戦もよかったが、やはりWSのブルージェイズとの7試合、特に3戦目の延長試合と最終戦は”ヒリヒリ”という形容では言語化できない壮絶な試合、いや死闘だった。

スミス捕手は第3戦の延長戦・18回をずっと座り続けた。最終戦では値千金のHRで連覇を呼び込んだ。キケ選手は、”10月男”の名前を欲しいままに、打撃でも守備でも全試合で大活躍した。レフトからの併殺を二度もした。エドマン選手も攻守でいぶし銀の活躍を見せた。フリーマン選手の弾いたヒット性のあたりを見事に捌いて併殺した場面は痺れる。ロハス選手は、ベテランらしく冷静な本塁刺殺やキケ選手のの併殺の球を見事にキャッチしたし、最終戦9回表で起死回生のHRを放った。パヘス選手も最終戦で全力疾走してキケと衝突しながら深いフライを取った。落としていたら終わりだった。テオヘル選手もHRを3本打ち、勝利を引き寄せた。マンシー選手もいいところでHRを打ち、マンシーパワーを見せつけた。ベッツ選手も打撃不振ではあったが、いいところで打点を稼ぎ、第7戦、最後の最後見事な併殺を見せてくれた。フリーマン選手は、なんといってもあの延長18回の第3戦で、山本投手が次に登板する様子を見て、投げさせるわけにはいかんとサヨナラHRを打った。一塁守備でも何度も危機を救った。この全員で勝利に向かうチームワークはさすがである。ほんと、野手陣であまり活躍の機会がなかったのは、キム・ヘソン選手くらいである。

投手陣では、第3戦は投手が次々投入された。現役最後の登板となったカーショー投手も大ピンチを見事に救った。意外に4イニングを投げて1安打・無得点に抑えたほとんど無名のクライン投手(画像参照)を私は称えたい。彼の好投がなかったら連覇はなかったはずだ。先発陣では、スネル投手もグラスノー投手もそれなりに頑張ったのだけれど、ブルージェイズ打線はなかなか手ごわかった。ササミローキ投手も同様だったが、来季に大きな期待を抱かせる。

WSのMVPを獲得した山本投手については、信じられないほど凄かった。WS第2戦・第6戦と勝利を上げて、第7戦にリリーフするという、”神様・仏様・(昔の西鉄の投手:日本シリーズで巨人相手に3連敗後4連勝した)稲尾様”というような活躍だった。ポストシーズン全体を見ても、現在のMLBでは考えられない完投2回という離れ業をしてしまった。ドジャーズの日本人選手の次男的存在で、寡黙だし、背も低いし、地味に扱われてきたが、インタヴューでの発言が意訳されて、「負けるという選択肢はない」(Losing isn't an option)という山本語録がチームを鼓舞することになった。(キケ選手がこのTシャツを着て早速球場入りしていた。笑)ホントは、「なんとしても負けるわけには行かない」だったのだが、優勝セレモニーで自ら言ってしまい、真の名言になった。

そして、やはり大谷選手である。ブリュワーズ戦で、投手として10三振を奪い、同じ試合で3HRをかっ飛ばすというスーパー二刀流の活躍や、WS第3戦・18回の延長戦で、2HR・2二塁打を打った後、敬遠と四球で全打席出塁という、水島漫画でも描けないような活躍を見せた。昨年のWSでは盗塁で怪我をし、そんなに活躍できていなかったが、今回は違う。”ヒリヒリ”したいではなく、”ヒリヒリ”させる側に回ったように思う。4度目のシーズンMVPは当然である。

「野球は退屈ではない」と日本語で書かれたTシャツを山本投手がインタヴューで着ていたが、まさに、今年のドジャーズは、この言葉を体現してくれたわけだ。読者の皆様、よいお年を。

2025年12月30日火曜日

2025年 回想 国内政治の変化

https://www.youtube.com/watch?v=OdJVSFh6008
このブログでは、あまり国内政治の問題には踏み込まないようにしているのだが、2025年を回想するにあたって、国内に大きな変化があったと思うのであえて記しておこうと思う。

日本の国是は、なんといっても「平和主義」である。この平和主義に対する明確な挑発に対しては、さすがの平和日本の国民も看過できない。数年前の隣国の艦艇による哨戒機へのロックオンは、隣国へのスタンスを大きく変えるきっかけとなった。SNS時代の情報社会は瞬く間に隣国のルサンチマンへの嫌悪感を増幅させた。

先日の中国の戦闘機から自衛隊機へのロックオンも同様である。このきっかけは、高市政権発足後、立憲民主党の媚中派・岡田氏との質疑だった。中国は、これに従来通り強く反応したが、その足元は大きく揺らいでおり、中華思想とルサンチマンのねじれた反論は、国連まで巻き込んで失態を重ねていく。そんな中で日本国内に嫌中感が広がっている。制裁として打ち出された中国観光客が日本に来なくなったことには、反対に歓迎されている。もうこの嫌中感は戻らないだろう。政権も、アメリカや台湾、さらにはNATO諸国とも歩調を揃え、これまでの媚中派の遺憾砲ではなく平和主義の枠内で国民の期待に答えている。ロックオンされたF15の空自パイロットの方は、生命の危険を受けながら回避行動もせず、30分耐えぬいた凄い精神力の持ち主であり、”英雄”であると思っていることも付け加えておきたい。

すでに、中国経済はカタストロフィー・ポイント(破局点)を超えているのは明白で、不動産バブルや外国資本の撤退が進んでいる中、マネーストック(通過量)が増えている。これは、地方政府や中国企業の負債を銀行でさらに借り入れ、信用創造でただただ膨らんでいるからであり、いずれ破綻する。企業の賃金不払いや失業者の激増などによって、人民による暴動も増加しており治安面も深刻である。また一帯一路で反感を高めたアフリカ諸国だけでなく、ドイツを中心にヨーロッパ各国も中国を見限ったフシがあり、国際的にも孤立が深まっている。

地理総合の授業では、中国の国是については触れなかった。というのも、中国の国是は社会主義であるわけだが、その証というのは、中国共産党の”プロレタリア独裁”とスターリニズム、土地の所有が認められていないぐらいであるからだ。人民を平気で犠牲にする姿勢は、マルクス・レーニン主義あるいは毛沢東主義の欠片も残っていない証である。このような話を授業で生徒諸君に伝える意義が見つからない。

加藤隆氏の『武器としての社会類型論』では、中国の社会類型は、ヨーロッパと反対に、不自由な支配層と自由な被支配層であった。これは科挙による優秀な官僚が全責任を置い、ルールをかいくぐる自由な民衆を統制するという国のカタチを長年築いてきたからであったが、今の中国共産党には、かの難関な科挙を突破するような教養と力量が圧倒的に欠けており、ルール無用(本日の画像のタイガーマスクの歌は、ここに由来している。笑)の被支配層をスターリニズムで抑えつつ、彼ら以上に自らの私益に走る輩ばかりであるといえる。

このような中国に対し、日本はもう迎合するべきではない。すでにWWⅡの賠償は莫大なODAで精算されている。何らかの個人的負い目を追っている媚中派政治家は、次の選挙で退場させられるべきであると私は思う。高市政権の支持率はかなり高い。毅然とした対中外交、さらに積極財政で財務省の官僚を抑えていることや国民生活の逼迫に寄り添った減税改革には、私も理解を示せる。

というわけで、今年の高市政権の発足と対中国外交の変化は、日本にとって大きな転換点であったと思うのである。

2025年12月29日月曜日

今年この1冊 2025

https://x.com/Osaka_Shin_Ai/status/2002961293293064605
年末恒例の「今年この1冊」のエントリーである。学院図書館(画像参照)や市立図書館で借りた本は、今年という修飾語に合わないので、佐藤優氏の『哲学入門』『ゼロからわかるキリスト教』などは、残念ながらまず省いた。というわけで、候補に残ったのは、次の5冊である。新書ばかりで、しかも全て違う出版社になった。(笑)

神なき時代の終末論(佐伯啓思著/PHP新書)
経済で読み解く世界史(宇山卓栄著/扶桑社新書)
伝授!哲学の極意(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)
誤読と暴走の日本思想(鈴木隆美/光文社新書)
荒野に果実が実るまで(田端勇樹/集英社新書)

”アフリカ留魂録”という我がブログのタイトルからして、京大農学部の新卒の青年がウガンダでの国際協力の実態を描いた稀有なノンフィクションである『荒野に果実が実るまで』が最も妥当に思えるのだが…。

倫理の教師としては、『伝授!哲学の極意』と『誤読と暴走の日本思想』の両書は実に示唆に富んだ内容で、有為であった。『伝授!哲学の極意』は、プラトンの善のイデアから始まる哲学の王道を学んだし、『誤読と暴走の日本思想』は、儒家や仏教思想にいかに西洋哲学を接ぎ木したかがわかる。もし、倫理を教えているならば、この両書は格好の題材として使えたと思う。全国の同業者に是非一読を勧めたい新書である。

『経済で読み解く世界史』は名著であり、教材研究の宝庫であった。受験科目として暗記するだけの世界史ではなく、繋がりを理解・重視する世界史の教養は、社会科教育の中で、ある意味最も重要だと私は考えている。これも全国の同業者だけでなく、全ての読書人に是非勧めたい。

しかし、現在、地理総合という科目を教えている身からすれば、”今年この1冊”は、『神なき時代の終末論』に落ち着く。その最大の理由は、本年度の地理総合の授業を、この書にある”世界を四層に分けるて見る”という社会思想的な視点をもとに授業を構成したからである。

1学期は、基層となる風土(地形や気候などの自然環境)と、深層となる無意識のうちに人々の思考形式の型を与えると文化・歴史的経験と宗教を、世界価値観調査の図をもとに講じた。2学期は、中層となる現実的な国営機・勢力圏や生存権、同盟・敵対関係、戦争などを、HDIのランキングをもとに、構造的暴力などの国際理解教育・途上国理解の視点を交えて講じた。さらに表層、ある種の理念や価値の高い理想ということで、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・南ア・オランダといった国々の国是を中心に講じた。
この四層に分けた構成は、3年生で受験科目ではない地理総合という非常に珍しい学院のカリキュラムでは、世界史・日本史・政経・倫理などの他の社会科科目の復習と関連してしても講じれるので、かなり有効だと思われる。

というわけで、今年も多くの良書に恵まれた1年であった。

2025年12月28日日曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録26

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリー、いよいよ最終回である。フッサール、ハイデガー、キルケゴール、プラグマティズムなどについて語られていくのだが、私は付箋を貼っていない。とはいえ、最後の復習、神学に関する内容に興味深いものが多かったのでエントリーしておきたい。

淡野氏のテキストでは抜けているとのことだが、現代の哲学思想史に欠かせないピコ・デラ・ミランドラの話。中世の神学と新プラトン主義の調停・融合を図った人物で、1486年に『人間の尊厳についての演説』(画像参照)が有名とのこと。人間は自己の本性を、ある固定したカタチで与えられるのではなく、それを自分で決定する能力をもつ被造物として表現した。この見解は、後期ルネサンスで非常に大きな影響を与え、神の面前で人間の自律をうたう啓蒙主義的主張を準備するものだった。(P410-1)

このピコが示したのは、人間の本性に関するキリスト教の伝統的見解(原罪論)に対して、人間は努力次第で上昇もできるし下降もあるという、原罪観がない主張で、近代の人間を先取りしている。この後、自然法で中世の自然状態(悪に満ちあふれているという概念)をひっくり返すことになる。(P413-4)

ルターの召命観、ベルーフ(独語/職業・使命)観とカルヴァン派のベルーフ観は違う。ルターの場合は、「お前の職業がおまえの仕事だから、そこで一生懸命やれ。」だが、カルヴァンは「神様に選ばれていないから、その場でうまくいかないのだ。うまくいかないのは、選ばれている自分の場所ではないからだ。」と考える故に、その意味では自分探しにつながる。ただ、選ばれていない人は前向きに考えられない、そのように(ルサンチマン的に)考える人は生まれる前から決まっており、「滅び」に定められている、そういう発想にもなるわけだ。(P421 )

アウグスティヌスは万人救済論をとり、一部のプロテスタンティズムも同様に見えるが、少なくともキリスト教が万人救済説をとっていないのは確か。カルヴァンは勝ち組だと言えるのか、勝ち組でないとカルヴァン教会に留まれないのか難しいところ。実際に長老派の教会に貧乏な人はいないように思われる。カトリックや正教会では貧しくても平気だが、長老派はチャリティに参加できる中産階級や上層部だけが集まっている雰囲気がある。(P422)

1547年のトレント公会議では、カルヴァンの義認(=洗い清め:人間が第一のアダムの子として生まれた状態から、第二のアダムで我々の救い主イエス・キリストの思想と「神の子」の状態への移行)の本質についての見解に強く反対した。この”洗い清め”は、受け止める人間の主体がないと恩寵のみでは救われない、教会で清い生活をし、きちんと努力せよという考え方になる。一方で、そういう人間的な行為はいささかも関係がないというのが、カルヴァンの考えで、ルターも基本的には一緒だがカルヴァンほど強調しない。その意味で、プロテスタンティズムのほうが反知性的で神がかり的である。特にカルヴァン主義は神の絶対性や恣意性を強調するので、構成としてはイスラムのハンバリー派に近い。気をつけないと、(三位一体ではなく)単一神論に堕ち入る可能性があるので、三位一体論を強調する東方神学と合わせて理解する必要がある。(P426-428)

…おそらくこのブログの書評シリーズとして最長のエントリーとなったと思う。高校倫理の教師として、実に意味深い教材研究となった。カトリックの学校でありながら、このようなプロテスタント系の神学書を入れていただいている学院の図書館に心から感謝したい。さて、来年は東方神学について読んでいこうかと思っている。幸い、学院の図書館には正教会関係の図書も充実している。

2025年12月27日土曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録25

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第25 回目。本日のエントリーは、まずは佐藤優氏のニーチェ観から。

ニーチェは、キリスト教の愛はルサンチマンから生まれたと考える。すなわちローマ帝国に抵抗することが出来ないため、本来は戦わないといけないのに自分たちはあえて愛の実践を選んだと考える。敵を愛していることにして、自分の置かれている立場を卑屈に合理化した、まるで自分の手がブドウに届かないから「あのブドウは酸っぱい。」といって納得するイソップ童話の「酸っぱいブドウ」のようだ、と。さらに、佐藤氏はルサンチマンについて、弱者特有の自分のほうが上だといった発想になる。近代の競争社会には付き物であると述べている。(P361)

新カント学派でユダヤ思想家・コーエンの思想について。淡野氏のテキストには「コーヘンは思惟を一切の実在の根本とし、全ての科学的知識もかような純粋思惟の内面的な発展に他ならぬと考え、それならば、いわゆる知識の内容として思惟によって要求せらる感覚は、abcなどのアルファベットのような言葉をカタチづくる符号であるがまだ言葉ではないような、単に実在の一つの指標であるにすぎないとした。感覚は思惟の力によって論理化されて、はじめて実在の知識となる。よってコーヘンは、論理化されない意識(=神話)と論理化された意識(=学問)を区別した。」とある。佐藤優氏は、コーヘンの、この神話と学問の連続性、すなわち神学と哲学の間の差を論理化した場合、同じ事柄を別に表現したものに過ぎないという事を明らかにしたこととし、これを重要だとしている。(P370-1)

…高校倫理で私は、ギリシア哲学のはじめに、神話から哲学へという内容でエディプス神話とフロイトのエディプス・コンプレックスの話をする。このような神話と哲学の連続性は、特に旧約聖書にあてはまる。コーエンはユダヤ思想家なのでなおさらであると思う。

ニーチェは競争社会が激しくなると、必ず流行る。敗け組がそれでも勝っているのは自分だと思いたい時、ニーチェが便利に使われやすいからである。実存主義やニーチェは、自分可愛さが透けて見えるから、共通していじけた感じがする。神学とは相性が良くない。(P375)

…佐藤優氏は神学の立場から、もっとニーチェを批判的に論述しているのかと思ったが、意外にもルサンチマン関連の記述が多い。前述のように、ニーチェが死んだと言った「神」は、デカルトから、スピノザ、そしてヘーゲルに至る「神」でキリスト教の神ではないという前提があるからだと思われる。

(キルケゴールの)「神の前に立つ単独者」については、神の前と言うけれど、神の前でたむろしている人は、すでに神と共にあるから「単独者」ではない。「単独者」とは、神なしで単独で、一人立つということになる。(P375)

…たしかに言われてみれば、そうだなと思う。これまで普通に違和感なく「神の前に立つ単独者」として語ってきたが…。本書にはこういった気づきが実に多い。

2025年12月26日金曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録24

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第24 回目。本日のエントリーは、第4日目の講義から。まずはマルクス。

マルクスは、『フォイエルバッハに関するテーゼ』の中で、これまで哲学者はさまざまに世界を解釈してきた。だが大切なのはその世界を変革することだ、と言っている。認識即行動、理論即実践というマルク主主義者の内在的理解は、信仰即行動のカルヴァンの予定説に似ており、親和性がある。(P356)

唯物史観の特徴は、世界のシステムを自然と人間の間の代謝システムであると考えることであるので、本来はエコロジカルなシステムである。ところが革命は、ロシアのような後発国で起きた。実はマルクスとエンゲルスの間に考え方の違いがあり、生産力と生産関係の矛盾という考えはエンゲルスのものであった(画像参照)。それがレーニン、スターリンに継承されロシア革命となり、社会主義が生産力を上げていけば社会制度(=共産主義社会)は変わるとして、一種の生産力至上主義になり、生産性増大運動になった。(P357-8)

佐藤優氏は、現在では、大学でのマルクス経済学の講義もほとんど行われなくなったが、知的世界においては、フランクフルト学派など様々なカタチで、マルクス主義の影響は全く衰えていない故に、勉強しておく必要がある、と述べている。(P358)

…これは左翼ではない私も同感で、ソ連崩壊後、中国もベトナムも開放政策やドイモイ政策で、マルクスレーニン主義だとは言い難い状況になっている。とはいえ、唯物史観や剰余価値説は、高校倫理や政経できちんと学んでおく必要があると思っている。

2025年12月25日木曜日

Wソックスのロバート秋山通訳

https://www.yahoo.co.jp/
Wソックスの村上選手についた通訳が、ロバート秋山に似ていると話題になっている。たしかに、その体格といい髪型といい似ている。(笑/上記画像参照)

ところで村上選手は、さっそく、シカゴの貧困層支援のために2万ドル(約314万円)を拠出したそうだ。村上選手は、日本でもこういった支援を長く行っていたことを初めて知った。MLBに来たがゆえの売名行為では決してないようだ。

Wソックスの球団自体は、同じシカゴを本拠地とするカブスより弱いし、球場も古く、オーナー辞任をファンが求めるほどに人気がない。だからこそ、村上選手に光が当たることに意味がある。村上選手のMLBで活躍したいという決意は本物だと私は思う。

大谷選手も、MLBの最初は苦しんだ。そこで、イチロー選手に教えを請うたことは有名である。村上選手は、先のWBCでバッティングゲージでの大谷選手の凄さを皆が称えているのと対象的に、自らとの差に一人忸怩たる思いで見つめていたという矜持を持った選手だ。たとえば、カブスで活躍している鈴木誠也選手に、MLB投手の速球対策の教えを請うのもありではないかと思う。まだまだ若いのだから、硬軟自在の姿勢が大切な気がする。

2025年12月24日水曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録23

https://liberal-arts-guide.com/neo-kantianism/
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第23 回目。本日のエントリーは、ドイツ観念論と新カント学派に関する内容。

カントの「物自体」は(前述のように)神の別の言い方になる。さらに「神=道徳」になる。実践理性の領域は最終的には、神がかり的になる。(P327)

…道徳の問題は、経験を超えた世界である物自体の世界の問題だとカントは、実践理性を説き、定言命法と道徳法則を説いたわけで、”神がかり的”であるという表現に妙に納得する。

シェリングの絶対者について、ヘーゲルは『精神現象学』の中で「全ての牝牛が黒くなる夜」と表現した。(P330)

…この表現、同一の絶対者から生まれながら、個々の違いが無化されることを批判して、(様々な色がある)牝牛はみんな真っ黒になるというのか、という意味である。このシェリングへのヘーゲルの批判の部分は、高校倫理でも教える。キーワードは「矛盾」である。

(新カント学派の)ポイントは、実験可能な法則定立的な科学と、実験ができない個性記述的な精神科学、あるいは人文社会科学を分け、それらを制度化したアカデミズムの中に入れたことにある。マックス・ウェーバーも新カント学派の学者であった。(P339)

神学の場合は、自然科学、社会科学、人文科学への架け橋がうまくつくれる。しかも制度された学問とよく馴染む。ところが、このような流れがポストモダン思想の出現によって混乱し、今はなんでもありになってしまっている。(P344)

時間と空間だけ自明にすれば、あとは森羅万象の事例に関して全部分類できるし、相互関連で説明できると考えたのが新カント学派である。しかし、世界にはわからないところもある。そのわからないところからやって来るのが道徳で、どうして平和を実現しないといけないのか?そうでないといけないからだ。なぜ人は愛さねばならないのか?そうなっているからだ。という組み立てになるのが新カント学派で、基本的に伝統的なフレームは維持しながら自分の議論を展開するのである。(P346)

神学は、インテリジェンスの語源であるインテレタトゥス(intellectus:生き残るための知恵といったタイプの知恵)の方が、ラチオ(ratio:論理的な知恵)より上にくる。これが他の学問を研究している人との違いである。インテレタトゥスがあるかどうかは、アプリオリ(=先天的に)に神に貰ったもので、ダメな者はダメだ、というのが神学的考えであり、カントとは違うのである。

…19世紀後半から20世紀前半に、ドイツを中心にヨーロッパ講団哲学(大学で教えられる哲学)の主流となった新カント学派について、佐藤氏は、実にうまく紹介してくれている。ありがたい講義だった。これで、第3日目の講義分まで終わったわけである。

2025年12月23日火曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録22

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第22 回目。本日のエントリーは、いよいよカントに関する内容。

カントはケーニヒスベルグ(現在のカリーニングラード)で生まれ生涯、この街から全く出なかったが、世界地理を教えていた。(笑)几帳面でリゴリスティック(厳格主義的)だったようだが、彼が書いた手紙の中には、女のストッキングは黒い(黒のストッキングは当時は売春婦しか履かなかった。)ほうがいいという記述もある。女性には凄くモテて、スポンサーが複数いた。大学からの給料だけではなく、(ライプニッツと同様に)貴族の女性の家に行って色々な話をして小遣いを得ていた。(P298)

デカルトもライプニッツもかんとも、自然科学ではなく自然哲学によってアプローチした。シェリングもヘーゲルも同じで、実験で出たデータから法則を提示するのではなく、データを考察するという視座であった。(P302)

カントは常に問題を二律背反(antinomia)のカタチにおいて捉え、それを解決することで彼自身の思想を発展させてきた。このアンティノミアは、ノモス(=法)相互間の背反と淡野氏のテキストにある。佐藤氏は、アンティノミアを、日韓の歴史問題(日韓併合)を例に取っている。事実問題としては争いはなく、権利問題としての争いだ、と。(P304-5)

カントの『地震に関する三つの論文』(1756年)について。前年の11月1日の万聖節(すべての聖人と殉教者を記念する祝日/ハロウィンの翌日/カトリックや英国国教会では日本のお盆的な祝日)に起こったリスボン大地震(M8~9)で死者数が、5~6万人も出た。なぜこの時に、またキリスト教国として海外布教もしているポルトガルで大地震が起こったのか、と大問題になった。当時、地震は自然現象ではなく神罰であったからである。これに対し、カントは地震は自然現象(自然科学的でない故にその理屈は現代では笑止だが…。)であるから悪や罪とは関係がないと主張した。(P307-8)

「私は信仰に場所をあけるために、知識を取り覗かねばならなかった。」というカントの言葉は有名である。この「場所」の外側に(実践理性が機能する)「物自体」の世界があるわけで、それは神と言い換えても一緒である、ただしそれは動的な神ではない。と佐藤氏。(P320)

…カントは私にとっては、高校時代から馴染みの深い哲学者であるのだが、意外な話が多かった。確認の意味を込めて調べてみたら、地理を教えていたのは、1765年からケーニヒスベルグ大学においてである。論理学・形而上学の教授となるのは1770年だった。ちなみにカントは、ルター派敬虔主義の両親のもとに生まれており、ルター派らしく反ユダヤ主義の人だったようだ。

佐藤優 哲学入門 備忘録21

https://www.etsy.com/jp/listing/1906344503/goethe-poster-prometheus-literarisches
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第21 回目。本日のエントリーも、様々な断片的な内容。

中期ドイツ啓蒙思想を代表する哲学者にヴォルフがいる。ライプニッツの知遇を受け、その後フリードリヒ大王の下で半世紀の間ドイツ哲学に大きな影響を与えた。独創性はなかったが、他者の哲学を総合的に講義し、ヴォルフ学派を形成した。ライプニッツ、ヒュームからカントへと繋いだのは彼らの功績だと言える。(P276-8)

…当然ながら、高校倫理ではヴォルフの存在は無視されている。もし、講義する機会があれば是非とも挿入したい部分である。

スピノザは、日常会話にはポルトガル語を使い、オランダ語は堪能ではなかった。制度化された学問内部にいたわけではなかったので、学生に教える必要がなかった故である。インテリに(若い頃に独学で習得した)ラテン語で伝えれば十分だった。(P283)

スピノザ主義者の一人、モーゼス・ヘスはヘーゲル左派で、初期のマルクスやエンゲルスと、『哲学草稿』や『ドイツ・イデオロギー』を書いた。その後、共産主義に傾倒したマルクス・エンゲルスと離れ、シオニズムに向かった。1840年半ばの若い思想サークルが、一方はマルクス主義・ロシア革命・共産主義体制を育て、もう一方はイスラエル国家成立の道をつくったわけである。(P284)

…世界史を大きく動かした、こういう逸話は地味に興味深い。

18世紀後半のドイツでは、スピノザ主義が最も議論を呼び起こした。もともと共和主義的観点でスピノザに共感を寄せていた啓蒙思想家・ラッシングは、晩年ゲーテの詩『プロメテウス』(画像参照)の中にスピノザ主義を読み取り、「スピノザ哲学以外の哲学は存在しない。」と延べ、その標語として「一にして全」を提示した。この標語をモットーにしていた青年期のヘーゲルや「ぼくはスピノザ主義者になった。」と叫んだシェリング。絶対者を捉えようとするドイツ観念論に基礎を提供したのは、スピノザ主義であった。シェリングとヘーゲルが、フィヒテと共同で対決した際の2人の哲学体系構想は、スピノザ主義に根底から規定されている。(P285)

…ドイツ観念論は、カントの影響を強く受けた絶対精神を主張するフィヒテに対し、絶対者を立てるシェリング、絶対精神を立てるヘーゲルという図式になるので、このスピノザの影響をめぐる記述は大いに納得できるところである。

コントの実証主義は、それまで形而上学が超越的反省の下で鋭く対立させてきた、主観と客観、経験と合理性といった認識の諸契機を、同じ人間性の事実として、同一平面上で、「組織的」に理解しようとするもので、このアプローチは社会学という学問を生み出した。社会学では実証主義が死活的に重要であり、コントは社会学の生みの親と言える。(P288)

神学の場合、形而上学が不可分に結びついている。この形而上学を脱却して、神学を再構成すると、現象としての宗教を見ていくため、宗教学になる。さらに社会学的な方法を強調すると宗教社会学になり、神学の発想とは違い、形而上学的なものをいっさい取り去った学問となる。(P289)

社会学は、当初、マックス・ウェーバーなどを中心に研究していたが、ポストモダン的な社会学の影響で、小さな差異を見るという社会学インフレになっている。それまでの社会学はコントが提示したしっかりしたディシプリン(規律/専門分野など)があった。それは確実な実証性を求める、ということである。(P290-1)

実証主義は、弁証法とぶつかる。弁証法というものは、対話の中で色々な議論を見つけていく立場であり、実証主義は客観的に正しいものがあるという見方故、弁証法的な発展や止揚もしない。反証主義的なカタチをとって、実証をより緻密にしていくので、根本的に異なるのである。(P295)

…コントの実証主義については、高校倫理ではあまり触れないのだが、かなり重要な位置を占めていると感じる。この感覚を大事にしたい。

2025年12月22日月曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録20

https://scrapbox.io/hitorigakusai/
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第20 回目。本日のエントリーは、イギリス経験論を中心に様々な断片的な内容。

淡野氏のテキストより「ベーコンの「経験」の中には、単なる外的経験ばかりでなく、超自然的な対象を把捉すべき内的経験も含まれており、それが”上なる神から受ける光”である限り、彼の思想の中には伝統的な教会信仰と近代的な科学研究の萌芽が混在している。」これに対し、佐藤氏は、この”上なる神から受ける光”という言葉が出てくることで、よくフリーメーソンと一緒にされるが、近代では”光”は啓蒙主義のことだといえる、としている。(P248)

これも淡野氏のテキストより「(ベーコンの)劇場のイドラの最も強力なものは哲学的伝統であり、(中略)一般にあらゆる独断的哲学の根本特徴は、基礎づけられない仮定と主張とにある。」これに対し、佐藤氏は、神学とはすべて独断論である、とコメントしている。(P250)

さらに淡野氏のテキストより「ヒュームはいかにもイギリスの経験主義者らしく、”習慣は人生における偉大な指導者であって、これのみが我々の経験を有用なものたらしめる”と揚言している点をもあわせるならば、ヒュームは単なる懐疑主義者というよりは、むしろ実証主義者という方が、いっそう適切ではないかと思われる。」ここでは、佐藤氏は、目の前にあるものを見ていくこと、今ある事柄を追認していくことがポジティブという考え方である。目の前にあるものに理屈付けしていく必要があるから、実証主義というのは保守的になる。自由主義神学の先駆者・シュライエルマッハーは『神学通論』の中で、神学とは1つの実証的な体系知であると述べていることを紹介している。(P265)

デカルトは、ある意味で「ゲシュタルト転換」を企てた思想家(=近代科学の規範としての記号代数、光学、機械論的医学を創設した。)と規定するするのが正しい、と岩波哲学思想辞典にあることについて、佐藤氏は、この「ゲシュタルト転換」をペットボトルで説明する。ペットボトルをグジャグジャに潰しても、ペットボトルは元の姿を想像できるのでペットボトルである(=これがゲシュタルト)が、切り刻んで断片にしたら、わからなくなる。これが「ゲシュタルト転換」で、ゲシュタルト心理学(画像参照)から来ている。いい友人だと思っていても、急に嫌な奴に変わったりするのが「ゲシュタルト転換」である。(P268)

…イギリス経験論のこれまでの思い込みを少しずつ崩してもらった話が多い。また「ゲシュタルト転換」なかなか興味深い話だった。

やっとWソックスに決まった

https://admsportsmanagement.wordpress.com/2015/06/27
ヤクルトの村上選手の評価がMLBではシビアに下がり続け、結局最弱球団と呼ばれるシカゴ・ホワイトソックスに決まったようだ。MLBの速球が打てないだろうという評価が、強いチームに避けられた最大の理由であるようだが、ここなら出場機会も十分ありそうだし、MLBに慣れるためには、実にいい環境だと思う。ヤクルトとしては、ポスティングの旨味は激減したが、本人にとっては、この屈辱を晴らして力をつけて欲しいと思う。それが男の美学である。

一方、ヌートバー選手が、ドジャーズにトレードされそうな報道も出てきた。今回のWBCは怪我のために参加できないが、大谷選手らと同じユニフォームを着ることになったら、例の大谷選手からプレゼントされた時計を返す必要もないだろう。(笑)怪我さえ治れば、三連覇と日本人ファンのさらなる増大に大きく貢献できるのは間違いない。私は、WBC日本カルテットを是非見たいと思っている。

2025年12月21日日曜日

グルジアの国名変更と日本

https://www.tryeting.jp/column/7635/
世界で国名が変更になった国は多い。小学生の頃から振り返ると、オートボルタがブルキナファソになり、ビルマがミャンマーになり、セイロンはスリランカとなった。新しいところでは、スワジランドがエスワティニになっている。

グルジアも2015年、国名変更し、現在ジョージアという名で呼ばれている。この経緯に関するYouTubeを妻が見せてくれたのだが、感動的な内容だったので、もう一度見ようとしたが、どんなに検索してもヒットしないのでURLを紹介したかったのだが…残念である。

要点を記しておくと、ジョージアはロシア語でグルジアと呼ばれていたが、2008年からの南オセチア紛争でロシアと対立し、その名を英語表記に変える決断をした。その旨を全世界に発信したが、ロシアの圧力を恐れ、了承する国はなかった。しかし、日本外務省の東欧担当の外交官が、その想いを受け止め、周囲の反対を押し切って外相、首相の承諾を得て、世界で最初の承認国となる話である。その恩義をジョージアの人々は今も忘れていない。かなりの親日国である、という話である。

2025年12月19日金曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録19

https://jp.123rf.com/photo_94877801_
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第19 回目。3日目の講義の冒頭でなされる、マタイ福音書14章13節~と、マルコ福音書6章30節~、さらにルカ福音書第9章10節~、そしてヨハネ福音書第6章1節~の話について。いわゆるパン5つと魚2匹で5000人に食べ物を与えたという奇跡の話である。これをどう読むかという内容である。

佐藤氏は、5や2は、多くの人数に対し、一部に魚やパンを持っていた者がいることの象徴的な数で、食料を「持つ」人が供出した人が出て、他の「持つ」人も供出することで全員に分け与えることが出来たという話(貧困問題は再配分によって解決できるという話)だとしている。弟子たちが金銭で解決しようとしたことや、弟子たちが大勢の信徒たちよりも上であると思っていたことへの戒め、さらには本気になって知恵を出せば、できることを示しており、これこそが奇跡であるとの教えであると語っている。(P244-5)

この「持つ」者とは食物だけのことではない、知識もそうであり、カネでたとえば予備校に行ってアウトソーシングして身につけるのは、一見簡単な解決法に見えるが、それはキリスト教的な解決法ではない。知恵を持つものが供出することで解決するのが、キリスト教的な考え方、一種の共同体論である。(P245)

…ちょうど神学生への講義の中間地点・後半戦の始まりで語られたこの有名な話。プロテスタント神学から見るとこうなるのか、なるほど…と思うのである。ちなみに、今日の画像はこの話をシンボル化したものだが、上記のX的な十字架、先日の学院の追悼ミサの際、神父が羽織っていた背中にあったものなので、この画像を選んだ次第。

2025年12月18日木曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録18

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第18 回目。本日のテーマは、ライプニッツのモナドである。

佐藤優氏は実にわかりやすくモナドを解説してくれている。スピノザの汎神論では実体は1つ、ただしそれは曖昧模糊としたもので世の中のすべてのものを全部統合し、これを神と呼んだわけである。そこに人格はない。しかし現実は、活動の主体として1人ひとりがいる。ライプニッツは、世界を考えるモデルを根本的に変えようと考えた。1人ひとり個性があるから、活動の主体は(物質的な)アトムではない。それがモナドである。モナドは、神以外作ることが出来ないし、消し去ることも出来ない。モナド自身が大きくなったり、小さくなったりして予定調和している。しかもモナドは互いに出入りする窓や扉を持たない。かつ、モナドは自分で自分の姿を見ることは出来ず、人の姿を想像することしかできない、と。(P237-8)

…前述のようにライプニッツは微積分を考え出した人なので、面白い比喩がある。気絶とは意識がなくなるのではなく、意識が極小化したのであって、回復可能というわけである。なるほど…。

予定調和については、個々の人間の能力の高低は生まれる前から決まっており、努力によってある程度変わるものの、限定的である。階級社会との親和性が強い。世界は身の丈で成り立っているという発想である。ところで、この予定調和の世界にも悪が小さな存在する。その悪をやっつけてこそ善が生まれるという「悪の自立論」となる。この悪の自立論については、神学的には悪の力を過小評価したアウグスティヌスの考えを完成させたもので、哲学と宗教を統一した至高の境地と見ることも可能なのであるが…。(P232-6)

…佐藤優氏は、この悪の自立という考えは、西側から生まれず、ドストエフスキーとの出会いが必要だったとしている。ドストエフスキーは、小説というカタチで正教世界が普通に思っていることを紹介した故に重要だと記している。これで、やっと2日目の講義分が終了した。

2025年12月17日水曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録17

http://math.artet.net/?eid=1421857&imageviewer&image=20120915_79752.jpg
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第17 回目。本日のテーマは、屋根裏の哲人・スピノザである。

ポルトガルでの迫害を受け、オランダに移住したユダヤ人(スファラディ)であったスピノザの主著『エチカ』は、幾何学的方法によって証明されたという副題がついている。書物全体が、76の定義と16の公理、259の定理、70の系、129の備考から成っている。推理によって特殊を普遍から導き出す演繹的方法として、デカルトの精神を一層徹底させたもの、といえる。当然ながら、それは、高校倫理でも出てくる「汎神論」であり、第1部「神について」で、8つの定義(画像参照)が掲げられている。(P215)

スピノザは、ここで、4つの概念を定義している。まず「実体」とは、それ自身に存在し、それ自身によって理解されるもの、換言すれば、その概念が形成されるために他のものの概念を必要としないものを意味する。(定義3)次に「属性」とは、実体の本質を構成するものとして悟性が認めるところのものを意味する(定義4)さらに「様態」とは、実体の変相をいう。換言すれば、自己意以外の他のものの中に存在し、またこの他のものによって理解されるところのものを意味する。(定義5)そして、「神」とは、絶対的に無限な実在、すなわち無限に多くの属性から成り立ち、かつその各々の属性が永遠無限の本質をあらわすところのものを意味する。(定義6)淡野氏は、これをまとめて、実体は、第一に自己因であること、第二に無限であること、第三に唯一であることが論理的に演繹されているとしている。佐藤氏は、ここで出てくる悟性について、理性は到達できないものに向かうのに対して、人間が認識できるところに向かうものと解説している。(P215-6)

…アムステルダムでは裕福な貿易商の息子だったが、家業のため高等教育は受けていない。またラビとなるための訓練を受けていたが、神を自然な働き・あり方全体と同一視する立場から、ユダヤ共同体から破門(ヘーレム)され、狂信的な信者から暗殺されそうになったと、Wikiに記載されていた。

スピノザは、スポンサーもいなかったのにどうして哲学が出来たのか?それは、高給のレンズ磨きに卓越した才能があったからである。制度化された学問の外側の知識人であり、大学あるいは貴族のお雇い家庭教師とは違い、自活した在野の知識人だと言える。しかもユダヤ人でありながら共同体から破門された孤立した人だと言える。(P217 )

…「屋根裏の哲人」というニックネームを聞けば、貧困な感じがするが、当時のレンズ磨きが高給であったことには驚く。(AIによると、これは誤解や混同によるもので、実際スピノザは屋根裏に住んでいたということはないらしい。)

スピノザは、デカルトの神・精神・物体という三実体説を論理的に発展させて、宇宙全体に存在している実体の総和を神と言っているわけで、この汎神論における神は、キリスト教の神とは違うものであると佐藤氏は断じている。この世には悪があるからで、汎悪魔論となる可能性すらあるからである。ちなみに大陸合理論でスピノザに続くライプニッツはこの問題を処理しようとする。(P217-8)

淡野氏のテキストでは、このスピノザの哲学体系は、ある意味最も整った哲学体系であると言わなばならないとしながらも、幾何学的大家の汎神論の中に、「生」の豊かさをそのまま携えて入っていけるとは思えない。その体系の狭さを嘆かざるを得ないとしている。(P223)

…スピノザとライプニッツは、高校倫理では教えづらい箇所である。哲学の継続性(前者と後者の批判的つながり)を語るうえでも、デカルトからスピノザはまだしも、ライプニッツはさらに難解である。次回はそのライプニッツを取り扱おうと思う。

2025年12月16日火曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録16

https://mindmeister.jp/posts/panse
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第16 回目。本日のテーマは、デカルトとパスカルと神学の関係性について。

デカルトの神の存在、その完全性(第二証明で、神は完全なものであると明記し、空想や経験で得られることはないとした。)という概念は、理性に過度な信頼を寄せたことで、長きに渡ってその責任を負わされることになった。なぜなら、神は完全であると強調すればするほど、遠藤周作の『沈黙』に描かれた悪の放置という問題にぶちあたり、神の存在証明と合理主義の結合は無力化することになる。これは、啓蒙思想を経てニーチェまで行って「神の死」などと言われるようになった神はデカルトが作り出した神であるということになった。フォイエルバッハやマルクスが否定した神でもある。キリスト教では、人間が「神はこうなっているのだ」と考えるような神は偶像であるとする。(P195 -7)

デカルトの神の存在証明は、発表された瞬間にパスカルに徹底的に叩かれている。デカルトはそれを無視した。このデカルトとパスカルの関係は、カントとヘーゲル、プラトンとアリストテレス、マルクスとキルケゴールといったそれぞれの時代精神を表す両極の「対」であり代表者であるといえる。それぞれ両極のどちらにシンパシーを感じるかで思考の鋳型が決まる。通常、プラトンに関心を示す人は、カント・キルケゴールが好きで、アリストテレスが好きな人は、デカルト・ヘーゲル・マルクスが好きだといえる、と佐藤氏。(P198)

ところで、デカルトは、デカルト座標を考案し代数学と幾何学を結びつけた数学者でもあるが、パスカルも「確率」という従来と違う数学を作り出した。人間の思考が変わる時、数学が変わるということも重要らしい。この後にライプニッツとニュートンによる微積分が考え出され、さらに天文学の発展により対数が使われるようになった。(P201)

さて、デカルトと「対」であるパスカルは、限界のある理性でなく、心によって真実を知るとし、「隠れたる神」を知ることができるのは神が受肉したことだけで、神性の部分は描けないとした。これが明らかにされるのが、神学的には「啓示」となる。ちなみにパスカルはあくまで哲学的で実存主義に近づいている。またルターはこの「隠された神」が可視化されるのは十字架(神は我々のために犠牲になられた)であるとしている。(P209)

…このデカルトの神の存在証明の西洋哲学における重さを再認識するとともに、パスカルや神学から見た批判は、かなり新鮮である。デカルトが数学Ⅰ、パスカルが数学Aに関わっているというも面白い。いや文系バリバリの私からしたら迷惑極まりない話である。(笑)

2025年12月15日月曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録15

https://www.koureisha-jutaku.com/20251210_01_03/
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第15 回目。いよいよデカルトと神学の関係性に入る。私は、これまで高校倫理の授業では、デカルトの第一証明(我思う、ゆえに我あり)、第二証明(神の存在証明)、第三証明(物体の存在証明)をセットで教えてきた。中でも神の存在証明は高校生には難解であるのだが、ざっくりと言うと、人間は、神の概念を持っているが、それは空想でも経験では得られない。神が存在し、生得的に人間にそれぞれ植え付けたとしか考えられない、故に神は存在する、という論理である。

この時期(17世紀)のスコラ哲学は、デカルトらと同じくらい大きな存在で、スコラ哲学が退潮していくのは19世紀に入ってからで、それまでは正統化された学問であった。上智大学神学部が、トマス・アクィナスを中心としたスコラ哲学を今もやっているのと同様、ドイツの神学部でもプロテスタント・スコラを学んでいる。よって、スコラ哲学は別の公理系として今も続いている。スコラ哲学は克服されたという一般史的の考え方は実態からずれている。(P181)

デカルトは、実は熱心なカトリックで、スウェーデン女王の家庭教師時代には女王を改宗させている。(画像参照)カトリックは合理主義と矛盾しない。合理性というものは神から付与されたものだと考える。救いが確実であることを合理的に組み立てていけばいい、神秘主義も合理的。こういう組み立てはカトリック的である。一方、プロテスタントは、特にデカルトの時代は極めて復古主義的で、反知性的であったため、このような考え方には行き着かなかった。その後、シュライエルマッハーが神を内部に留めた後は、プロテスタンティズムは合理的思考をするようになる。(P184)

デカルトの神の存在証明は、中世では証明する必要はなかった。神が主で、人間が上がっていこうとする主従の関係があった。しかしデカルトでは、(第一証明がまずあるので)人間が主、神が従となり逆転している。よって、デカルトの神の存在証明は中世の本体論証明とは本質的に異なっている。(P189)

デカルトの二元論は、神と被造物という二元論、その被造物についても、精神と物体との二元論であり二重の二元論である。たしかに淡野氏の言うように、哲学史は、前述のように一元論と二元論の間を振り子のように振幅する、というのがデカルトの基本テーゼであるといえる。(P192)

…スコラ哲学が19世紀までは正統であったこと、違う公理系として今なお存続(上智大学新学部の件は知っていたが)していることは、意外だった。スコラ哲学=中世という理解は改めなければならない。またデカルトが熱心なカトリック教徒であったことにも驚いた。カトリックの学校でお世話になっている身としては、この神秘主義をも含んだ合理性という感覚は少しばかり感覚的にわかる気がする。また「シュライエルマッハーが神を内部に留めた後」という記述については、バルトの解説本などで読んでいたので、なんとなく理解可能。デカルトの神の存在証明が逆転していることも十分理解できる。最後の二重の二元論も以後の振り子のような振幅も納得の記述であった。

2025年12月14日日曜日

バリ島の事件について

https://www.kkday.com/ja/blog/48017/asia-bali-february?srsltid=AfmBOor602Jwnd_H8jaOqiDc5HCmmm6w3DMmQY-H-mbYHh-iKMKkK1pT
京都大谷高校の事件について、教育関係者の端くれとして思うところを記しておきたい。単なる盗癖によるものではなく、アジア有数の観光地での集団的窃盗であることが特徴である。バリ島はインドネシアでもヒンドゥー教の島でああるが、刑法はイスラム法に則っており、外国人観光客も同様で厳しい。おそらくは、現地の刑法に従って裁判を受けることになると思われる。当然の報いである。また、学校サイドで言えば、退学勧告による自主退学ではなく、強制的な退学処分になるだろう。世界的な日本人の信用喪失という点から見ても自明の理だと思われる。

こういう窃盗は、偏差値と関係がないと私は経験的に思う。生活指導部長をしていた頃も、そういった話を偏差値の高い他校から聞いたことがある。高校に批判が集まっているようだが、学校教育云々という話は違うように思う。こういう基本的な道徳観の欠如はそれ以前の家庭教育の問題であると思う。とはいえ、京都大谷高校の信用は瓦解した。当分の間志願者は激減するだろうし、その立て直しに膨大な時間と労力を費やすことになるだろう。教育関係者の端くれとしては、学校関係者の方々の心中察してあまりあるところである。

2025年12月13日土曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録14

https://decski.waterpet.rest/index.php?main_page=product_info&products_id=620657
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第14 回目。本書では、トマス・アクィナスについてかなり詳細に論じている。神学生への講義故に当然であるが、スコラ哲学と近代哲学の関係性に移りたいと思う。

近世は、ヘブライズムとヘレニズムとラティニズムの文化総合体としてあり、それが世俗化していくのが、近代のプロセスである。(P177)

…ヘブライズムは、言わずもがなユダヤ・キリスト教の一神教的伝統、ヘレニズムはギリシア古典哲学。ラティニズムは、ローマ法を指す。この一節はかなり重要なテーゼだといえる。高校の倫理では、ラティニズムについてはあまり触れない故である。

淡野氏のテキストによると、中世は、上記の3つ(宗教・学問・国家)が一時、統合統一されたが、それぞれがそれぞれ他のものの奴隷になることなく自己に固有な権威と価値を主張するところに近代的世界が始まる、とある。佐藤氏は、淡野氏のルネサンスと宗教改革が、近代の分水嶺と見ていることについて、少し古いとしている。なぜなら、この時点では、国家とコルプス・クリスチウム(キリスト共同体)が崩れていないからだ、とする。現代においては、宗教の要素が著しく薄くなり、国家をベースに動くようになった三十年戦争後の1648年が分水嶺と言われている。またポストモダン後は、歴史の時代区分は強者の欧米から見た時代区分である故に、その「物語」を拒否し、各々の小さな差異を強調していく方向になっていて、通史という考え方が希薄になっているとしている。(P177-8)

…この通史の分水嶺の記述も、実に重要だと思う。岩波講座の「世界歴史」シリーズも第二版になるとポストモダン的な内容になっているという。学院の図書館にもあると思うので、是非確認しておきたい。

2025年12月12日金曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録13

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第13 回目。スコラ哲学の普遍論争について。

普遍論争は、「普遍」という概念について、実念論と唯名論に分かれて論争が起こっている。この両者の対比を佐藤氏は果物で譬えている。果物という概念がある。その果物には、メロン、栗や柿もある。このような考え方が実念論で、プラトンのイデア論的な発想に立つ。一方の唯名論は、栗は木になる。メロンは草、分類からはキュウリの仲間である。ということは栗がある、メロンがある、柿がある、そういった個物しかない。そこに便宜上付けた名称が果物である。すなわち普遍とは名前に過ぎず、個物を分類するための言葉で、実在するのは個物のみである。この普遍論争は、実在とはなにか、概念は現実にどう関わるのかといった根源的な問いであった。(P129)

カトリックの中にはいろいろな流派があるが、今のバチカンは、トマス・アクィナスが正統とされ、神学の基本になっている。トマス・アクィナスは、実在論の立場から唯名論の立場も調停して、普遍は神の知性においては、事物に先立って存在し、世界の中においては、事物の中に存在し、そして人間の知性においては事物の後に存在するとした。(P132)

ところで、トマス・アクィナスは、たいへんな量の本を書いている。その理由は24時間、3~4人の筆記係がそばに常駐し、口述筆記したからである。ちなみに『神学大全』は未完で終わっている。「私には出来ない。これまで書いたものは全てわらくずのように見える。」と言って、思考に疲れたからであるらしい。(P150)

…本書では、この普遍論争、これに、アベラールのアリストテレス的な思想や、オッカムのウィリアムの唯名論についても詳しく触れられているのだが、難解で何度読み返したことかわからない。ブディストの私としては、どう考えても不毛な議論にしか思えないからかももしれない。今日は少し、AIやウィキの助けを借りて記した次第。

2025年12月11日木曜日

メッツからディアス移籍

https://full-count.jp/2025/12/10/post1875683/
MLB関連の移籍に関するニュースは、ホントどこまでが本当かわからない。だが、メッツから凄い守護神・ディアスがドジャーズに来ることは間違いがないようだ。ドジャーズの三連覇を応援する身からは嬉しい補強だが、気になるのはメッツの悲惨なチーム事情。どんだけソトの悪影響が響いているのだろう。土台から崩れているようだ。

2025年12月10日水曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録12

https://turkish.jp/blog/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D/?srsltid=AfmBOoplUo_OJXsPgBQ_2vNP6gvU1kyycHglaQSjZewsJhKCnsUfDFjM
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第12 回目。思想における中世的世界の内容について。

まずは、キリスト教とユダヤ教の終末感の相違について。ドイツの神学者・モルトマンによると、キリスト教では、イエス・キリストの出現によって、すでに終末は始まっているので、救済は先取りされており「希望」(Hoffnung)、ユダヤ教では、救済が先取りされていないので、「待望」(Erwartung)という異なる構成になる。歴史認識としては、キリスト教では、イエスパレスチナに出現した時が人類史のどん底という認識であるが、ユダヤ教にはそのような認識はなく、ボグロムやホロコーストを体験している彼らからすれば、もっと悲惨なことが起こるかもしれない、キリスト教の歴史認識は根拠薄弱だと考えている。(P117-8)

…両宗教の終末観の違いは、実に重要な学びであった。あまりこういう基本的な相違は語られていない。

割礼について、エルサレムの宗教会議でパウロとヤコブ(プロテスタントの伝承ではイエスの弟にあたる)が対立し、その後パウロ派以外のキリスト教は絶滅するので、パウロがキリスト教のベースになった。とりわけ、パウロにウェイトをおくのが、プロテスタンティズムの特徴で、カトリシズムは天国の鍵を持ったペトロが初代教皇になった。(ペトロとパウロの像が、サン・ピエトロ大聖堂にあるのは周知の事実。)それに対して正教会が重視するのが使徒・ヨハネ(画像参照:洗礼者・ヨハネではない。)ロゴスがキリストになるというのは、それによって人が神になる道筋を教えてくださったから、という考えによる。さらに使徒・ヨハネが記したヨハネの黙示録で終末という考えが始まっているとする。(P120)

…以前読んだ佐藤氏の本の中で、正教会がとヨハネ福音書を重視することを学んでいたが、もう少し詳しく書かれた記述だった。ただ、「ロゴスがキリストになるというのは、それによって人が神になる道筋を教えてくださったから、という考え」については、改めて正教会の本を読んでみようと思う。幸い、学院の図書館には正教会関係の書籍も豊富に揃っている。

よって、キリスト教の開祖は誰かと問われた場合、中学から大学までの入試なら、イエス・キリストと答えるのが「◯」だが、神学部の定期試験や大学院入試では大いに「✗」となる。なぜならば、イエス自身は自分をユダヤ教徒と考えていたことは間違いないからで、正解はパウロである。(P121)

…これは実によくわかる。私が初めて学院に登校した日に、J大学神学科卒のW先生もそう言って笑っていたことを思い出す。

やがて、アウグスティヌスのスコラ哲学へと進む。ここで佐藤氏は淡野氏のテキストの原罪思想についての間違いを指摘している。アダムとイブが禁断の実を食べたから原罪を持ったのではなく、食べる前から原罪を持っており、自由意志の濫用(禁断の実を食べたという行為)によって原罪を受けたのではない。そもそもの原罪ゆえに自由意志を濫用したのである、というのが正しいとのこと。(P124)

…この点は私も誤解していた。こういう記述が実にありがたいのである。

2025年12月9日火曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録11

https://ameblo.jp/ks17lovinson/entry-12533873493.ht
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第11 回目。前回に引き続き、面白い記述を短文的に挙げていきたい。

ダンテの『神曲』で、地獄に堕ちる最も悪い「貪欲」は、食糧生産が乏しい時代ゆえ「食欲」である。16世紀、カトリックとプロテスタントは互いに非難し合っていた。ルターがすごく太った人物として描き、プロテスタント側も神父を太った人として描いている。(P92)

…実に子供っぽい話だが、なるほどと思う面がある。(笑)

西洋哲学の原動力は、一元論と二元論のあいだを振り子のように揺れ、螺旋を描いているというのが(テキストの著者)淡野安太郎さん独自の考え方である。その2つの流れの中で弁証法的な発展を遂げるというのが、彼の基本的な西洋哲学の見方であり、独自のものだがそれなりに説得性がある。やはり教育者として優れている。自分の頭で考えているから、こうやってわかりやすく、しかも実態から外れない組み立てができる。(P93 )

…この箇所は、実に教育者にとって示唆に富んでいる。私も浅学ながら自分の頭で考えてやってきた。これまで見てきた多忙な教師の多くは、出版社のつくったモノでお茶を濁しているように思えてならない。

(人間の理性:ヌースに対して)キリストは通常の人間が持つヌースではなく、ロゴスを持っているとアポリナリオスは言った。これに対し、テキスト(浅野氏)では、「アポリナリオスは、世界の一切を機械論的に説明しようとしている故に、最初の運動の起源の説明に行き詰まり、その解決策として突然舞台に天降らせた「機械仕掛けの神」(Deus ex machiina)たるそしりを免れることができなかった。」とある。この「機械仕掛けの神」は、中世の宗教劇によく出てくる。古代ギリシアの劇では、行き詰まって大変なことになるとハッピーエンドにるために、機械仕掛けのキリストがコロコロと天上から出てきて、お告げをする筋になっていた。ハッピーエンドに終わる劇のことをコメディと呼ぶ。それがいつしか喜劇という意味になってしまった。ダンテの『神曲』は、最後に天国に行くのでハッピーエンドの神聖喜劇と呼ばれている。(P98-99)

…「機械仕掛けの神」の存在もコメディの意味も初めて知った。この「機械仕掛けの神」、日本では水戸黄門の「徳川家の家紋の印籠」が最も近いという論もあるようだ。ところで、本日の画像は、中学生時代に見に行った「時計じかけのオレンジ」。ただ単に「機械仕掛け」の韻を踏んだだけのことである。当時、ベートーヴェンにハマっていたので見に行ったのだが、よくわからなかったスタンリー・キューブリック監督の問題作であり名作映画である。

2025年12月8日月曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録10

https://jp.123rf.com/photo_87701361
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第10 回目。4日間の講義・第2日目に突入である。まず第1日目のおさらいから。面白い記述を短文的に挙げていきたい。

キリスト教では、人間の救済が基本的な目的なので学知の構成には関心がなかった。ところが終末が遅延していくことによって、キリスト教がどういうものか、他者に対して説明せざるを得なくなり、ギリシア哲学の形式を借りた。これが神学の誕生。その時に、動的なる神と静的なるロゴスが結婚したのだが、木に竹を接ぐ不調和があった。哲学と結びついた神学は完成しない。しかも神が変容していくにしたがって歴史も変化するので、服の流行が変わるように、哲学も変わる。すなわち、その時代、時代の服である哲学の形で神学を表現しなくてはいけないのである。(P62-3)

…神学というものの特徴を見事に表していると思う。たとえば、バルト神学は、WWⅠの悲惨さや弁証法哲学を受けて構成されているといえる。

(西洋哲学な思考のの根本である)「対象」は東洋的ではない。合掌をする時、右手と左手のどちらが主体でどつらが客体?どちらが押して、どちらが押されているか?この説明ができないから、主客は同一化し、不二の関係にある。この合掌は、シンボリックに対象という考え方を否定するものである。(P63)

…この合掌にシンボリックされた主客同一・不二は、まさに仏教的な思想で、西田哲学に大きく取り上げられた。この譬は、もしまた仏教思想をやる機会があれば使わせてもらおうと思ったのだった。

(変化するものはあるとは言えないとした)パルメニデスは、エレナ学派の創始者であるが、このエレナは静かな土地で、人がほとんど来ないところ。それに対して(万物は流転すると説いた)ヘラクレイトスのいたエフェクスは交通の要所であった。(P65)

…この2人の出身地のエピソード、高校倫理の資料種にも出てこない。実に面白いと思うのだが…。

「ビュリダンのロバ」という中世の重要な命題。全く同じ餌が2つ、ロバの近くにある。前に置くとロバはその同じ餌のどちらを選択してよいかわからないので結局飢え死にする、という話。実際にはロバはどちらかを選択すが、マシな方を選ぶ判断をするわけで、全く同じものは2つ存在しないということになる。(P66)

…この「ビュリダンのロバ」という中世の重要な命題は、理性的判断を揶揄し、自由意志の必要性を重んじるという話であるらしい。

2025年12月7日日曜日

ポスターセッション 留学生参加

https://newt.net/aus/mag-066016825969
先日、学院にオーストラリアのメルボルン(画像参照)の姉妹校から1ヶ月ほど短期留学してくる子が、3年生の生徒宅にホームステイするそうで、私の地理総合の授業に参加することになった。期末考査後から来年にかけては、ポスターセッションをする予定のクラスなので、それはそれで楽しみである。

M高校時代は、こういう留学生が授業に参加してくる事例はよくあったので、私自身は特に問題はない。またまたサバイバルイングリッシュで対応するだけである。(笑)

ポスターセッションの候補国に、オーストラリアを入れているのでちょうど良いかも知れないと思っている。

2025年12月6日土曜日

祝 ロハス選手の再契約&雑感

https://news.ntv.co.jp/category/sports/6936b43fc4424425be00aaf0968f2e4e
最近のYouTubeのMLBの情報は、FAやトレードを巡って、視聴回数を稼ぐための過激な見出しとフェイクが多い感じがする。とはいえ、ロハス選手が来季もドジャーズに残留できるようになったのは事実のようで、実に嬉しい。

MLBはまさに生身の市場原理と言うか、アメリカのプラグマティズム的ビジネス感が凄い。選手はまさに商品。しかし、そこに数字に表せない価値もあるわけで、ロハス選手やキケ選手など、記録より記憶といった選手もいる。ファンはそれをよく知っている。

不確定情報だが、メッツがロハス選手に、ドジャーズの倍の金額を提示していたという話もあり、それにあのソト選手が勧誘を行い、勧誘失敗後のコメントで、ドジャーズ、就中大谷選手ら日本人選手を揶揄して、ロハス選手を激怒させたという話もでている。さらには嫉妬の塊のような品位に欠ける男は、ロハス選手だけでなく、ベッツ選手にも喝を入れられているだけでなく、困惑するメッツから元のヤンキースへの移籍などという話も出ていて、オーナー・編成部長との秘密会議で温厚なジャッジ選手に「トラブルメーカーはいらない。」と激怒させたとか。今季は、メッツとパドレスは実に品格面で、一気に評判を下げたようだ。MLBも人気商売であるので、これはビジネス面でも大きい。

フツーの日本人MLBファンである私などは、千賀投手もあんなメッツなど出ればいいのに、と思うし、イチロー選手や松井選手に対してあまりに冷徹な態度を取ったヤンキースにも日本人選手が行くことは避けたほうが良いと思う。

一方でMLBポスティングを狙う、NBLの村上・岡本両選手についても、怪我や守備面、速球対策とかで、あれほど騒がれていながら、暗雲が立ち込めているようだ。内野手である両選手は、かの松井稼頭央選手でさえ厳しかったことを考えればわかる気がする。

最後に、キケの去就が気になるところ。ドジャーズファンの心情を考えれば再契約濃厚だと信じたいが、テオヘルのトレード話も出てきて、両ヘルナンデスも是非残って欲しいと思うのである。ヌートバー選手の去就も気になっている。ドジャーズにぜひ来て欲しい。

佐藤優 哲学入門 備忘録9

https://7net.omni7.jp/detail/1102592402
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第9回目。東方教会・西方教会・プロテスタンティズムの神学の歴史的傾向性と現状について。

前述のテルトゥリアヌスはラテン語を使う神学者であり、ギリシア語が不得意で、よくわからなかったからギリシアや東方教会の精緻な議論は救済とは関係のない空理空論のように思えたらしい。ラテン語の神学では、法的な考えが強くなった。救いの確実性がローマ法的な形態で整理され、「教会法」が整備される方向に向かった。東方教会が神学的な議論が深化していく中で、西方教会は知的には弱かったといえる。プロテスタンティズムは、この神学的には弱い西方教会を継承し、なおかつカトリックの精緻なスコラ哲学に対する反発から宗教改革が起きたので、神学的にはなおさら弱い。(P76)

ドイツの神学者ヨハン・ゲルハルトによる”プロテスタント・スコラ”はあるものの、日本には殆ど入らず、そこに自由主義神学(ヨハン・ゲルハルトの正統主義に対し、聖書・教会・伝統といったものによらず、信仰の実在、人間の主体的な判断によって神学を探求する近代神学と呼ばれる。シュライエルマッハーが代表的)、さらに弁証法神学(カール・バルトによる神学運動で、危機神学とも呼ばれる。神の絶対的超越性、神と人との断絶を主張し両者の弁証法的関係から信仰が始まると説く。)が入ってきている、スコラ的なものをそもそも知らない。ましてや東方教会の精緻なカルケドン派の様々な議論や著名な神学者・ダマスコのヨハネによって集大成された『受肉論』などを知らないので、(プロテスタント神学は)神学的な議論には弱い。(P76-7)

神学的な議論が深化するのは、ロシア革命で神学者たちが強制追放あるいは自発的に亡命したことで、パリやNYで東方神学が翻訳されてからのこと。20世紀以後西方の神学研究のレベルが上がった。キリスト教をトータルに理解するには、東方教会の知識は死活的に重要だが、かなり難しい。現在においては、ギリシアではなく、ロシアとルーマニアの正教会の知的レベルが高い。(P77-8)

…このカトリックと正教会の神学的な伝統の差や、プロテスタント神学の現状については、実に興味深い指摘である。これで、やっと第1日目の講義内容が終了した。

2025年12月5日金曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録8

https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Unknown-artist/954611/
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第8回目。「ローマの神学者テルトゥリアヌスの、神学に哲学が不当に侵入していること」について。

前述のユスティノスやクレメンスは、哲学と神学の関係を調和的に理解しているが、テルトゥリアヌス(160年~225年頃:画像参照)は、対立的に理解していく。ユスティノスやクレメンスの考え方は、シュライエルマッハーや自由主義神学者、あるいはドイツのプロテスタント神学者ティリッヒに近く、テルトゥリアヌスの考え方は、バルトやチェコのプロテスタント神学者フロマートカに近い。後者の半哲学的・反知性主義のほうが、キリスト教神学ではメインストリームであるとのこと。(P69)

テルトゥリアヌスは、『異端者への抗弁』の中で、「アテネとエルサレムの間に何の関係があろうか。アカデメイアと教会の間に何の関係があろうか」と、神学と哲学の関係性を否定している。前述のマルキオンはストア派の出身であると。(P70-1)

さらにテルトゥリアヌスの「魂は死に従属しているということは、エピクロスの道を行くことである。」という箇所について、佐藤優氏は、重要なことを提示している。キリスト教でも肉体と魂があり、死ぬと同時に肉体は滅ぶ。ただし(魂は)復活する。エピクロスにおいては(魂の)復活はなく滅びておしまい。エピクロスは、グノーシス派やプラトン主義者のように魂は永遠に生きるとは考えない。ゲーテの『ファウスト』の魂はずっと生きて、そのまま彷徨っているなどという見方は当時のカトリシズムの標準的な見方で、現在もこのような発想が時々出てくる。プロテスタンティズムでも学園紛争の時代に学生(あまり勉強していない)だった同志社出身の牧師が葬式で、「今魂が自由になって天に上りました。」などというグノーシス派のような説教をしている場合もあるとのこと。確認:キリスト教神学では肉体も魂も滅ぶ。ただし復活する。(P70-2)

…この死生観は極めて重要だと思う。ブディストから見ると、この”復活する”という確信は正直なところ、やはり奇異に映る。ミケランジェロの最後の審判では、30歳くらいの肉体で復活する様が描かれているのだが…。

テルトゥリアヌスが言及している異端の多くは、グノーシス派、就中前述のマルキオンである。マルキオンは、旧約の神ヤハウェは悪神であり、キリスト教の神とは異なるとし、ユダヤ人は悪い律法をつくった、旧約聖書は一夫多妻を認めたり、暴力(ペリシテ人を殺せ)などが溢れていたりするとした。この反ユダヤ主義と繋がるのが、先日(11月4日ブログ参照)のドイツキリスト者である。(P72-3)

…ここでも神学と哲学の関係がさらに深く描かれている。ちなみに、チェコのプロテスタント神学者フロマートカとは、佐藤優氏の研究テーマであった神学者である。

2025年12月4日木曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録7

https://tetugakunou.com/yohane-rogosu/
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第7回目。「キリストはロゴスであり、ノモスである」について。

この「キリストはロゴスであり、ノモスである。」という、キリストとギリシア哲学ならびに旧約聖書との関係についての要約は、しばしば文学に見出されるとのこと。「ロゴス」とは言葉という意味のギリシア語でプラトン哲学で重要な意味を持っている。「ノモス」は法律を意味するギリシア語で、キリスト教信仰においてはパウロによって律法に割り当てられる重要な意味を持っている。この「キリストはロゴスでありノモスである」という言で、ノモスを強調しているのは、イエス・キリストが律法の完成者であることを意味している。(P67)

新約聖書は多くの場合、福音に対する2つの広義な聴衆の存在を明らかにしている。すなわちユダヤ人とギリシア人である。パウロのコリント人の信徒にあてた第一の手紙に「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(第1章22)とあるのだが、ここでいうユダヤ人のしるしとは、割礼である。神との結びつきのしるしなのだが、すでに律法はキリストによって完成されしまっており、キリスト教徒は洗礼によって結びつくろ考える。それと同じように、ギリシア人が持っているところの知恵(=哲学のこと)は十字架にかかって死に復活したキリストによって完成されている。だからキリスト者はもはや哲学にもこだわらないのだ、ということになるとのこと。(P68-9)

…なるほど。神学からの哲学への視点がよくわかる。ちなみに、ヨハネの福音書のロゴスからの視点は以下のHPが面白い。https://tetugakunou.com/yohane-rogosu/

2025年12月3日水曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録6

https://note.com/aokikendi/n/n22393f3e599d
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第6回目。「律法の役割と哲学の役割」について。

「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストの元へ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。」(パウロがガラリア人に宛てた手紙/第3章23-24)ここで、示された「養育係」というギリシア語は、前述のクレメンスが、哲学の役割の言及に用いた言葉と同じである。クレメンスは、読者がこの類比に気づくように意図したことは疑いがない。(P65)

ユダヤ教の時代、律法は救済への道を示したのだが、キリストの登場によって律法は完成した。ゆえに律法とは、イエス=キリストのことであるというのがパウロの立場。これに対して、マルキオン(85年~160年頃)という人物は、律法とキリストは完全に対立しているとして、パウロ書簡の一部とルカの福音書のみ(旧約部分は削除)の聖書を作る。このマルキオンの聖書(画像参照)に対し、正典派が起こり、旧約と新約を一体にする形で聖書をつくった。このマルキオンは異端とされ、彼への危機感がそうさせたらしい。(P66)

クレメンスによって哲学に与えられた役割も律法と同じ。神が受肉したからこそ、それを描くことが出来、概念化が可能になった。概念で表すことが出来たから、信仰に繋げることが可能になった。つまり、律法によって、我々は罪を知ることが出来た(=「律法は、わたしたちをキリストの元へ導く養育係となった」)が、罪から解放されるためにはキリストが必要だった。これと同じように哲学、概念によって神を理解する備えがされているとして「養育係」という同じ言葉が使われたといえる。(P67)

…本書は、あくまでプロテスタント神学生のための哲学講義なので、このような論議がされている。高校倫理の教師のテリトリーを遥かに超えた内容で、実に面白い。

2025年12月2日火曜日

永世中立国スイスの実態像

https://www.swissinfo.ch/jpn/politics/
永世中立国スイスのことは、今年の地理総合の授業でも話をした。元になったのは、十数年前に読んだ本である。今日、もっと詳しくまた視覚で学べるYouTubeを見た。

https://www.youtube.com/watch?v=44zC1trol2g

シェルターや、兵役と銃器のこと、各家庭に備わる分厚いマニュアルの存在など、これらのことは授業で話したのだが、実に勉強になった。

長いYouTube(52分ほど)なので、実際の授業では使いにくいが、とりあえずブックマークに入れておいたのだった。それくらい貴重な映像もあったわけだ。

佐藤優 哲学入門 備忘録5

https://note.com/artoday/n/nb9b00a432c35
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第5回目。「ロゴスー哲学と神学の関係」という実に興味深い部分について。

ここでのテキストは、マクダラスの「キリスト教神学資料集」が中心となる。2世紀にローマで書かれたユスティノスの『弁明』は、キリスト教を力強く擁護(当時は迫害時代)した書で、福音書と当時影響力を持っていたプラトン主義の形式を関係づけようとした。ヨハネの福音書(1章14節)には「言(ロゴス)は肉となって、私たちの間に宿られた」とある。キリストが、全人類が関与しているところのロゴスであり、そのロゴスに従って生活している人々(たとえばソクラテス)は、たとえ無神論者に数えられていてもキリスト者である。(P60-1)

この全ての人々は救済されなければならないとするユスティノスの信条から出た論理展開は、キリスト教的な集中ができなくなり、汎神論に解消される危険性がある。またキリスト教の核心的な「受肉」「十字架」「復活」が二義的な意味になってしまう。(P62-3)

また、アレクサンドリアのクレメンスは、キリスト教信仰とギリシア哲学の関係を詳細に扱っており、ユダヤ人にモーセの律法を与えたと同様に、ギリシア人には哲学を与え、キリストの到来に備えたと主張している。このキリストが旧約の完成であり成就と見られるのと同様にキリストは、哲学の完成であり成就であるという考え方を「予型論」(タイポロジー)と呼ぶそうだ。

…キリスト教神学とギリシア哲学の親和性からタイポロジー(画像参照:類型に基づいて分類・分析する方法論)まで、ロゴスをめぐる本書の内容は実に興味深い。

2025年12月1日月曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録4

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第4回目。第2章の古代哲学の続きで、プラトンとアリストテレスとの神学の関わりについて。

メタフィジック(=超越的なるもの)について、プラトンは外部の世界に置くのに対して、アリストテレスは内在的な形に置く構成になる。(P58)

プラトンのイデア論(上から下へ)についてはわかりやすいが、アリストテレスの質量と形相については、その目的論的世界観から、質量がつねに目的たる形相を目指して動き、下から上へと変化していくわけで、アリストテレスにおいては、「第一質量=神」となる。(P58)

このアリストテレスの考えを、トマス・アクィナスの神学体系が用い、神が静的な概念になった。これを動的な概念に取り戻そうとしたのが宗教改革の大きなテーマであった。(P58)

佐藤優氏は、カール・バルトの弟子のエーベルハルト・ユンゲルが「神の存在は生成においてある。」という重要な言を残していると記している。これは、プロセス神学(世界と人間経験を動的・創造的過程と見る。神はプロセスのうちにあるものとして有限であると同時に、プロセスに対して確定を与える無限なる者と捉える。)においても同様で、一つの鍵となる概念だとしている。一方で、こうした下から上に行くという考え方を再考し、上から下の一元論に映らねばならないとしたのが新プラトン主義であるとのこと。(P58-9)

…この一連の本書の記述は、実に興味深い。特に質量と形相の上下の関係性については、高校倫理では、あまり触れない。目的論は別個に扱うことが多い。これを組み合わせると、第一質料に神がくるということになるわけだ。また、異教徒には理解し難いが、この対比が宗教改革とどう結びつくのだろうか。この辺は実に興味があるところである。