2011年10月18日火曜日

歴史教科書 30年のスパン

『こんなに変わった歴史教科書』(山本博文ほか著)という新潮文庫の新刊を読んだ。本校では今日から中間考査で、ちょうど日本史の試験の監督だった。で、教室の後ろにある生徒の日本史の教科書を、パラパラめくっていると、私などの世代が学んだ日本史の知識がいかに古くなっているかを再確認した。

自慢ではないが、私は日本史を32年の教師生活の中で2年間しか教えていないし、それも近現代史しか教えていない。近世以前に関しては、全くの一般ピ-プルである。歴史学の進捗を、およそ30年のスパンで見ているこの文庫本、もちろん知っているものもあったけれど、やはり刺戟的であった。

今は大和朝廷と呼ばず、ヤマト政権と呼ぶらしい。堺市の仁徳天皇陵は大仙古墳という名前になっていた。聖徳太子や源頼朝の有名な肖像画は前に「伝」という字がついていた。『伝聖徳太子』『伝源頼朝』。要するに、そう言われているが、はっきりしないぞ、ということらしい。我々が習った元寇はは、モンゴル襲来と呼ばれており、2度目の弘安の役はたしかに暴風雨が大きな原因で元軍が退いたが、文永の役は暴風雨が原因ではなくなっている。我々の世代は二度の暴風雨だと習った。島原の乱は、島原・天草一揆に変わっていたし、インドのセポイの反乱はインドの大反乱になっていた。もちろん、東学党の乱も甲午農民戦争である。

これらは、30年間の歴史学会の学術的論争によって変更されてきたものなので、文句を言う筋合いのものではないが、なんか釈然としない。(笑)当時の歴史では正しかったのので、恩師に責任はない。世界史でも、久しぶりに教えていると、人名の読みが変わってるものも多い。うーん、感が狂う。オクタビアヌスと習ったが、オクタウィアヌスになっていたりする。ついつい、古い名で説明してしまう。地理や政治経済は、時代によって、どんどん資料が新しくなるが当然なので平気で認知できるだが、歴史がこんなに変わっていると、やっぱり感が狂うのだ。

これは「教育」というものが、いかに大きな影響を与えているかという事実の確認でもある。我が使命の大きさを再確認させられた本でもあった。

0 件のコメント:

コメントを投稿