2025年5月31日土曜日

イスラエルを理解する教材

引き続き、土曜になのでボチボチ教材研究をしている。昨日の続きで、律法の理解も重要だが、イスラエルという国の複雑さも教えておきたいと思い、さらにパワーポイントを追加した。イスラエルのユダヤ人の14%は超正統派、41%が正統派、45%が世俗派ということで、なかなかステレオタイプに判断できないのだが、およそ整理してみた。

超正統派は、バリバリの選民思想をもっている。男性はすべて宗教学者といってよく、職業を持たない。政府から生活保護を受けながら、子供を増やしている。今のところ兵役も免除されている。(かなり批判が強いので以後どうなるかはわからない。)意外なことに、彼らはシオニズムに対しては批判的な立場をとっている人が多い。

正統派も、職業を持ちながら律法を守り、(特に中東欧出身のアシュケナジは)シオニズム推進派である。危険を恐れず、ヨルダン川西岸やゴラン高原に入植するのは、正統派が多い。

律法厳守に熱心でない世俗派は、経済を支え、兵役につき、イスラエルを支えているがシオニズムに反対する(=和平派)も多い。私の印象では、フツーのアメリカ人、という雰囲気を持っている。民主主義国なので、言論も自由だ。

ユダヤ人以外にも、アラブ人(ムスリムだけでなくキリスト教徒も多い。)やその他のドゥルーズ教徒の人々もいるわけで、この多様性もイスラエル理解には欠かせないと思う。

2025年5月30日金曜日

ユダヤ教の律法を語る教材

https://illustimage.com/?id
=12736#google_vignette
曇天の朝。学院は校内球技大会なのだが、雨で中止の様相を呈していた。ところが朝礼前には青空になり、結局降水確率が高かった天気予報を覆して実施されたのであった。生徒たちは「てるてるボウズ(日本以外の読者のために右画像参照:晴天になるように祈るグッズ。)」をだいぶつくったらしい。(笑)

授業がなくなったので、帰宅してから教材を作っていた。一神教の話の中で、表面的ではなく、経験に裏打ちされたユダヤ教の律法の教材として、イスラエルに行った際、息子の下宿の大家さんに、安息日のディナーに呼ばれたことをパワーポイントで示してみた。この時のメンバーは、大家さん(正統派のユダヤ人で、超正統派ではないが一般人として信仰がかなり厚い方である。)、大家さんの奥さん、息子夫婦と私達夫婦、それに、大家さんの奥さんのご両親であった。YouTubeでよく使われるフリー素材の顔のイラストを使ってみた。(笑)

この時の言語状況は非常に複雑である。大家さんはヘブライ語と英語。奥さんはヘブライ語とグルジア(現ジョージア)語。つまりグルジア出身なのである。息子が最も多言語が話せる。ヘブライ語もアラビア語も(ドイツのユダヤ人の言語である)イディッシュ語、それに英語が堪能で、息子の奥さんは英語が堪能。私たち夫婦は日本語+ちょっと英語。奥さんのご両親はグルジア語のみであった。

よって、私が奥さんのご両親と会話するには、日本語で息子に伝え、ヘブライ語に通訳してもらい、奥さんがグルジア語で伝え、それが同じルートで帰ってくるという状況だった。

さて、安息日のディナーであるから、律法に決められた祈りを大家さんが行い、手の洗い方も複雑で、結局食事が始まるまで1時間弱かかった。(笑)奥さんのお母さんは、しびれを切らして途中退場してしまった。奥さんのご両親はグルジアからイスラエルに移住してきたユダヤ人であるが、そんなに熱心ではなく、血筋がユダヤ、というだけで、律法もヘブライ語もご存じないわけである。大家さんは、お構いなしに律法に沿ったお祈り・儀式を続けた。さすが正統派である。

この時に、大家さんの奥さんが高校の音楽教師であり、国内の高校生は、修学旅行でポーランドのアウシュビッツに行くこと。卒業してもすぐ兵役につくので、3年生は勉強に身が入らないと言うことも教えてくれた。お父さんが、グルジアで公務員をしていたことも教えてくれた。寡黙なお父さんだったが、最後に私はロシア語で、「ありがとうございました(スパシーボ)」。「さようなら(ダスピダーニア)。」と申し上げると、笑顔になってくれたのを思い出す。さすが、旧ソ連グルジアの公務員さん、ロシア語は解するのだった。

2025年5月29日木曜日

「サコ学長、日本を語る」Ⅲ

https://sunrise-okayama.com/archives/11978
元京都精華大学学長のサコ氏の「サコ学長、日本を語る」書評、第3回目である。前回に引き続き、少年期の話から。グレンと呼ばれる少年から青年になる時の割礼の通過儀礼で同世代の男の子は同時に割礼を受けるのだが、1ヶ月くらい前から集団生活をして、儀式と伝統について教えられ、そのグループ(10~15人くらい)は一緒に成長し、絆を深めるらしい。現在では、割礼は行われていないようであるが、この文化は現代でも残っているとのこと。

割礼は、ユダヤ教では生後8日目に行われるが、イスラム教は少年期、ここでもイスラム教的な話であると私は感じる。しかも現在は行われていないというのは、中東やマレーシアでは考えにくい。アフリカ北部のイスラム教は少し他の地域と違うのかもしれない。

このグレンという集団は、秘密を共有し、ある意味人間性を育む場所、恋人と付き合う時も結婚の時もグレンの仲間に相談し、大人になっても続く帰属意識の強い組織である。見捨てるという習慣はなく、親以上に親身になり説教もするし、喧嘩もあるとのこと。だが、喧嘩しても尾を引かないそうだ。

私は、このサコ氏の話から、薩摩藩の郷中制度就中、二才のことを思わず想起した。かなり内容は異なるけれども、青年期の同世代の若者が切磋琢磨していくという点では共通点がある。

ちなみに、マリのグレンでは、迷惑をかけるのは当たり前である。日本の迷惑をかけない文化に対しては、サコ氏は、本音を言わない、真の誠実さにかけると感じているようで、大好きな日本であるが、これだけは譲りたくないと語っている。

2025年5月28日水曜日

「サコ学長、日本を語る」Ⅱ

https://note.com/kyotoseika/n/nefc5cec3394d
元京都精華大学(画像参照)学長のサコ氏の「サコ学長、日本を語る」書評の続きである。昨日、妙にマリの宗教事情について記したのには理由がある。少年期の話の中で、サコ氏の父親が国家公務員であり、それなりに裕福であったようだが、多くの親戚や知人、そのまた知人などが居候していた話が出てくる。これをどう捉えるべきか?

一つの仮説は、最近「イスラームからお金を考える」で長らく記したが、イスラム教徒故の喜捨意識である。貧しいもの、困っている者への援助は、神の望む姿であり、天国に行く道であるからだ。

もう一つの仮説は、アフリカに存在する「情の経済」故である。富める者は貧しい者を助ける習慣があり、血縁・地縁が有効である。特に農村から都市へ出てきた者に冷遇はできないし、第三者から見るとタカられることが多い。それがフツーである。

私は、この2つの仮説の1つ、もしくは両方であると思ったのである。ただ、不思議なことに、サコ氏の父親は、カトリックの私立学校への入学を認めている。熱心なイスラム教徒ならありえないことではある。ただ、政権に近いエリートである国家公務員としては、息子を将来エリートとして育てるためには、フランス語の習得が必須である故に送ったとも取れる。

私は、マリの南部に位置するブルキナファソで、不思議な光景を目にした。それは、キリスト教徒の十字架が掲げられた墓地とイスラム教徒が埋葬されている墓地が共存している姿だった。中東やマレーシアでは考えられないと思う。意外に旧フランスの地域では、そんなに対立していないのかもしれない。ちなみに、イスラム復古主義者がキリスト教徒にテロなどを起こしているのは、旧イギリス領(ナイジェリア、エジプトなど)に多いといえる。

書評といいながら、仮説で終始してしまったが、実に興味深いところ。サコ氏は明確にイスラム教徒であるという記述はない。また彼の発想や意見には、あまりイスラム色も見られないと感じている。その内容については、次の機会に、と思う。

2025年5月27日火曜日

「サコ学長、日本を語る」

学院の図書館で、「サコ学長、日本を語る」(ウスビ・サコ著/朝日新聞出版)を借りて通勤時に読んでいる。サコ学長とは元京都精華大学の学長(2018~2022年)で、マリ出身である。

京都精華大学には、M高校時代とPBT時代に教え子を送り出しているし、教員にブルキナファソでお世話になった荒熊さんがおられる関わりの深い大学である。

内容は、まずサコ氏のマリでの伝記的な話から始まる。これが実に衝撃的である。書評の詳細はは後日に譲りたいと思っているのだが、マリの基本情報を先に記しておきたい。

マリは、かなり複雑な多民族国家である。サコ氏は首都バマコ出身なので、バンバラ人であると思われる。マリというと砂漠を連想するが、バマコは外来河川・ニジェール川に沿ったサバナ気候区に属する。宗教的には、少なくとも実家は、イスラム教スンニー派のマーリク法学派であると考えられる。メディナ時代のスンナを重視する点で他の法学派と異なるという特徴があるようだ。サコ氏の少年時代は、一党独裁の時代でブルキナファソと紛争を抱えていたようだし、現在も北部でトゥアレグの独立紛争など政治的・治安的に脆弱な状況が続いている。

マリといえば、世界遺産のトンプクトゥーを思い浮かべるとともに、NYCの国連本部を案内してくれた女性職員が、フランス語圏なのにキレイな英語を話すマリの人だったことを思い出す。…つづく。

2025年5月26日月曜日

イスラームからお金を考えるⅧ

https://ja.sekaiproperty.com/article/3770/stay-malaysia-islam
「イスラームからお金を考える」の書評、最終回。著者の言われている現代の金融資本主義を是正する手段としてイスラムの「無利子銀行」を始めとした、利子なき助け合いの経済は有効か?という問題についての考察である。

天国に行くための義務としてのイスラームの喜捨は、やはり神への絶対的な服従がなせる技であると思われる。人間には欲望(仏教的に言えば煩悩)がある。経済的な欲望を抑えることは至難である。故に神の設計図がない(=ユダヤ教やイスラームのような律法やシャリーアが存在せず、自然法的なスタンスを取らざるを得ない)キリスト教では、利子を結局のところ認めざるを得なかったといえる。多神教世界では、天国という概念が希薄だし、イスラームの喜捨という概念も理解できたとしても、実践に移すことは容易ではない。まして中国のような人口圧にまみれた世界では、欲望が他者のことなど考えない利己主義に昇華しているといえる。日本国内における米の買い占めやマクドの子供のための景品を買い占めに走る中国人の行動は嫌悪を頂くし、全く理解不能である。https://www.youtube.com/watch?v=2-8Ls958d2o

私はこれは深く人生観に関わる問題であると思う。カントは、判断力批判の中で、真善美という価値の追求を説いたが、ムスリムにとっては、それは神の領域であり、無意味なことである。ただただ神に従い義務を果たすというスタンスがあるからこそ、公平を実現できていると思われる。これは、善悪や正邪の問題でもない。マレーシアで3年半過ごした私は、ムスリムの生き方を否定しない。リスペクトべきであるとも思っている。だが現在の金融資本主義をイスラム金融や喜捨の精神が凌駕できるか、と問われれば、否と答えるしかない。

それは、神(ここではアッラー)への信仰がなにより必要だからである。その前提なしには、同じ神を信仰するユダヤ教徒やキリスト教徒では、義務的に欲望を制御できないし、多神教世界、就中、中国のような利己主義が価値として蔓延する人々には到底無理だと思うからだ。意外に、日本の文化には、他者への思いやりが根付いており、喜捨については理解が十分可能であると思われるが、日常的な実践についてはやはり無理が生じるのが現実であろう。ある意味で、残念な見解になってしまったが、この問題、これからも考えていこうと思う。

2025年5月25日日曜日

イスラームからお金を考えるⅦ

https://blog.goo.ne.jp/munehemmi/e/e011ec045657fa6733b168c1bdef4b86
「イスラームからお金を考える」の書評、今回は「無利子」について、他の一神教との比較をしながら、これまでの私の見識の中で考察してみたい。

利子の禁止は、一神教の基盤となっている旧約聖書の出エジプト記22章26節「あなたが共にいるわたしの民の貧しいものに金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはいけない。これから利子をとってはならない。」また申命記23章20節「同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も食物の利子もその他利子が付くいかなるものの利子もつけてはならない。」に記されている。

ユダヤ教の律法では文字通り同胞(=選民たるユダヤ人)への無利子を説いているので、異教徒で同胞と認めないキリスト教徒対象の金貸しの生業が発達した。キリスト教徒が利子を禁止していた時代にあって、農業を禁じられた故に幸いしたといっても良い。しかしながら、さらにカトリックも13世紀頃から実質的に認めだし、16世紀にカルヴァンが公式に5%までの利子、ヘンリー8世が10%までの利子を認めた後、19世紀にはカトリックも公式に利子を認めていく。(正教会は教会の慈善活動等以外は原則的に認めていない。ルター派は慈善目的など利子そのものではなく目的に応じて認める姿勢、英国国教会も、経済成長や社会貢献に関する限り禁止していない。)こうしてみると、利子に関しては、その伝統重視の姿勢は、ユダヤ教はさておき、イスラム>正教会>カトリック>ルター派>英国国教会>カルヴァン派という比較ができよう。カトリックの柔軟性と正教会の保守的なスタンスは、この利子という問題でも明らかである。とはいえ、現実の世界では、イスラムも経済活動のため正当化できるギリギリ一杯まで利子的なモノを存在させているわけで、他の一神教でもイケイケというわけではなくとも、事実上認めているわけだ。多神教の世界から見ると、ご苦労なことであるというのが実感ではないだろうか。

次に、イスラム教のスンニー派の大多数・穏健派における隣人観は国家や民族を超えている。(ただし、復古主義の過激派や、教義的対立関係にあるシーア派や政教分離観の強いトルコのクルドとの抗争を除く。)キリスト教圏においての隣人愛(画像参照)はかなり限定的で、国家や民族をイスラム教ほど超えているとは言い難い。ユダヤ教に至っては選民思想があり、他の国家・民族への隣人観は最も希薄だといえる。前述した欧米の既存銀行の「無利子銀行」サービスも、やはり預金者獲得(=利潤目的)の為と受け取っても良いのではないかと私は思っている。

著者は、現在の金融資本主義への批判を長く記しておられ、これからは、イスラムの知恵が有効ではないかと考えておられる。前述したように、比較的長い間書評を止めていたのは、このことに対する私の考察がまとまらなかったからである。

メッツとの死闘の裏で

https://www.youtube.com/watch?v=V_d0cPnJwZs
現地時間23日のメッツ・ドジャーズ戦は、雨による中断を挟み、5時間46分の延長13回の死闘だった。結局、ドジャーズが7対5で勝利したのだが、様々な判定や人間ドラマがあったようだ。

クレイトン・カーショーが2回を無失点に押さえ、いい立ち上がりだったのだが、雨で中断。かなり悔しかったようだ。ロッカールームでグローブを持ったまま忸怩としていた彼に。飲み物をもった大谷選手が近寄り、「投球はどうだった?」と聞かれ、「最高だったよ。」と答えたそうだ。これで、また次のために立ち上がれると、カーショーは感じたとインタヴューで答えている。

再開後、1死三塁ライトフライを取ったテオスカー・ヘルナンデスの返球で、三塁走者をホームで刺したのだが、三塁手のマンシーが、走者の視界を遮ったとして走塁妨害を取られ、セーフとなった。(画像参照:この判定には多くの野球関係者が疑義を表明している。)マンシーはベンチで深くうなだれていたが、大谷選手が誰よりも早く近づき、「気にすることはない。誰でもそういったミスはあるよ。次で打ってミスを取り返してよ。マンシーならできるよ。」と言ったそうだ。激しく抗議した監督やベッツやフリーマン、他の選手も声をかけようとしていたのだが、ここはやはり大谷選手だった。その後、マンシーは大谷のためにも打つと集中力を高め、タイムリーヒットを打つのである。(感動的なシーンだった。)

カーショーもマンシーもベテラン選手である。ドジャーズでは、ちょうと、2人のベテラン選手が解雇された直後だった。マンシーはインタヴューで自分の立場を深く憂慮していることを率直に述べている。MLBの世界は厳しい。そんな中での出来事だったのである。

ドジャーズはワールドシリーズ連覇を狙うチームである故に競争は激しい。だが、チーム内の士気は高く、互いに尊敬し支え合う素晴らしいチームだと思う。その中には、MVPトリオ、就中、大谷選手がいる。いよいよ投手としての復帰も近いらしい。

2025年5月24日土曜日

イスラームからお金を考えるⅥ

https://globe.asahi.com/article/15341885
「イスラームからお金を考える」の書評の続きである。利子が禁止されているイスラームにおける「無利子銀行」についてである。利子の禁止を守りながら、利子に代わる儲けがきちんと手に入る方法として、近代以前のムスリム商人たちが使っていた「ムダーラバ」という方法がある。これは、お金を持っている人が、借りたい人と協力(情報をあたえたり、知友を紹介したりといった間接的な協力)して商売を行い、あらかじめ決めた比率で儲けを分け合うシステムである。もし、儲けがなかったら、お金は帰ってこない。

「無利子銀行」は、借りたい人とムダーラバ同様の関係を持ちつつ、元本が減ることを想定しない預金者ともムダーラバの関係を持つ。「無利子銀行」が黒字であれば、預金者の元本は保証されるという二重のムダーラバ関係を結び、成立しているわけである。

そもそも、この「無利子銀行」の構想は、1941年にパキスタンのマウドゥーディーが、ヨーロッパの利子を取る金貸しによって貧しいムスリムが苦しんでいることを憂い、利子のない社会の実現を訴えたのがきっかけである。1960年代になって、我がマレーシアで、メッカ巡礼に行きたい人のための「無利子銀行」タブン・ハッジ(上記の画像は現在の本社)が設立された。預金者は毎月少しずつ預金し巡礼資金を貯め、その預金をムダーラバで増やし、巡礼資金を増やす道を開いたのである。1970年代には、UAEのドバイ・イスラーム銀行が設立され、それまで銀行嫌いで、金などの貴金属に財産を変えていた信心深いムスリムが大挙して押し寄せた。

https://globe.asahi.
com/article/15341885
こんな中、私の尊敬してやまないマハティール首相は、資本主義の問題点を十分に理解していたので、ビジョン2020の牽引役として「無利子銀行」に期待を寄せた。これによって新しく作られた「無利子銀行」もあったが、既存の銀行の多くが「無利子銀行」のサービスを始めた。(左の画像は、マレーシアにある普通の金利システムとイスラムの無利子システムの併用されたATM)マレーシアではムスリムではない中華系やインド系の人々もこの「無利子銀行」の利用者が多く、中東とともに「無利子銀行」の二大拠点になっている。成功するはずがないと冷ややかに見ていた欧米諸国の銀行も参入し、現在50カ国・600行に広がっている。

ちなみに、2023年現在の「無利子銀行」の各国の比率は、サウジが75%、ブルネイが67%、クウェートが51%、マレーシアが31%、カタールが29%ほど。その他、バングラディシュ、ジブチ、UAE、パキスタン、ヨルダン、パレスチナ、オマーン、バーレーンなどが続く。

2025年5月23日金曜日

イスラームからお金を考えるⅤ

http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran002-5.htm
久しぶりに「イスラームからお金を考える」の書評。随分と間があいたのは、この本の基軸的主張についてあれこれ考えていたからである。その件はまた後述するとして、本日は、クルアーンを中心に据えていこうと思う。

第2章「雌牛」第275節に「アッラ-   は金儲けをお許しになっている。」とある。この世で金儲けをすることが天国に行ける可能性を高めると捉えられている。さすが商人の宗教と言われる所以である。マルコの福音書に「金持ちが天国に行くよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ簡単である。」という記述があるが、180度違う。ただ、イスラーム的な正しい3つの金儲けの方法がある。1つ目は利子の禁止、2つ目はギャンブルの禁止、3つ目は喜捨の義務である。

第2章275章の続きには、「アッラーは金儲けをお許しになっているが、利子は禁じられた。」また第3章「イムラーン家」130節には「信仰する者たちよ、倍にも何倍にもなる利子を貪ってはならない。」とあり、利子自体も支払期日が過ぎた時の延滞利息も禁止されている。第2章275章の別の箇所には「利子を取る者は、悪魔に取り憑かれた者がようやく起き上がるようにしか起き上がることができない。」という警告があり、第4章「婦人」第161節にも「禁じられた利子を取り、不正に他人の財産を貪った者には、痛ましい懲罰を準備している。」第30章「ビザンチン」39節には、「利子を付けて人にお金を貸しても、アッラーのもとでは(天国に行ける可能性は)何も増えない。」第2章第276節には「人々が利子を付けてお金を貸した時には、アッラーはその恩恵を消し去る。(=最後の審判で地獄行きになってしまう。)」ともある。

イスラームの利子禁止について著者は、不労所得を嫌う故としている。また利子の存在が経済格差を生み、7世紀のメッカでは利子による経済格差が深刻な社会問題化になっていたので、経済の潤滑油的な側面を認めつつも、社会の安定を最優先させたといえるらしい。

ちなみに、イスラーム的な正しい3つの金儲けの方法・2つ目のギャンブルの禁止については、運不運によって結果が変わってしまう故で、先物取引や保険も同様。イスラームは全てをアッラーに委ねる故、アッラーにしかわからない未来の出来事を金儲けのネタにすることは、アッラーによって創造されたこの世界のあり方を人間が自由に変えることができるという人間の奢りに対する警告だといえる。

喜捨については、体験的に前述したが、第9章「悔悟」第60節に「喜捨は、貧者、困窮者、喜捨を管理する者、イスラームに改宗した者、奴隷解放のため、負債を抱えている者、アッラーの道のために努力する者、旅人のためのものである。」とあり、アッラーを介して人から人へお金を受け渡す役割・再分配の役割を喜捨が支えているといえる。…つづく。

2025年5月21日水曜日

期末の学習範囲の精選

明日が地理総合の中間試験だが、期末の学習範囲を言語や宗教に決めた以上、ある程度の準備を進めておく必要がある。採点が始まるとできない。(笑)昨年度、この範囲は2学期の中間の範囲だった。記録を見ると授業時間数は10コマから9コマというところ。本年度の1学期の期末はそれより各クラス、2コマほど少ない。ここは、学習内容を精選するしかないわけだ。

今年度も、世界価値観調査の表(英語版)を使う。言語の授業の後、2コマ目はこの表の解説(プリントに調査のもとになったアンケート問題もいれてみた。)を軽くした後で、グループならびに各国名の和訳、さらに主要な宗教の調べ学習(上記画像はその一部)をしてもらう。昨年度、どんな質問がされるかも承知しているので、そこはすでに記入したりして少し容易にしておいた。そのうえで、宗教の比較の講義を行うのだが、順番も変えた。

昨年度は、カトリックと正教会、プロテスタント、一神教の対比という順番で講義した後、最後に世界活観調査の資料を4分割して講じた。これを、先に4分割してそれぞれ考察することにした。すると、一神教(特にイスラム)、正教会、プロテスタントという順になる。この方がわかりやすそうであるし、前述したバルト三国の話など逸話も挿入していく予定。今年度は、地理をベースに、世界史・日本史・政経・倫理といった社会科的な教材も挿入すると生徒に言ってあるので、岩倉使節団の話をプリントに入れた。「精選」とは、「省略」と同意語ではない。

岩倉使節団の最重要な点は、あまり仲の良くない大久保や木戸の両名が、欧米では教会が政府を支える権威となっていることに気づいた点だと思う。(生徒には、代表例としてカトリックがカール大帝の戴冠の話をして、この視点を理解してもらおうと思う。)正教会は、権威ではなく、二人三脚で政府を支えている場合が多い。ロシア正教では核兵器に祝福を与えるなどという話があるくらいである。さて、彼らは、キリスト教に代わる明治政府を支える権威を天皇制に求めた。それが軍人勅諭、教育勅語さらに、二人の間に立った後継者・伊藤博文の天皇主権の大日本帝国憲法へと昇華していくわけで、明治史の根幹に関わる問題だからである。こういう話は受験の日本史ではなかなかできないはずである。

2025年5月20日火曜日

バルト三国の相違点

https://tabizine.jp/2017/09/11/150725/
バルト三国は、ソ連崩壊直前、最も過激に離脱運動を展開して日本でも有名になったが、その共通点はともかく、相違点はあまり認識されていない。

共通点は、エストニア・ラトビア・リトアニアの三国ともEUにに加盟するユーロ圏であり、シェンゲン協定加盟国であり、NATO、OECDの加盟国である。これだけ見るとまさに三国と一括りにされてしまうのだが、言語や民族、歴史などはかなり違う。

高校の授業レベルで解説すると、まず言語はそれぞれ、エストニア語・ラトビア語・リトアニア語と違う。特に、エストニア語は、フィンランドと同じウラル語族に属する。民族的にもエストニアはフィンランドに近い。宗教的にも、フィンランドと同じルター派が多数派になっている。

次にリトアニアは、ポーランドとの結びつきが強くカトリックが多数派である。「世界奇景探索百科」にも載っている「十字架の丘」(画像参照)は、ソ連時代に何度か破壊されたが非暴力的抵抗の象徴として生き残り、ポーランド人教皇のヨハネ・パウロ2世の祝福を受け世界的に有名になった。この話は授業も挿入したいと考えている。とはいえ、リトアニアはそもそも非キリスト教国で、北方十字軍ドイツ騎士団との抗争が続き、耐えかねてポーランドと同盟を組みカトリックを受け入れた歴史がある。

https://ameblo.jp/toshi-atm-yamato/entry-12444314597.html
フィンランド的なエストニアと、ポーランド的なリトアニアに挟まれたラトビアは面白い。言語的・民族的には、バルト系なのでリトアニアに近いが、無宗教が多数派である。ラトビアも多くの支配を受けてきたが、キリスト教の受け入れ以前からラトビア神道(画像参照)と呼ばれる多神教があって、まさに日本の神道とよく似ている。無宗教が多数派というのは、日本同様の玉虫色の宗教観なのかもしれない。

…いずれにせよ、バルト三国を一括りで見るのは違うと思うし、生徒諸君への知的刺激として語りたいものだ。

2025年5月19日月曜日

ベルギーの二言語問題の話

https://saspecialist.southafrica.net/jp/jp/topics/entry/jp-jp-kruger-national-park
ベルギーは、オランダ語系のフラマン人とフランス語系のワロン人という、異なる二言語の国家であり、ベルギー語というのは存在しない。いわゆるベルギーの言語問題である。さてフラマン人とは2つ、ワロン人とは1つ思い出がある。

M高校在職時代、ある日の放課後、校門付近でフラマン人のカップルと出会った。観光で大阪に来ていた2人に、日本の学校を案内してあげようかと言ったら、是非というので教頭に了解をもらい、校内に入れた。M高校は、国際的な雰囲気をもっているので、生徒たちも外国人には興味津々なので英語でどんどん話しかける。ちょうど茶道部がお茶会をしているという情報が入ったので、連れて行った。外部から来ておられた茶道のご年配の先生も歓迎していただき、生徒に英語の通訳をさせながら彼らに茶道を教えてくれた。フラマン人カップルは正座には苦しんでいたものの、良き日本体験ができたと非常に感謝してくれたのだった。

南アのソウェト・ツアーで知り合ったフラマンの母娘とツアー中にいろいろ話した。近日中にクルーガー国立公園(画像参照)に行くらしい。一方、ドイツ人の女性教師とも同じ宿の中庭で知り合った。彼女は、英語が苦手だが、ゲルマン系なので皆から英語で話しかけられ困っていた。そこに英語が苦手そうな東洋人が翻訳機を片手に英語の漫画本を読んでいるのを発見したらしい。気軽に話せると思ったのだろう。日本に来たこともあるそうで、彼女もクルーガー国立公園に行くのだと言っていた。夜のレストランで、母娘とドイツ女性が離れて食事をしていた。私は、母娘にドイツ女性を紹介した。なぜなら、フラマン人の話すオランダ語とドイツ語は近い言語だからだ。意思疎通は英語を介するより楽なはずで、ドイツ人女性にとってはクルーガーに行く間、気が楽になると思ったからだ。案の定、フラマンの母娘とドイツ人女性は会話が弾んだようで、私も良いお節介が出来たと思っている。

オランダ語は、英語とドイツ語の中間のような存在。だから、福沢諭吉が蘭学から英学に切り替えたことを長い間すごいと思っていたが、たいしたことではない。ベルギーのフラマン人がオランダ語系であることと、このゲルマン系三言語の関係性を知っていれば、このようなお節介も可能なわけだ。

ところで、フランス語系のワロン人とは、四国・三崎高校で出会ったことがある。知己の中学の教頭先生宅でミカン収穫を手伝っている若者だった。英語は、かなり厳しいようだったので、挨拶で終わってしまった。(笑)ラテン系のフランス語を使うワロン人とのコミュニケーションは、やはり難しい。というような話を授業でしていたのだった。

2025年5月18日日曜日

世界の民族と言語の教材

教科書的に言えば、民族とは言語や慣習、歴史などを共有することから、共通の帰属意識をもつ集団であると言える。言語との関連性は極めて強いが、イコールではない。

世界最大の国家を持たない民族であるクルド人は、ペルシャ語系のクルド語を言語としているが、地域による方言があり、しかも興味深いと思うのだが、それぞれ方言ごとにラテン文字やキリル文字、アラビア文字が使われている。

今回は、中間試験でヨーロッパの地誌を出題している関係上、ヨーロッパ内でラテン系・ゲルマン系・スラブ系に属さない地域(バスクやフィン、マジャールなど)も紹介するつもりだ。また、バルト三国もそれぞれ違うし、UKでもイングランドの影響が強いものの、スコットランドやウェールズ、アイルランドもなど本来はケルト系の言語である。時間の関係でどこまで伝えれるかはわからないが…。

私が言語の中で最も重視しているのは、AA諸国の公用語が旧宗主国のものであることが多いことである。これは、いろいろな理由があるのだが、欧米列強が勝手に国境線を引いたため、エスニックグループ(私は”部族”という語彙を使いたくない。)が分割され、多言語なうえに国内でも意思疎通に支障をきたす故という理由が大きい。ケニアでは、スワヒリ語を小学校過程で学び、セカンダリースクール(中高)ではすべて英語での授業となる。スワヒリ語は前述の意思疎通のため、英語は高等教育では、スワヒリ語でカバーできない語彙を使わざるを得ないからだ。こういう言語能力による格差が生まれている。そんなことを伝えたいと思っている。

2025年5月17日土曜日

世界はラテン語でできている2

https://eiga.com/movie/56149/
「世界はラテン語でできている」(”ラテン語さん”著SB新書)を読んで、最も感銘を受けたのが、巻末の「テルマエ・ロマエ」の作者・ヤマザキマリさんと著者の対談である。テルマエ・ロマエは映画にもなった帝政ローマ時代の漫画で、作者のヤマザキ女史によると、今もラテン語はイタリア語の中に生きているとか。てっきり学術名とカトリックの世界以外では死語になっていると思っていたのだが、日本語で言うと四字熟語のような使われ方を今もするらしい。

昔、アメリカ視察旅行で視察したデトロイトの外国語学中心の高校でラテン語専攻の生徒が、「我々だけ学んだ言語先に行く修学旅行がないのです」。と言っていたのだが、今思うとイタリアに行くという学校側の選択肢はあったのかもしれない。

ラテン語が語源(さらにはギリシア語のそのまた語源)のとなるのは、ラテン語起源のロマンス語(イタリア語の他に、仏語、西語、葡語、ルーマニア語など)だけでなく、英語の語彙にも多い。最も適当な例となる語彙の繋がりは、結局amor(愛)がわかりやすいのかなと思う。仏語ではamour、伊語ではamore、西語と葡語はそのままの綴である。とはいえ、英語の方が生徒にはわかりやすいので、historyの語源はラテン語のhistriaであるくらいかなと思う。生徒たちはChromeBookを持っているので、自分で調べさせるのもいいかなと考えている。

2025年5月16日金曜日

世界はラテン語でできている

中間考査の印刷も終わり、期末試験までの授業のコマ数を確認したら、模擬試験や行事の関係で、他より少ないクラスがあって、月曜日の授業は自習の予定を取りやめ、期末の範囲を始めることにした。今年の地理総合は、「神なき時代の終末論」にあった国家の4段階(表層から順に、国家の理想、現実的な利害、歴史的な民族の背景と宗教、最下層には風土)を基本コンセプトにしていて、中間考査の範囲で、地形と気候(関連して農業も)の「風土」の部分を概説した。期末は、その上層にある「歴史的な民族の背景と宗教」をやろうと思っている。

中間試験を挟んで授業をするのは、少し憚れるのだが、まずは民族と言語の関係をやろうと考えた。昨年試行した世界の価値観と宗教の関係図が中心課題となるだろうが、その導入としたいのである。で、急遽、だいぶ前に購入した「世界はラテン語でできている」(”ラテン語さん”著SB新書)を通勤時に読んだのだった。ラテン語がヨーロッパの言語に与えた影響はすこぶる大きいので、教材としていいかなと思ったのである。私は、こういう言語に関しては苦手意識が先立つ。最もいい教材となる箇所を探しているところである。

2025年5月15日木曜日

世界奇景探索百科

学院の図書館で、「世界奇景探索百科 ヨーロッパ・アジア・アフリカ編」(原書房)を借りてきた。昨日の47都道府県オブジェつながりではあるのだけれど、オブジェというには、オドロオドロしたものもたくさんあって、たしかに奇景の連続である。地誌を教える上で参考になればと思うのだが、授業ネタにしにくいものも多い。

https://ageofrevolution.org/digitisation-of-
jeremy-benthams-papers-now-complete/
今回記しておきたいのは、イギリス編でユニバーシティ・カレッジ・ロンドンにある「ベンサムの自己標本」である。功利主義の哲学者であるベンサムは、遺言で自分の遺体の取り扱いについて詳細な遺言(防腐処理、黒のスーツを着て、まっすぐ椅子に座り木製の棚の中に置くこと。またこの遺体を功利主義哲学者の定期会合に議長として出席させること。)を残した。しかしながら、防腐処理に問題が起き、頭部は悲惨な状態になった。そこで蝋で作ったレプリカを取り付け、本物の頭部は足元に置かれることになった。この頭部はイタズラ好きの学生より、誘拐され£100の身代金を慈善団体に支払えという要求が大学に要求された。大学は£10しか払えないと回答すると元に戻された。ひどいのはこの頭をサッカーボール代わりに使われたらしく、大学は考古学研究所の金庫に保管することになったという。これは倫理の教材となりうる話である。

…ベンサムはなぜ自分の遺体を標本として残そうとしたのだろう。快楽計算の結果であろうことは間違いない。思うに後継の定期会合に議長として出席し続けるという権威を最大の快楽だと考えたフシがある。そこまで権威に執着したいのかと思うし、だからこそ大学に£10の身代金の価値しかないと査定され、サッカーボール代わりにされたような気もするのだった。

2025年5月14日水曜日

47都道府県のオブジェ

https://mombetsu.furusato-direct.jp/spot/37/
YouTubeで、”1番インパクトのあるオブジェが優勝”というのがあって、実に面白い。この中で、私が実際に見たことがあるのは、北海道の紋別市のカニの爪と、滋賀の甲賀市のたぬき、大阪・吹田市の太陽の塔、兵庫県・神戸市の鉄人28号、そして愛媛県・鬼北町の鬼王丸の5箇所しかないのだが、岩手県・遠野市のカッパ、福島県・相馬市のコンセント、愛知県・常滑市のとこにゃん、鹿児島県の叫びの肖像などもなかなかインパクトがある。

https://www.youtube.com/watch?v=x59DJj8ZpRs

日本には、こういうオブジェがどんどん作られているようで、特に道の駅などの集客の目玉になっていきそうだ。まさに地方創生の証である。私個人としては、昔むかしに訪れた北海道・紋別のカニの爪が1番だと思っている。文字通り、すごいインパクトがあったのである。第二位は、阪神・淡路大震災を乗り越えて作られた神戸市・長田の鉄人28号かな。

2025年5月12日月曜日

47都道府県 神々のパレード

AIの凄さを感じるのは、特にグラフィックである。今朝、日本の都道府県を代表する神々の行進というYouTubeを見た。

https://www.youtube.com/watch?v=pkhcGJU1Ndg&t=191s

私は宗教学の徒であるが、神道は苦手である。漢字が複雑で読み方も難しい。この映像は知っている神もいてなかなか面白い。

見るからに怖い神も、美しい女神もいる。神々は動物を引き連れているのだが。大阪の神はビリケンでキリンだったし、和歌山の神はパンダだったりする。鳥取の大国主と歩くのはウサギ、これはわかる。徳島の金長狸は当然狸をつれている。この辺動物チョイスも面白い。背景もそれぞれ工夫されており、実に楽しい。そんなに長くないしお勧めである。

2025年5月11日日曜日

大阪環状線の駅の話

https://www.jorudan.co.jp/time/rosenzu/
YouTubeで大阪環状線の各駅に降りて一周するという企画のチャンネルを昨日今日と食事時に見ていた。長く大阪に住んでいるので、関西本線の駅だったが、環状線のホームも追加されて最近できた今宮駅以外は全部降りたことがある。

YouTubeの順に見ていくと、大阪駅は言わずもがな。福島駅は、教員免許の延長のために、この駅近くの通信制大学に3日間通った。野田駅は、かなりレアで中学時代の担任が薬局を開店(理科の先生である。)した時に降りた。西九条は、M高校時代顧問だったソフトテニスの試合で降りた。弁天町は、大阪市の教育センターがあり、研修やらアメリカへの教員派遣の打ち合わせとかで度々降りた。子どもの時は、交通博物館の駅だった。大正は、大阪ドームで大阪市立の高校展があって何度か降りた。芦原橋は、高校時代、体育祭の応援団だったので太鼓をレンタルするために降りた。新今宮も南海線に乗り換えるため、さらには故ピーター・オルワ氏が来日した際に新世界をともに散策した。天王寺も言わずもがな。高校時代は美章園という阪和線の駅が最寄りだが、よく天王寺まで歩いた。大阪市立美術館や動物園にも度々行ったわけだ。

寺田町は、I工業高校の最寄り駅で15年間乗り降りした。桃谷は、そもそも自宅の最寄り駅。鶴橋も近鉄乗り換えだけでなく、度々降りたし、焼肉屋に寄ったこともある。玉造はT商業高校の教え子の寮があったので降りたことがある。森ノ宮は、高校時代、野指連の関係で月2くらいのペースで中央青年センターに行っていた。大阪城公園には、1度だけ大阪城ホールに行くのに降りた記憶がある。京橋は、学研都市線の関係で今や最も降りることが多い駅である。桜ノ宮にも義弟が開店したコンビニによるために降りた。天満も、天神橋筋商店街を歩いて友人の家に行ったり、ワンワールド・フェスティバルがここで開催されていたこともあって何度か降りた。

こうしてみると、長く生きているなあなどと思う。最近はめったに乗らなくなったのだが…。

2025年5月10日土曜日

大谷選手の11号と12号HR

https://www.youtube.com/watch?v=28krRGWoz4E
9回2アウト、0-5で走者なしの場面で、昨日は大谷選手が11号ソロホームランをかっ飛ばした。この最後まで諦めない集中力で、敗戦したドジャーズの選手たちの士気を救ったのであった。

そして、今日は大乱打戦となり、9回にドジャーズが追いつき、1アウト、1・2塁の場面で12号3ランを2日連続でかっ飛ばした。いやー。凄い。昨日の伏線を自ら回収したわけだ。

見ていてヒリヒリするようなゲームだった。スーパースターという表現を超えたパフォーマンスである。チームを牽引する実力と士気、そして気遣い、これをベッツやフリーマンというスーパースターが支え、若手もどんどん触発されていく。昨日は残念ながら山本は敗戦投手となったが、今日先発の佐々木は負け投手にはならなかったし…。大好きなキケも頑張っていたし…。ホント、最高のチームだなと思う。

2025年5月9日金曜日

イタリア人青年と新教皇

https://mononoke.asablo.jp/blog/2023/03/29/9572859
久しぶり(ブルキナファソ帰国時の空港以来)に、イタリア人の青年と話をする機会があった。授業が終わり最寄り駅でのことである。といってもお互い拙い英語での会話である。アルプス山脈の麓から日本に観光に来ているという。京都、金沢、大阪と回ってきて、東京に行くそうだ。およそ観光地でない城東区・鶴見区に来たのは、近くにある念法眞教の総本山を訪れたかららしい。かなり意外だった。日本は美しく、日本人のマインドも素晴らしいと褒めてくれたので、感謝の意を表した。

「コンクラーベが終わったね。」と言うと、さすがはイタリア人、もちろん知っていた。

新教皇は、アメリカ生まれで、ペルーで長く活躍していた。レオ14世を名乗ることになったのは、19世紀のレオ13世(画像参照)を尊敬している故らしい。興味があったので、少し調べてみた。レオ13世は、トマス・アクィナスの神学を用いて科学と宗教の共存を志向し、労働者の権利を認め、資本主義の搾取に警告(但し、マルクス主義や社会主義は否定している。)した教皇で、レオ13世のように社会問題に関わり、弱者に寄り添いたいと、前教皇のフランシスコの改革路線を継承する旨を新教皇は発言している。

私は第三者であるので、これ以上のコメントは避けるが、なんにせよ新教皇が誕生し、バチカンの地元・イタリアの青年との会話もあった一日であったわけだ。

2025年5月8日木曜日

冷・寒帯の授業 すべらない話

気候のすべらない話シリーズ最終回。私は、これまでいろいろな気候区の国に渡航してきた。冷帯では、Dfは北海道、Dwは北京で経験した。さすがに寒帯のET(ツンドラ気候区)・EF(氷雪気候)には行ったことがない。

最寒月が-3℃以下で最暖月が10℃を超えるのが冷帯である。夏の北海道で、無茶苦茶暑い日も経験したことがある。宿泊施設にクーラーも扇風機もなくて閉口した。(笑)さて、冷帯の2つの気候区の違いは冬に雪が多いか否かという違いである。北海道の方は、”しばれる”という寒さの表現をするのだが、雪が降っている方がまだ温かく感じるらしい。よって、Dfの方がDwより寒さはマシであるといえる。(上記画像参照)北海道に行った方ならわかると思うが、常緑広葉樹は少なく、落葉広葉樹と針葉樹が植生の中心になる。Dwでは針葉樹が殆どになる。シベリアなどではいわゆるタイガと呼ばれる森林となり、シベリア鉄道はタイガばかりの変化のない車窓風景となってしまうらしい。ところで、シベリア鉄道では、冬季は電気による暖房ではなく、石炭ストーブだということを昔ある本で読んだことがある。それは万が一の停電=凍死の事故に備えているというのが理由である。(今はどうかは知らない。)

ETとなると、最暖月でも10℃以下という世界である。行ったことはないし、行きたいとも思わない。理由は夏、凍土層が溶けてツンドラという地衣類や苔類が現れるのだが、ボウフラにとっては、水たまりが多いし絶好の繁殖地となるからである。熱帯の蚊も恐ろしいが、実はETが最も蚊が発生する地域なのだ。昔、TVで”グレートジャーニー”という番組があって、ベーリング海峡をカヌーで渡り、ETの地域を馬で旅するシーンがあったのだが、まさに地獄のような蚊の群れが押し寄せていた。この時ばかりはまるで養蜂家のような姿で旅をしていた。馬の目に膨大な蚊が押し寄せていて、実に可愛そうだった。

EFは1年中、0℃を超えない南極や北極海沿岸である。まあ、授業でも説明不要だと思う。

…すべらない話シリーズは、さすがに冷帯・寒帯ではあまり多くない。

2025年5月7日水曜日

温帯の授業 すべらない話

温帯は、日本のCfaを始め、Cw、Cs(地中海性気候)、Cfa(西岸海洋性気候)の4つの気候帯に分かれる。大体、Cfaは日本の気候なので殆ど触れない。Cwのイメージは香港。Awの友達で、夏は暑く降水量も多い。工業高校時代、香港に行くなら夏は避けたほうがいいと教えながら、実際家族でに行ったら、空港を出た途端にムア~とした空気に驚いた。ホテルに荷物をおいた後、少し散策したがパンツまでびしょ濡れになったことを思い出す。私の高校時代は、ブルース・リーを筆頭に香港映画全盛期だった。そこに登場する香港の人々は、ランニングシャツか開襟シャツで、コートを着た人物は、「少林サッカー」という映画以外見たことがない。(笑)

共通テストでよく出題されるのは、CsとCfbである。Csは、BSの友達といえる。夏は乾燥帯と一緒で植生も耐乾性のオリーブやブドウ、コルクガシといった特徴的なものである。たしかにイスラエルに夏行ったが一切雨は降らなかった。Cfbは、暖流と偏西風の関係で高緯度でも温暖(といっても最暖月の平均気温が22℃を超えない)で、1年中雨が多いが、Cfaとは全く違う。Cfbの雨は弱い。そのイメージは、トレンチコートである。WWⅠの塹壕(=トレンチ)戦で登場したコートで、ショボショボ降る雨なら傘いらずである。銭形警部は帽子とトレンチコートを着ているが、これで十分。傘をさすのは無粋の極みである。ちなみに、ニュージーランドもCfb。これは暖流を受けた偏西風がオーストラリア大陸の南岸を進んで、ニュージーランドに達するからで、Cs・Cfbともに大陸西岸に分布するのが法則だが例外といえる。ちなみにCfbにも桜は咲くが、花びらが舞うCfaと違い、花ごと落ちる。そんなことも語ると面白い。

2025年5月6日火曜日

乾燥帯の授業 すべらない話

GWが終わり、明日から授業再開である。熱帯に続いて、乾燥帯(BW:砂漠気候・BS:ステップ気候)について語るのだが、すべらない話の続きを記しておこうと思う。乾燥帯も実に話題が多い。湿潤な日本とかけ離れているからだと思う。

砂漠というと日本では、漢字の影響もあって砂の砂漠を連想するが、実は礫砂漠や岩石砂漠のほうが多数派である。流石にアラビア語のサハラというのは広大な砂砂漠の意で、私はブルキナファソの北限、サヘルの村まで行った。サハラの砂は粒が細かすぎて、持ち帰ろうと密封したのだが、帰国後キャリーバックを開けると砂だらけになっていた。それほど細かい。礫砂漠や岩石砂漠は、アメリカのカリフォルニアからネヴァダ、アリゾナを旅したときイヤというほど見た。車を止めて喫煙していると、どこからともなくシェリフ(ポリスではない)の車が来て、サソリに注意という看板を指差し、ここは危険だぞと教えてくれた。(笑)ラスベガスに近い(といっても100kmくらい)GSでボンネットに手をついて火傷したこともある。

砂漠は、気温の日較差が年較差より大きい。サヘルで、ガイドのオマーンが宿泊費を間違え、蚊帳のかかったマットで野宿した際は、持っていた服を全部来て就寝した。夜はかなり冷える。ストロングな朝日が昇って暑くて飛び起きた。(笑)この辺は、日干しレンガで十分モスクが作れる。年に一度は泥で修復する必要があるらしいが…。

BWやBSでは、乾燥に強い羊やヤギが家畜の主流である。もっと乾燥に強い野良のラクダも見た。(笑)牛でも乾燥に強いのもいる。ちなみに、雄牛は何頭もいると喧嘩するので、早めに去勢して肉牛候補となる。京大の公開講座でアフリカで去勢に使われる木槌を見せてもらったことがある。(上記画像はマサイによる去勢)その他にもいろいろな方法があるらしいが…。ブルキナで羊とヤギの家畜市を見たが、耳がたれていたら羊、立っていたらヤギだ、ということをワガドゥグに戻ってから緑のサヘルというNGOの方に教えてもらった。

BWの年降水量は250mm以下と少ないのだが、突然の豪雨もしばしばあり、ワジという涸れ川を形成する。意外だが、砂漠での事故死は水死が最も多い。このワジに沿って隊商をしているところに鉄砲水が押し寄せてくるからである。

BWでは、基本農耕は不可能だが、外来河川やオアシス付近では可能で、私の大好物のデーツ(なつめやし)が名産品である。BSもアフリカなどでは、雨季前に種を撒き、メイズ(白いトウモロコシ)や雑穀(ミレットやソルガム)を作れる。ウクライナやアメリカのBS地域では灌漑による世界的農業地帯が形成されている。灌漑で失われたアラル海や、オガナラ帯水層とセンターピボットの話もする。最後は、前述(4月24日付ブログ参照)のニジェールの大山先生の快挙の話ででしめようかと思っている。

令和の学徒動員

https://www.youtube.com/playlist?list=PLKTupB8IAwg48vSqbIKhK1OXAlKqH_Uu0
大阪万博の馬鹿馬鹿しさについては、もうあまり書きたくはないのだが、YouTubeで、児童生徒の率直な感想や教育関係者の感想を聞くと書かずにはおられない。

多くの小学生などは、行った当初は木製のリングからの景色が良く目を輝かせるらしいが、結局入りたいパビリオンにも入れずリング上をただただ歩くだけで、疲れたという感想が多い。中学生だとグループ行動だと思うが、小学生をあの広く、暑く、トイレも休憩所も少ない(さらに爆発の危険性すらある)会場に解き放つことは、リスクがありすぎるだろう。

私は高校の教師なので、校外学習や修学旅行などで、常時グループ行動をさせてきたが、リスクを感じたことは一度もない。ただ、小学校や中学校となると別である。私には、小中の教員となった教え子がかなりいる。彼らの苦労を思うと決して他人ごとではない。教え子から管理職はまだ出ていないが、維新からの圧力と自分の教育理念とのバランスをとるのは、かなり難しいだろう。なんでこんな馬鹿な行政のために胃を傷めなかればならないのか、と思う。交野市や吹田市は実に賢明である。トップが腹をくくれば、そのような無駄なストレスは解消される。まあ、いつも教員志望の生徒には、維新の台頭以来、大阪での採用は避けろと言ってきたのだが、まさに的中である。

YouTubeでこの状況を、来場者数を増やすためだけの、「令和の学徒動員」という表現がされていた。今年の流行語大賞はこれで決まりだ。

2025年5月5日月曜日

イスラームからお金を考えるⅣ

https://jp.123rf.com/photo_63130700_
「イスラームからお金を考える」(長岡愼介著/ちくまプリマー新書)の書評の続きである。Ⅱ・Ⅲで記した重要な視点を本日はつなげていきたい。

それは、Ⅱで記したムスリムは、アッラーの教えに従うことで死後に天国に行かせてもらうことが最重要であること。Ⅲで記したムスリムの血縁・地縁を遥かに超えた隣人観と喜捨(ザカート)の精神である。

著者は、ムスリムの利己心と利他心について、次のように述べている。(趣意)「自分のことを第一に考えたいと思うのは抗しがたい人間の性で、誰もが自己を犠牲にして人助けができるほど人間は強い存在ではない。その点、同じ人助けができるのであれば、自分の欲望を無理に抑えないやり方でやってみればよいと言ってくれるイスラーム式助け合いの考え方は、人間の弱さに寄り添ってくれるもので、誰にでも理解可能なものである。」

…すなわち、天国に行くためには、隣人を助け喜捨することが必要である。利己心と利他心のどちらが主であり従であるか?主は天国に行きたいという利己心なのである。このスタンスは、従である利他心をたとえ義務的ではあっっても不可欠なものにする。実に興味深い人生のスタンスだといえるだろう。

…キリスト教の場合は、ここまではっきりと利己心と利他心を説いていないように思われる。信仰が深化することでこの両者がアウフヘーベンされると思う。聖書の福音というカタチで利他心(=隣人愛)が示されているが、イスラームのように、あからさまに説かれている=指示されているとは思えない。同様に、大乗仏教の場合は、信仰が深化することで菩薩道が解かれ、利己心(煩悩)よりも利他心の方が上位に置かれていると私は感じる。涅槃経にあるように、雪山童子はその身をかえりみず死を覚悟し、後世に悟りの内容である「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」(無上偈=いろは歌)を自らの指を切り血でしたためたという説話からもわかる。

…イスラームの分別は、信仰の浅深の問題ではない。このあたりが、実にわかりやすい。

2025年5月4日日曜日

イスラームからお金を考えるⅢ

https://career-diversity.com/2024/06/17/eid-aladha/
「イスラームからお金を考える」(長岡愼介著/ちくまプリマー新書)の書評の続きである。さらに重要な視点を2点挙げたい。

まず、ムスリムにとって、隣人とはムスリム全てであること。私の経験では、マレーシアでマレーの生徒との対話の中で、イスラエルへの敵意を感じることが多かった。同じムスリムのパレスチナ人を隣人と捉えていたこと。難民問題を話していて、ミャンマーのムスリム・ロヒンギャの人々をマレーシア政府は受け入れるべきか否かと問いかけた時、即答で皆がYESと答えた。国家を超えて隣人として見ていることは明白であった。(ただし、同じムスリムでも、シーア派に関しては隣人だと言いかねるらしい。その理由はアシュラという祭の存在だった。よって、スンニー派の中ではという但し書きが必要かもしれない。)本書でも様々な例が引かれていたが、私自身の体験からもムスリムの隣人意識を推し量ることができる。

次に、喜捨(ザカート)についてである。シャリーアなどに記されている詳細は後に譲り、これもマレーシアでの体験に基づいて記しておきたい。マレーシアでは、駅などで物乞いを見かけることが多い。ムスリムを中心に相手が、中国系であれインド系であれ喜捨する姿を頻繁に見た。バスなどで席を譲るのも民族を超えてよく見た。こういう利他の姿勢はマレーシアでは決して珍しくない。独立記念日には、国王による貧しい人のための非常に大規模な食事会が催される。たまたまその日にバスに乗ったのだが、貧しそうな身なりのバングラディッシュ人たちが大勢乗ってきたのに出くわしたことがある。また、犠牲祭(イード・アル=アドハー:本日の画像参照)の日には、モスクで牛を屠り、貧しい人々に分け与えられるのを屋外から見学したこともある。数日前からモスクには、牛が何頭か繋がれていて、まさに”ドナドナ”感が漂っていたが…。ムスリムの世界では、富める者が貧しい者に分け与えるのは当然のこととされている。モスクも、国立や州立のものもあるが、多くは、スルタンが寄進したものをはじめ、富める者が寄進しているのが普通である。ちなみに、隣人観と重なるが、各モスクには日本の寺院の檀家制度のようなものはない。ムスリムであれば、どこのモスクに行こうと全く問題はないのである。

こういったムスリムの隣人観、喜捨の精神といった視点が本書の基軸をなしている。…つづく。

2025年5月3日土曜日

イスラームからお金を考えるⅡ

http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran057.htm
「イスラームからお金を考える」(長岡愼介著/ちくまプリマー新書)を読み終えたので、書評を記そうと思う。 本書の鍵となるイスラームの教えがクルアーンの第57章第11節にある。

「アッラーへの貸付をした者には、アッラーがそれを倍にして返済し、さらに気前の良い報償を与えるだろう。」

さて、授業でこんなことを生徒諸君に聞いてみることがある。あなたが最も重要だと思う命題を次の内から選んでほしい、と。命題は、①自由 ②豊かさ ③平和 ④平等 ⑤死後天国に行くことの5つである。おそらくアメリカ人なら ①自由を選ぶだろう。ニューハンプシャー州のスローガンは「自由を。しからずんば死を。」という激しいものである。中国人なら②豊かさが絶対である。マレーシアにいる時旧正月に金にまつわる様々な風習があった。なにより教え子の中華系の生徒もカネ儲けの重要性を吐露していた。日本人なら、③平和となる。実際何度このアンケート(手を上げてもらうだけだが)を実施しても、平和になった。日本の国是は平和主義なのは間違いない。④平等は昔の社会主義国ならありえるが、日本ではそんなに重視されてはいない。⑤は日本では大抵ゼロになる。だが…。

ムスリムにとって、⑤の天国へ行くことが最重要なのである。アッラーにより、すべての行動が決定されており、アッラーの指示どおりに生きることで天国行きが保証されていると信じるところにイスラームの真骨頂があるのである。前述のクルアーンの一節は、アッラーのために喜捨することの利を説いているのである。…つづく。

2025年5月2日金曜日

ライチのリキュール

普段酒を嗜むことがない私なのだが、先日某スーパーでライチのリキュールを見つけて購入してみた。GWの連休であるし、夕食後に炭酸でわって飲んでみた。アルコール度は14%なので、そんなに強くない酒なのだが、少し飲みすぎたようで、フラフラになった。(笑)今日は朝から中間考査試験問題を作っていて、まずは第1版が完成したし、まあいいかと思う。

ライチは、マレーシアではフツーにある果実。皮を剥くのが苦手だが、蛋白で美味しい。 

2025年5月1日木曜日

超久々に「第5」を聞いた。

学院は、明日は芸術鑑賞の日で、大フィルと吹奏楽部・コーラス部がコラボすることになっている。学院の吹奏楽部もコーラス部も全国レベル。すでに昨日、西成区の大フィルの練習場に行って合わせてきたそうだ。すごい話であると私は思う。大フィルは故朝比奈隆が率いた関西でNo1のオーケストラである。

パンフを見ると、メインでは、ベートーヴェンの「第5」をやるそうだ。高校生の芸術鑑賞としては超・オーソドックスである。そこで、ホント久しぶり(何十年ぶり)にYouTubeで聞いてみた。中学時代、クラシック音楽に凝っていて、「第5」などはLPが擦り切れるほどに聞いた。「第5」は第1楽章が有名すぎるが、私自身は第3楽章が特に好きである。冒頭近くのホルンが高鳴る時が最高にいい。第4楽章も荘厳で好きだ。中学時代の魂は今も脳裏に焼き付いていて、曲の流れを覚えていた。

音楽の理論は成績もそこそこ良かったので、楽器の演奏はともかく、指揮者に憧れた時期がある。当然挫折したのだが、後に教員になった後、商業高校の文化祭で吹奏楽部の指揮を何度かとって実現した。(笑)

クラシック音楽の造詣は、やはり教養のひとつであると私は思う。先日学院のS先生と、カラヤンの指揮とフルトベングラーの指揮がどうのと、「第5」の話題で盛り上がったのだった。本日の画像はアマゾンでセールしていたカラヤン指揮の「第5」のLP。同じものが自宅の屋根裏部屋で眠っている。800円の値がついていた。