2025年12月19日金曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録19

https://jp.123rf.com/photo_94877801_
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第19 回目。3日目の講義の冒頭でなされる、マタイ福音書14章13節~と、マルコ福音書6章30節~、さらにルカ福音書第9章10節~、そしてヨハネ福音書第6章1節~の話について。いわゆるパン5つと魚2匹で5000人に食べ物を与えたという奇跡の話である。これをどう読むかという内容である。

佐藤氏は、5や2は、多くの人数に対し、一部に魚やパンを持っていた者がいることの象徴的な数で、食料を「持つ」人が供出した人が出て、他の「持つ」人も供出することで全員に分け与えることが出来たという話(貧困問題は再配分によって解決できるという話)だとしている。弟子たちが金銭で解決しようとしたことや、弟子たちが大勢の信徒たちよりも上であると思っていたことへの戒め、さらには本気になって知恵を出せば、できることを示しており、これこそが奇跡であるとの教えであると語っている。(P244-5)

この「持つ」者とは食物だけのことではない、知識もそうであり、カネでたとえば予備校に行ってアウトソーシングして身につけるのは、一見簡単な解決法に見えるが、それはキリスト教的な解決法ではない。知恵を持つものが供出することで解決するのが、キリスト教的な考え方、一種の共同体論である。(P245)

…ちょうど神学生への講義の中間地点・後半戦の始まりで語られたこの有名な話。プロテスタント神学から見るとこうなるのか、なるほど…と思うのである。ちなみに、今日の画像はこの話をシンボル化したものだが、上記のX的な十字架、先日の学院の追悼ミサの際、神父が羽織っていた背中にあったものなので、この画像を選んだ次第。

2025年12月18日木曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録18

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第18 回目。本日のテーマは、ライプニッツのモナドである。

佐藤優氏は実にわかりやすくモナドを解説してくれている。スピノザの汎神論では実体は1つ、ただしそれは曖昧模糊としたもので世の中のすべてのものを全部統合し、これを神と呼んだわけである。そこに人格はない。しかし現実は、活動の主体として1人ひとりがいる。ライプニッツは、世界を考えるモデルを根本的に変えようと考えた。1人ひとり個性があるから、活動の主体は(物質的な)アトムではない。それがモナドである。モナドは、神以外作ることが出来ないし、消し去ることも出来ない。モナド自身が大きくなったり、小さくなったりして予定調和している。しかもモナドは互いに出入りする窓や扉を持たない。かつ、モナドは自分で自分の姿を見ることは出来ず、人の姿を想像することしかできない、と。(P237-8)

…前述のようにライプニッツは微積分を考え出した人なので、面白い比喩がある。気絶とは意識がなくなるのではなく、意識が極小化したのであって、回復可能というわけである。なるほど…。

予定調和については、個々の人間の能力の高低は生まれる前から決まっており、努力によってある程度変わるものの、限定的である。階級社会との親和性が強い。世界は身の丈で成り立っているという発想である。ところで、この予定調和の世界にも悪が小さな存在する。その悪をやっつけてこそ善が生まれるという「悪の自立論」となる。この悪の自立論については、神学的には悪の力を過小評価したアウグスティヌスの考えを完成させたもので、哲学と宗教を統一した至高の境地と見ることも可能なのであるが…。(P232-6)

…佐藤優氏は、この悪の自立という考えは、西側から生まれず、ドストエフスキーとの出会いが必要だったとしている。ドストエフスキーは、小説というカタチで正教世界が普通に思っていることを紹介した故に重要だと記している。これで、やっと2日目の講義分が終了した。

2025年12月17日水曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録17

http://math.artet.net/?eid=1421857&imageviewer&image=20120915_79752.jpg
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第17 回目。本日のテーマは、屋根裏の哲人・スピノザである。

ポルトガルでの迫害を受け、オランダに移住したユダヤ人(スファラディ)であったスピノザの主著『エチカ』は、幾何学的方法によって証明されたという副題がついている。書物全体が、76の定義と16の公理、259の定理、70の系、129の備考から成っている。推理によって特殊を普遍から導き出す演繹的方法として、デカルトの精神を一層徹底させたもの、といえる。当然ながら、それは、高校倫理でも出てくる「汎神論」であり、第1部「神について」で、8つの定義(画像参照)が掲げられている。(P215)

スピノザは、ここで、4つの概念を定義している。まず「実体」とは、それ自身に存在し、それ自身によって理解されるもの、換言すれば、その概念が形成されるために他のものの概念を必要としないものを意味する。(定義3)次に「属性」とは、実体の本質を構成するものとして悟性が認めるところのものを意味する(定義4)さらに「様態」とは、実体の変相をいう。換言すれば、自己意以外の他のものの中に存在し、またこの他のものによって理解されるところのものを意味する。(定義5)そして、「神」とは、絶対的に無限な実在、すなわち無限に多くの属性から成り立ち、かつその各々の属性が永遠無限の本質をあらわすところのものを意味する。(定義6)淡野氏は、これをまとめて、実体は、第一に自己因であること、第二に無限であること、第三に唯一であることが論理的に演繹されているとしている。佐藤氏は、ここで出てくる悟性について、理性は到達できないものに向かうのに対して、人間が認識できるところに向かうものと解説している。(P215-6)

…アムステルダムでは裕福な貿易商の息子だったが、家業のため高等教育は受けていない。またラビとなるための訓練を受けていたが、神を自然な働き・あり方全体と同一視する立場から、ユダヤ共同体から破門(ヘーレム)され、狂信的な信者から暗殺されそうになったと、Wikiに記載されていた。

スピノザは、スポンサーもいなかったのにどうして哲学が出来たのか?それは、高給のレンズ磨きに卓越した才能があったからである。制度化された学問の外側の知識人であり、大学あるいは貴族のお雇い家庭教師とは違い、自活した在野の知識人だと言える。しかもユダヤ人でありながら共同体から破門された孤立した人だと言える。(P217 )

…「屋根裏の哲人」というニックネームを聞けば、貧困な感じがするが、当時のレンズ磨きが高給であったことには驚く。(AIによると、これは誤解や混同によるもので、実際スピノザは屋根裏に住んでいたということはないらしい。)

スピノザは、デカルトの神・精神・物体という三実体説を論理的に発展させて、宇宙全体に存在している実体の総和を神と言っているわけで、この汎神論における神は、キリスト教の神とは違うものであると佐藤氏は断じている。この世には悪があるからで、汎悪魔論となる可能性すらあるからである。ちなみに大陸合理論でスピノザに続くライプニッツはこの問題を処理しようとする。(P217-8)

淡野氏のテキストでは、このスピノザの哲学体系は、ある意味最も整った哲学体系であると言わなばならないとしながらも、幾何学的大家の汎神論の中に、「生」の豊かさをそのまま携えて入っていけるとは思えない。その体系の狭さを嘆かざるを得ないとしている。(P223)

…スピノザとライプニッツは、高校倫理では教えづらい箇所である。哲学の継続性(前者と後者の批判的つながり)を語るうえでも、デカルトからスピノザはまだしも、ライプニッツはさらに難解である。次回はそのライプニッツを取り扱おうと思う。

2025年12月16日火曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録16

https://mindmeister.jp/posts/panse
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第16 回目。本日のテーマは、デカルトとパスカルと神学の関係性について。

デカルトの神の存在、その完全性(第二証明で、神は完全なものであると明記し、空想や経験で得られることはないとした。)という概念は、理性に過度な信頼を寄せたことで、長きに渡ってその責任を負わされることになった。なぜなら、神は完全であると強調すればするほど、遠藤周作の『沈黙』に描かれた悪の放置という問題にぶちあたり、神の存在証明と合理主義の結合は無力化することになる。これは、啓蒙思想を経てニーチェまで行って「神の死」などと言われるようになった神はデカルトが作り出した神であるということになった。フォイエルバッハやマルクスが否定した神でもある。キリスト教では、人間が「神はこうなっているのだ」と考えるような神は偶像であるとする。(P195 -7)

デカルトの神の存在証明は、発表された瞬間にパスカルに徹底的に叩かれている。デカルトはそれを無視した。このデカルトとパスカルの関係は、カントとヘーゲル、プラトンとアリストテレス、マルクスとキルケゴールといったそれぞれの時代精神を表す両極の「対」であり代表者であるといえる。それぞれ両極のどちらにシンパシーを感じるかで思考の鋳型が決まる。通常、プラトンに関心を示す人は、カント・キルケゴールが好きで、アリストテレスが好きな人は、デカルト・ヘーゲル・マルクスが好きだといえる、と佐藤氏。(P198)

ところで、デカルトは、デカルト座標を考案し代数学と幾何学を結びつけた数学者でもあるが、パスカルも「確率」という従来と違う数学を作り出した。人間の思考が変わる時、数学が変わるということも重要らしい。この後にライプニッツとニュートンによる微積分が考え出され、さらに天文学の発展により対数が使われるようになった。(P201)

さて、デカルトと「対」であるパスカルは、限界のある理性でなく、心によって真実を知るとし、「隠れたる神」を知ることができるのは神が受肉したことだけで、神性の部分は描けないとした。これが明らかにされるのが、神学的には「啓示」となる。ちなみにパスカルはあくまで哲学的で実存主義に近づいている。またルターはこの「隠された神」が可視化されるのは十字架(神は我々のために犠牲になられた)であるとしている。(P209)

…このデカルトの神の存在証明の西洋哲学における重さを再認識するとともに、パスカルや神学から見た批判は、かなり新鮮である。デカルトが数学Ⅰ、パスカルが数学Aに関わっているというも面白い。いや文系バリバリの私からしたら迷惑極まりない話である。(笑)

2025年12月15日月曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録15

https://www.koureisha-jutaku.com/20251210_01_03/
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第15 回目。いよいよデカルトと神学の関係性に入る。私は、これまで高校倫理の授業では、デカルトの第一証明(我思う、ゆえに我あり)、第二証明(神の存在証明)、第三証明(物体の存在証明)をセットで教えてきた。中でも神の存在証明は高校生には難解であるのだが、ざっくりと言うと、人間は、神の概念を持っているが、それは空想でも経験では得られない。神が存在し、生得的に人間にそれぞれ植え付けたとしか考えられない、故に神は存在する、という論理である。

この時期(17世紀)のスコラ哲学は、デカルトらと同じくらい大きな存在で、スコラ哲学が退潮していくのは19世紀に入ってからで、それまでは正統化された学問であった。上智大学神学部が、トマス・アクィナスを中心としたスコラ哲学を今もやっているのと同様、ドイツの神学部でもプロテスタント・スコラを学んでいる。よって、スコラ哲学は別の公理系として今も続いている。スコラ哲学は克服されたという一般史的の考え方は実態からずれている。(P181)

デカルトは、実は熱心なカトリックで、スウェーデン女王の家庭教師時代には女王を改宗させている。(画像参照)カトリックは合理主義と矛盾しない。合理性というものは神から付与されたものだと考える。救いが確実であることを合理的に組み立てていけばいい、神秘主義も合理的。こういう組み立てはカトリック的である。一方、プロテスタントは、特にデカルトの時代は極めて復古主義的で、反知性的であったため、このような考え方には行き着かなかった。その後、シュライエルマッハーが神を内部に留めた後は、プロテスタンティズムは合理的思考をするようになる。(P184)

デカルトの神の存在証明は、中世では証明する必要はなかった。神が主で、人間が上がっていこうとする主従の関係があった。しかしデカルトでは、(第一証明がまずあるので)人間が主、神が従となり逆転している。よって、デカルトの神の存在証明は中世の本体論証明とは本質的に異なっている。(P189)

デカルトの二元論は、神と被造物という二元論、その被造物についても、精神と物体との二元論であり二重の二元論である。たしかに淡野氏の言うように、哲学史は、前述のように一元論と二元論の間を振り子のように振幅する、というのがデカルトの基本テーゼであるといえる。(P192)

…スコラ哲学が19世紀までは正統であったこと、違う公理系として今なお存続(上智大学新学部の件は知っていたが)していることは、意外だった。スコラ哲学=中世という理解は改めなければならない。またデカルトが熱心なカトリック教徒であったことにも驚いた。カトリックの学校でお世話になっている身としては、この神秘主義をも含んだ合理性という感覚は少しばかり感覚的にわかる気がする。また「シュライエルマッハーが神を内部に留めた後」という記述については、バルトの解説本などで読んでいたので、なんとなく理解可能。デカルトの神の存在証明が逆転していることも十分理解できる。最後の二重の二元論も以後の振り子のような振幅も納得の記述であった。

2025年12月14日日曜日

バリ島の事件について

https://www.kkday.com/ja/blog/48017/asia-bali-february?srsltid=AfmBOor602Jwnd_H8jaOqiDc5HCmmm6w3DMmQY-H-mbYHh-iKMKkK1pT
京都大谷高校の事件について、教育関係者の端くれとして思うところを記しておきたい。単なる盗癖によるものではなく、アジア有数の観光地での集団的窃盗であることが特徴である。バリ島はインドネシアでもヒンドゥー教の島でああるが、刑法はイスラム法に則っており、外国人観光客も同様で厳しい。おそらくは、現地の刑法に従って裁判を受けることになると思われる。当然の報いである。また、学校サイドで言えば、退学勧告による自主退学ではなく、強制的な退学処分になるだろう。世界的な日本人の信用喪失という点から見ても自明の理だと思われる。

こういう窃盗は、偏差値と関係がないと私は経験的に思う。生活指導部長をしていた頃も、そういった話を偏差値の高い他校から聞いたことがある。高校に批判が集まっているようだが、学校教育云々という話は違うように思う。こういう基本的な道徳観の欠如はそれ以前の家庭教育の問題であると思う。とはいえ、京都大谷高校の信用は瓦解した。当分の間志願者は激減するだろうし、その立て直しに膨大な時間と労力を費やすことになるだろう。教育関係者の端くれとしては、学校関係者の方々の心中察してあまりあるところである。

2025年12月13日土曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録14

https://decski.waterpet.rest/index.php?main_page=product_info&products_id=620657
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第14 回目。本書では、トマス・アクィナスについてかなり詳細に論じている。神学生への講義故に当然であるが、スコラ哲学と近代哲学の関係性に移りたいと思う。

近世は、ヘブライズムとヘレニズムとラティニズムの文化総合体としてあり、それが世俗化していくのが、近代のプロセスである。(P177)

…ヘブライズムは、言わずもがなユダヤ・キリスト教の一神教的伝統、ヘレニズムはギリシア古典哲学。ラティニズムは、ローマ法を指す。この一節はかなり重要なテーゼだといえる。高校の倫理では、ラティニズムについてはあまり触れない故である。

淡野氏のテキストによると、中世は、上記の3つ(宗教・学問・国家)が一時、統合統一されたが、それぞれがそれぞれ他のものの奴隷になることなく自己に固有な権威と価値を主張するところに近代的世界が始まる、とある。佐藤氏は、淡野氏のルネサンスと宗教改革が、近代の分水嶺と見ていることについて、少し古いとしている。なぜなら、この時点では、国家とコルプス・クリスチウム(キリスト共同体)が崩れていないからだ、とする。現代においては、宗教の要素が著しく薄くなり、国家をベースに動くようになった三十年戦争後の1648年が分水嶺と言われている。またポストモダン後は、歴史の時代区分は強者の欧米から見た時代区分である故に、その「物語」を拒否し、各々の小さな差異を強調していく方向になっていて、通史という考え方が希薄になっているとしている。(P177-8)

…この通史の分水嶺の記述も、実に重要だと思う。岩波講座の「世界歴史」シリーズも第二版になるとポストモダン的な内容になっているという。学院の図書館にもあると思うので、是非確認しておきたい。

2025年12月12日金曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録13

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第13 回目。スコラ哲学の普遍論争について。

普遍論争は、「普遍」という概念について、実念論と唯名論に分かれて論争が起こっている。この両者の対比を佐藤氏は果物で譬えている。果物という概念がある。その果物には、メロン、栗や柿もある。このような考え方が実念論で、プラトンのイデア論的な発想に立つ。一方の唯名論は、栗は木になる。メロンは草、分類からはキュウリの仲間である。ということは栗がある、メロンがある、柿がある、そういった個物しかない。そこに便宜上付けた名称が果物である。すなわち普遍とは名前に過ぎず、個物を分類するための言葉で、実在するのは個物のみである。この普遍論争は、実在とはなにか、概念は現実にどう関わるのかといった根源的な問いであった。(P129)

カトリックの中にはいろいろな流派があるが、今のバチカンは、トマス・アクィナスが正統とされ、神学の基本になっている。トマス・アクィナスは、実在論の立場から唯名論の立場も調停して、普遍は神の知性においては、事物に先立って存在し、世界の中においては、事物の中に存在し、そして人間の知性においては事物の後に存在するとした。(P132)

ところで、トマス・アクィナスは、たいへんな量の本を書いている。その理由は24時間、3~4人の筆記係がそばに常駐し、口述筆記したからである。ちなみに『神学大全』は未完で終わっている。「私には出来ない。これまで書いたものは全てわらくずのように見える。」と言って、思考に疲れたからであるらしい。(P150)

…本書では、この普遍論争、これに、アベラールのアリストテレス的な思想や、オッカムのウィリアムの唯名論についても詳しく触れられているのだが、難解で何度読み返したことかわからない。ブディストの私としては、どう考えても不毛な議論にしか思えないからかももしれない。今日は少し、AIやウィキの助けを借りて記した次第。

2025年12月11日木曜日

メッツからディアス移籍

https://full-count.jp/2025/12/10/post1875683/
MLB関連の移籍に関するニュースは、ホントどこまでが本当かわからない。だが、メッツから凄い守護神・ディアスがドジャーズに来ることは間違いがないようだ。ドジャーズの三連覇を応援する身からは嬉しい補強だが、気になるのはメッツの悲惨なチーム事情。どんだけソトの悪影響が響いているのだろう。土台から崩れているようだ。

2025年12月10日水曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録12

https://turkish.jp/blog/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D/?srsltid=AfmBOoplUo_OJXsPgBQ_2vNP6gvU1kyycHglaQSjZewsJhKCnsUfDFjM
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第12 回目。思想における中世的世界の内容について。

まずは、キリスト教とユダヤ教の終末感の相違について。ドイツの神学者・モルトマンによると、キリスト教では、イエス・キリストの出現によって、すでに終末は始まっているので、救済は先取りされており「希望」(Hoffnung)、ユダヤ教では、救済が先取りされていないので、「待望」(Erwartung)という異なる構成になる。歴史認識としては、キリスト教では、イエスパレスチナに出現した時が人類史のどん底という認識であるが、ユダヤ教にはそのような認識はなく、ボグロムやホロコーストを体験している彼らからすれば、もっと悲惨なことが起こるかもしれない、キリスト教の歴史認識は根拠薄弱だと考えている。(P117-8)

…両宗教の終末観の違いは、実に重要な学びであった。あまりこういう基本的な相違は語られていない。

割礼について、エルサレムの宗教会議でパウロとヤコブ(プロテスタントの伝承ではイエスの弟にあたる)が対立し、その後パウロ派以外のキリスト教は絶滅するので、パウロがキリスト教のベースになった。とりわけ、パウロにウェイトをおくのが、プロテスタンティズムの特徴で、カトリシズムは天国の鍵を持ったペトロが初代教皇になった。(ペトロとパウロの像が、サン・ピエトロ大聖堂にあるのは周知の事実。)それに対して正教会が重視するのが使徒・ヨハネ(画像参照:洗礼者・ヨハネではない。)ロゴスがキリストになるというのは、それによって人が神になる道筋を教えてくださったから、という考えによる。さらに使徒・ヨハネが記したヨハネの黙示録で終末という考えが始まっているとする。(P120)

…以前読んだ佐藤氏の本の中で、正教会がとヨハネ福音書を重視することを学んでいたが、もう少し詳しく書かれた記述だった。ただ、「ロゴスがキリストになるというのは、それによって人が神になる道筋を教えてくださったから、という考え」については、改めて正教会の本を読んでみようと思う。幸い、学院の図書館には正教会関係の書籍も豊富に揃っている。

よって、キリスト教の開祖は誰かと問われた場合、中学から大学までの入試なら、イエス・キリストと答えるのが「◯」だが、神学部の定期試験や大学院入試では大いに「✗」となる。なぜならば、イエス自身は自分をユダヤ教徒と考えていたことは間違いないからで、正解はパウロである。(P121)

…これは実によくわかる。私が初めて学院に登校した日に、J大学神学科卒のW先生もそう言って笑っていたことを思い出す。

やがて、アウグスティヌスのスコラ哲学へと進む。ここで佐藤氏は淡野氏のテキストの原罪思想についての間違いを指摘している。アダムとイブが禁断の実を食べたから原罪を持ったのではなく、食べる前から原罪を持っており、自由意志の濫用(禁断の実を食べたという行為)によって原罪を受けたのではない。そもそもの原罪ゆえに自由意志を濫用したのである、というのが正しいとのこと。(P124)

…この点は私も誤解していた。こういう記述が実にありがたいのである。

2025年12月9日火曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録11

https://ameblo.jp/ks17lovinson/entry-12533873493.ht
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第11 回目。前回に引き続き、面白い記述を短文的に挙げていきたい。

ダンテの『神曲』で、地獄に堕ちる最も悪い「貪欲」は、食糧生産が乏しい時代ゆえ「食欲」である。16世紀、カトリックとプロテスタントは互いに非難し合っていた。ルターがすごく太った人物として描き、プロテスタント側も神父を太った人として描いている。(P92)

…実に子供っぽい話だが、なるほどと思う面がある。(笑)

西洋哲学の原動力は、一元論と二元論のあいだを振り子のように揺れ、螺旋を描いているというのが(テキストの著者)淡野安太郎さん独自の考え方である。その2つの流れの中で弁証法的な発展を遂げるというのが、彼の基本的な西洋哲学の見方であり、独自のものだがそれなりに説得性がある。やはり教育者として優れている。自分の頭で考えているから、こうやってわかりやすく、しかも実態から外れない組み立てができる。(P93 )

…この箇所は、実に教育者にとって示唆に富んでいる。私も浅学ながら自分の頭で考えてやってきた。これまで見てきた多忙な教師の多くは、出版社のつくったモノでお茶を濁しているように思えてならない。

(人間の理性:ヌースに対して)キリストは通常の人間が持つヌースではなく、ロゴスを持っているとアポリナリオスは言った。これに対し、テキスト(浅野氏)では、「アポリナリオスは、世界の一切を機械論的に説明しようとしている故に、最初の運動の起源の説明に行き詰まり、その解決策として突然舞台に天降らせた「機械仕掛けの神」(Deus ex machiina)たるそしりを免れることができなかった。」とある。この「機械仕掛けの神」は、中世の宗教劇によく出てくる。古代ギリシアの劇では、行き詰まって大変なことになるとハッピーエンドにるために、機械仕掛けのキリストがコロコロと天上から出てきて、お告げをする筋になっていた。ハッピーエンドに終わる劇のことをコメディと呼ぶ。それがいつしか喜劇という意味になってしまった。ダンテの『神曲』は、最後に天国に行くのでハッピーエンドの神聖喜劇と呼ばれている。(P98-99)

…「機械仕掛けの神」の存在もコメディの意味も初めて知った。この「機械仕掛けの神」、日本では水戸黄門の「徳川家の家紋の印籠」が最も近いという論もあるようだ。ところで、本日の画像は、中学生時代に見に行った「時計じかけのオレンジ」。ただ単に「機械仕掛け」の韻を踏んだだけのことである。当時、ベートーヴェンにハマっていたので見に行ったのだが、よくわからなかったスタンリー・キューブリック監督の問題作であり名作映画である。

2025年12月8日月曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録10

https://jp.123rf.com/photo_87701361
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第10 回目。4日間の講義・第2日目に突入である。まず第1日目のおさらいから。面白い記述を短文的に挙げていきたい。

キリスト教では、人間の救済が基本的な目的なので学知の構成には関心がなかった。ところが終末が遅延していくことによって、キリスト教がどういうものか、他者に対して説明せざるを得なくなり、ギリシア哲学の形式を借りた。これが神学の誕生。その時に、動的なる神と静的なるロゴスが結婚したのだが、木に竹を接ぐ不調和があった。哲学と結びついた神学は完成しない。しかも神が変容していくにしたがって歴史も変化するので、服の流行が変わるように、哲学も変わる。すなわち、その時代、時代の服である哲学の形で神学を表現しなくてはいけないのである。(P62-3)

…神学というものの特徴を見事に表していると思う。たとえば、バルト神学は、WWⅠの悲惨さや弁証法哲学を受けて構成されているといえる。

(西洋哲学な思考のの根本である)「対象」は東洋的ではない。合掌をする時、右手と左手のどちらが主体でどつらが客体?どちらが押して、どちらが押されているか?この説明ができないから、主客は同一化し、不二の関係にある。この合掌は、シンボリックに対象という考え方を否定するものである。(P63)

…この合掌にシンボリックされた主客同一・不二は、まさに仏教的な思想で、西田哲学に大きく取り上げられた。この譬は、もしまた仏教思想をやる機会があれば使わせてもらおうと思ったのだった。

(変化するものはあるとは言えないとした)パルメニデスは、エレナ学派の創始者であるが、このエレナは静かな土地で、人がほとんど来ないところ。それに対して(万物は流転すると説いた)ヘラクレイトスのいたエフェクスは交通の要所であった。(P65)

…この2人の出身地のエピソード、高校倫理の資料種にも出てこない。実に面白いと思うのだが…。

「ビュリダンのロバ」という中世の重要な命題。全く同じ餌が2つ、ロバの近くにある。前に置くとロバはその同じ餌のどちらを選択してよいかわからないので結局飢え死にする、という話。実際にはロバはどちらかを選択すが、マシな方を選ぶ判断をするわけで、全く同じものは2つ存在しないということになる。(P66)

…この「ビュリダンのロバ」という中世の重要な命題は、理性的判断を揶揄し、自由意志の必要性を重んじるという話であるらしい。

2025年12月7日日曜日

ポスターセッション 留学生参加

https://newt.net/aus/mag-066016825969
先日、学院にオーストラリアのメルボルン(画像参照)の姉妹校から1ヶ月ほど短期留学してくる子が、3年生の生徒宅にホームステイするそうで、私の地理総合の授業に参加することになった。期末考査後から来年にかけては、ポスターセッションをする予定のクラスなので、それはそれで楽しみである。

M高校時代は、こういう留学生が授業に参加してくる事例はよくあったので、私自身は特に問題はない。またまたサバイバルイングリッシュで対応するだけである。(笑)

ポスターセッションの候補国に、オーストラリアを入れているのでちょうど良いかも知れないと思っている。

2025年12月6日土曜日

祝 ロハス選手の再契約&雑感

https://news.ntv.co.jp/category/sports/6936b43fc4424425be00aaf0968f2e4e
最近のYouTubeのMLBの情報は、FAやトレードを巡って、視聴回数を稼ぐための過激な見出しとフェイクが多い感じがする。とはいえ、ロハス選手が来季もドジャーズに残留できるようになったのは事実のようで、実に嬉しい。

MLBはまさに生身の市場原理と言うか、アメリカのプラグマティズム的ビジネス感が凄い。選手はまさに商品。しかし、そこに数字に表せない価値もあるわけで、ロハス選手やキケ選手など、記録より記憶といった選手もいる。ファンはそれをよく知っている。

不確定情報だが、メッツがロハス選手に、ドジャーズの倍の金額を提示していたという話もあり、それにあのソト選手が勧誘を行い、勧誘失敗後のコメントで、ドジャーズ、就中大谷選手ら日本人選手を揶揄して、ロハス選手を激怒させたという話もでている。さらには嫉妬の塊のような品位に欠ける男は、ロハス選手だけでなく、ベッツ選手にも喝を入れられているだけでなく、困惑するメッツから元のヤンキースへの移籍などという話も出ていて、オーナー・編成部長との秘密会議で温厚なジャッジ選手に「トラブルメーカーはいらない。」と激怒させたとか。今季は、メッツとパドレスは実に品格面で、一気に評判を下げたようだ。MLBも人気商売であるので、これはビジネス面でも大きい。

フツーの日本人MLBファンである私などは、千賀投手もあんなメッツなど出ればいいのに、と思うし、イチロー選手や松井選手に対してあまりに冷徹な態度を取ったヤンキースにも日本人選手が行くことは避けたほうが良いと思う。

一方でMLBポスティングを狙う、NBLの村上・岡本両選手についても、怪我や守備面、速球対策とかで、あれほど騒がれていながら、暗雲が立ち込めているようだ。内野手である両選手は、かの松井稼頭央選手でさえ厳しかったことを考えればわかる気がする。

最後に、キケの去就が気になるところ。ドジャーズファンの心情を考えれば再契約濃厚だと信じたいが、テオヘルのトレード話も出てきて、両ヘルナンデスも是非残って欲しいと思うのである。ヌートバー選手の去就も気になっている。ドジャーズにぜひ来て欲しい。

佐藤優 哲学入門 備忘録9

https://7net.omni7.jp/detail/1102592402
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第9回目。東方教会・西方教会・プロテスタンティズムの神学の歴史的傾向性と現状について。

前述のテルトゥリアヌスはラテン語を使う神学者であり、ギリシア語が不得意で、よくわからなかったからギリシアや東方教会の精緻な議論は救済とは関係のない空理空論のように思えたらしい。ラテン語の神学では、法的な考えが強くなった。救いの確実性がローマ法的な形態で整理され、「教会法」が整備される方向に向かった。東方教会が神学的な議論が深化していく中で、西方教会は知的には弱かったといえる。プロテスタンティズムは、この神学的には弱い西方教会を継承し、なおかつカトリックの精緻なスコラ哲学に対する反発から宗教改革が起きたので、神学的にはなおさら弱い。(P76)

ドイツの神学者ヨハン・ゲルハルトによる”プロテスタント・スコラ”はあるものの、日本には殆ど入らず、そこに自由主義神学(ヨハン・ゲルハルトの正統主義に対し、聖書・教会・伝統といったものによらず、信仰の実在、人間の主体的な判断によって神学を探求する近代神学と呼ばれる。シュライエルマッハーが代表的)、さらに弁証法神学(カール・バルトによる神学運動で、危機神学とも呼ばれる。神の絶対的超越性、神と人との断絶を主張し両者の弁証法的関係から信仰が始まると説く。)が入ってきている、スコラ的なものをそもそも知らない。ましてや東方教会の精緻なカルケドン派の様々な議論や著名な神学者・ダマスコのヨハネによって集大成された『受肉論』などを知らないので、(プロテスタント神学は)神学的な議論には弱い。(P76-7)

神学的な議論が深化するのは、ロシア革命で神学者たちが強制追放あるいは自発的に亡命したことで、パリやNYで東方神学が翻訳されてからのこと。20世紀以後西方の神学研究のレベルが上がった。キリスト教をトータルに理解するには、東方教会の知識は死活的に重要だが、かなり難しい。現在においては、ギリシアではなく、ロシアとルーマニアの正教会の知的レベルが高い。(P77-8)

…このカトリックと正教会の神学的な伝統の差や、プロテスタント神学の現状については、実に興味深い指摘である。これで、やっと第1日目の講義内容が終了した。

2025年12月5日金曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録8

https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Unknown-artist/954611/
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第8回目。「ローマの神学者テルトゥリアヌスの、神学に哲学が不当に侵入していること」について。

前述のユスティノスやクレメンスは、哲学と神学の関係を調和的に理解しているが、テルトゥリアヌス(160年~225年頃:画像参照)は、対立的に理解していく。ユスティノスやクレメンスの考え方は、シュライエルマッハーや自由主義神学者、あるいはドイツのプロテスタント神学者ティリッヒに近く、テルトゥリアヌスの考え方は、バルトやチェコのプロテスタント神学者フロマートカに近い。後者の半哲学的・反知性主義のほうが、キリスト教神学ではメインストリームであるとのこと。(P69)

テルトゥリアヌスは、『異端者への抗弁』の中で、「アテネとエルサレムの間に何の関係があろうか。アカデメイアと教会の間に何の関係があろうか」と、神学と哲学の関係性を否定している。前述のマルキオンはストア派の出身であると。(P70-1)

さらにテルトゥリアヌスの「魂は死に従属しているということは、エピクロスの道を行くことである。」という箇所について、佐藤優氏は、重要なことを提示している。キリスト教でも肉体と魂があり、死ぬと同時に肉体は滅ぶ。ただし(魂は)復活する。エピクロスにおいては(魂の)復活はなく滅びておしまい。エピクロスは、グノーシス派やプラトン主義者のように魂は永遠に生きるとは考えない。ゲーテの『ファウスト』の魂はずっと生きて、そのまま彷徨っているなどという見方は当時のカトリシズムの標準的な見方で、現在もこのような発想が時々出てくる。プロテスタンティズムでも学園紛争の時代に学生(あまり勉強していない)だった同志社出身の牧師が葬式で、「今魂が自由になって天に上りました。」などというグノーシス派のような説教をしている場合もあるとのこと。確認:キリスト教神学では肉体も魂も滅ぶ。ただし復活する。(P70-2)

…この死生観は極めて重要だと思う。ブディストから見ると、この”復活する”という確信は正直なところ、やはり奇異に映る。ミケランジェロの最後の審判では、30歳くらいの肉体で復活する様が描かれているのだが…。

テルトゥリアヌスが言及している異端の多くは、グノーシス派、就中前述のマルキオンである。マルキオンは、旧約の神ヤハウェは悪神であり、キリスト教の神とは異なるとし、ユダヤ人は悪い律法をつくった、旧約聖書は一夫多妻を認めたり、暴力(ペリシテ人を殺せ)などが溢れていたりするとした。この反ユダヤ主義と繋がるのが、先日(11月4日ブログ参照)のドイツキリスト者である。(P72-3)

…ここでも神学と哲学の関係がさらに深く描かれている。ちなみに、チェコのプロテスタント神学者フロマートカとは、佐藤優氏の研究テーマであった神学者である。

2025年12月4日木曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録7

https://tetugakunou.com/yohane-rogosu/
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第7回目。「キリストはロゴスであり、ノモスである」について。

この「キリストはロゴスであり、ノモスである。」という、キリストとギリシア哲学ならびに旧約聖書との関係についての要約は、しばしば文学に見出されるとのこと。「ロゴス」とは言葉という意味のギリシア語でプラトン哲学で重要な意味を持っている。「ノモス」は法律を意味するギリシア語で、キリスト教信仰においてはパウロによって律法に割り当てられる重要な意味を持っている。この「キリストはロゴスでありノモスである」という言で、ノモスを強調しているのは、イエス・キリストが律法の完成者であることを意味している。(P67)

新約聖書は多くの場合、福音に対する2つの広義な聴衆の存在を明らかにしている。すなわちユダヤ人とギリシア人である。パウロのコリント人の信徒にあてた第一の手紙に「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(第1章22)とあるのだが、ここでいうユダヤ人のしるしとは、割礼である。神との結びつきのしるしなのだが、すでに律法はキリストによって完成されしまっており、キリスト教徒は洗礼によって結びつくろ考える。それと同じように、ギリシア人が持っているところの知恵(=哲学のこと)は十字架にかかって死に復活したキリストによって完成されている。だからキリスト者はもはや哲学にもこだわらないのだ、ということになるとのこと。(P68-9)

…なるほど。神学からの哲学への視点がよくわかる。ちなみに、ヨハネの福音書のロゴスからの視点は以下のHPが面白い。https://tetugakunou.com/yohane-rogosu/

2025年12月3日水曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録6

https://note.com/aokikendi/n/n22393f3e599d
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第6回目。「律法の役割と哲学の役割」について。

「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストの元へ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。」(パウロがガラリア人に宛てた手紙/第3章23-24)ここで、示された「養育係」というギリシア語は、前述のクレメンスが、哲学の役割の言及に用いた言葉と同じである。クレメンスは、読者がこの類比に気づくように意図したことは疑いがない。(P65)

ユダヤ教の時代、律法は救済への道を示したのだが、キリストの登場によって律法は完成した。ゆえに律法とは、イエス=キリストのことであるというのがパウロの立場。これに対して、マルキオン(85年~160年頃)という人物は、律法とキリストは完全に対立しているとして、パウロ書簡の一部とルカの福音書のみ(旧約部分は削除)の聖書を作る。このマルキオンの聖書(画像参照)に対し、正典派が起こり、旧約と新約を一体にする形で聖書をつくった。このマルキオンは異端とされ、彼への危機感がそうさせたらしい。(P66)

クレメンスによって哲学に与えられた役割も律法と同じ。神が受肉したからこそ、それを描くことが出来、概念化が可能になった。概念で表すことが出来たから、信仰に繋げることが可能になった。つまり、律法によって、我々は罪を知ることが出来た(=「律法は、わたしたちをキリストの元へ導く養育係となった」)が、罪から解放されるためにはキリストが必要だった。これと同じように哲学、概念によって神を理解する備えがされているとして「養育係」という同じ言葉が使われたといえる。(P67)

…本書は、あくまでプロテスタント神学生のための哲学講義なので、このような論議がされている。高校倫理の教師のテリトリーを遥かに超えた内容で、実に面白い。

2025年12月2日火曜日

永世中立国スイスの実態像

https://www.swissinfo.ch/jpn/politics/
永世中立国スイスのことは、今年の地理総合の授業でも話をした。元になったのは、十数年前に読んだ本である。今日、もっと詳しくまた視覚で学べるYouTubeを見た。

https://www.youtube.com/watch?v=44zC1trol2g

シェルターや、兵役と銃器のこと、各家庭に備わる分厚いマニュアルの存在など、これらのことは授業で話したのだが、実に勉強になった。

長いYouTube(52分ほど)なので、実際の授業では使いにくいが、とりあえずブックマークに入れておいたのだった。それくらい貴重な映像もあったわけだ。

佐藤優 哲学入門 備忘録5

https://note.com/artoday/n/nb9b00a432c35
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第5回目。「ロゴスー哲学と神学の関係」という実に興味深い部分について。

ここでのテキストは、マクダラスの「キリスト教神学資料集」が中心となる。2世紀にローマで書かれたユスティノスの『弁明』は、キリスト教を力強く擁護(当時は迫害時代)した書で、福音書と当時影響力を持っていたプラトン主義の形式を関係づけようとした。ヨハネの福音書(1章14節)には「言(ロゴス)は肉となって、私たちの間に宿られた」とある。キリストが、全人類が関与しているところのロゴスであり、そのロゴスに従って生活している人々(たとえばソクラテス)は、たとえ無神論者に数えられていてもキリスト者である。(P60-1)

この全ての人々は救済されなければならないとするユスティノスの信条から出た論理展開は、キリスト教的な集中ができなくなり、汎神論に解消される危険性がある。またキリスト教の核心的な「受肉」「十字架」「復活」が二義的な意味になってしまう。(P62-3)

また、アレクサンドリアのクレメンスは、キリスト教信仰とギリシア哲学の関係を詳細に扱っており、ユダヤ人にモーセの律法を与えたと同様に、ギリシア人には哲学を与え、キリストの到来に備えたと主張している。このキリストが旧約の完成であり成就と見られるのと同様にキリストは、哲学の完成であり成就であるという考え方を「予型論」(タイポロジー)と呼ぶそうだ。

…キリスト教神学とギリシア哲学の親和性からタイポロジー(画像参照:類型に基づいて分類・分析する方法論)まで、ロゴスをめぐる本書の内容は実に興味深い。

2025年12月1日月曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録4

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第4回目。第2章の古代哲学の続きで、プラトンとアリストテレスとの神学の関わりについて。

メタフィジック(=超越的なるもの)について、プラトンは外部の世界に置くのに対して、アリストテレスは内在的な形に置く構成になる。(P58)

プラトンのイデア論(上から下へ)についてはわかりやすいが、アリストテレスの質量と形相については、その目的論的世界観から、質量がつねに目的たる形相を目指して動き、下から上へと変化していくわけで、アリストテレスにおいては、「第一質量=神」となる。(P58)

このアリストテレスの考えを、トマス・アクィナスの神学体系が用い、神が静的な概念になった。これを動的な概念に取り戻そうとしたのが宗教改革の大きなテーマであった。(P58)

佐藤優氏は、カール・バルトの弟子のエーベルハルト・ユンゲルが「神の存在は生成においてある。」という重要な言を残していると記している。これは、プロセス神学(世界と人間経験を動的・創造的過程と見る。神はプロセスのうちにあるものとして有限であると同時に、プロセスに対して確定を与える無限なる者と捉える。)においても同様で、一つの鍵となる概念だとしている。一方で、こうした下から上に行くという考え方を再考し、上から下の一元論に映らねばならないとしたのが新プラトン主義であるとのこと。(P58-9)

…この一連の本書の記述は、実に興味深い。特に質量と形相の上下の関係性については、高校倫理では、あまり触れない。目的論は別個に扱うことが多い。これを組み合わせると、第一質料に神がくるということになるわけだ。また、異教徒には理解し難いが、この対比が宗教改革とどう結びつくのだろうか。この辺は実に興味があるところである。

2025年11月30日日曜日

期末考査後の授業について

昨年度のポスターセッション・モザンビークの1つ
期末考査が終わると、私の地理総合の授業は、特進クラスでは行わないことになっている。入試科目対応の特別時間割になるからである。残りの総合理系と看護コース、総合文系の授業に専念することになるのだが、今年は、総合理系と看護コースでは、ちょっと本格的なディベートを、総合文系では、昨年同様ポスターセッションを中心にやることにした。

ディベートは、命題を2つ出し、4チームに別れて行う予定。すでに学級委員に最適なチーム分けを依頼してある。総合理系と看護コースは、明確な言語を使える生徒が多く、ここに論理性を加味したいところ。命題の1つは決定している。「中国は先進国か否か」である。

立論に際して、「先進国の定義」がまず重要になるだろう。一応はOECD加盟国ということになっているが、中国はG20に入っているし、上海協力機構なども組織し国際援助を行っている。この先進国の定義を狭義に捉えるか、広義に捉えるかがまず重要かと思われる。さらに具体的な質疑内容を考えさせたいと思う。もう一つの命題に関しては悩んでいるところ。

ポスターセッションに関しては、中南米やオセアニアの地誌はほとんどできなかったので、これらの国の国是や理想をもとに自由に発表させたいと考えている。こちらから、候補国を提示して、クラス内でダブらないようにしていきたい。昨年はなぜかモザンビークが各クラスで人気であった。三者三様の発表で、その対比も面白かった。(笑)

中南米とオセアニアということで、メキシコ、パナマ、ペルー、エクアドル、ボリビア、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル、オーストラリア、ニュージーランドと太平洋の島嶼国ということになりそうである。

2025年11月28日金曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録3

https://artmuseum.jpn.org/mu_sokurates.html
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第3回目。第2章の古代哲学の続きである。

ポストモダンとは、すべてのものは相対的だということなので、詭弁に等しいと佐藤氏は断じている。「丸い四角を書きなさい」といったことは神にできないことの1つである。神にもできないことがあると中世に議論になりました。命題事態がナンセンスなものは、神にも回答や実行は不可能である。だから神は行わない。ただ、こうした内容も論理として整理するのは、なかなか難しい。(P45-46)

…「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)のポストモダン批判と、佐藤氏のプロテスタント神学との共通点として私はこの記述を捉えた次第。

面白いのは、ソクラテスの死にまつわって、裁判員制度の話が出てくる。殺人や放火などの重罪のみ、量刑も決める裁判員制度はいかがなものかというわけである。裁判員制度が本来に馴染むのは、特捜事案、政治家などの犯罪についてこそ国民目線が活かされるのではないか、また国民の義務にしているのも問題だというわけだ。(P50-51)

…これには同意。未だ私に裁判員に、という指示は来ていないのだが、素人が重大な犯罪の量刑にまで踏み込むのは、やはりなじまない。特捜事案こそ活かされるというのは賛成。ただ、素人なりに政治的なスタンスが絡むので難しい面もあるだろうが…。

「悪法も法なり」という普遍的な規則にしたがってソクラテスは死んだとなっているが、佐藤氏は、当時のギリシアの身体論(魂と牢獄としての肉体は別々)から、解放である死は怖くなかったのではないかとしている。死生観は変化するものだというわけである。(P51-52 )

…NYCのメトロポリタン美術館で、ダヴィッドの「ソクラテスの死」を見た。かなり大きな絵画で、圧倒された。ソクラテスは、たしかに恐れることなく毒杯を飲もうとしていたのだった。こういう視点も実に勉強になる。

2025年11月27日木曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録2

https://www.science-studio-channel.net/akiresu_to_kame_part1/
佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)の付箋をつけた箇所の備忘録エントリーの第2回目。第2章の古代哲学の世界からである。

古代ギリシアは、奴隷経済社会であり、物と心にゆとりのある自由民が高等遊民となって哲学の基盤を築くことになる。ここで佐藤氏は、夏目漱石の『それから』に登場する代助に「働くのもよいが、生活以上の働きでなくっちゃ名誉にならない。」「食うための職業は、誠実ににゃ出来にくい。」と言わせている場面がある。品性が下劣なのは、食うために働いているからだという考えは、まさにギリシアの自由民の考え方であると。文学はそういう人をモデルにして成り立つというわけである。(P34-39)

神学にとって重要な存在は、メインストリームでアリストテレス、その裏側でプラトン。加えて重要なのがネオ・プラトニズム(新プラトン主義)であるとしたうえで、「AI時代の今大事なのは自然哲学」というタイトルで、「アキレスと亀」の話が登場する。

(あるものはある、あらぬものはあらぬというアフォリズムで有名な)パルメニデスの弟子のヅェーノーン(=ゼノン)によって、「アキレスと亀」というパラドクスを想起した。アリストテレスに、「弁証法の発見者」と称されたこのパラドクスは、運動を否定するために、運動を仮定し、以下にして背理に陥るかということを示し、間接的にその前提となった運動を否定しようとしたものである。佐藤氏は、このパラドクスを論理で崩すのは意外に難しく、今だに完全に納得できるような解決はついていないとのこと。(P40-43)

…高校倫理における自然哲学の分水嶺は、この変化するものは本当にあるとは言えないとするパルメニデスと「万物は流転する」と説いたヘラクレイトスの対立をどう料理するかであったと私は教えている。これがエンペドクレスの四元説、さらにデモクリトスのアトム説へと発展していくのである。

さらに、近代の数学者・バートランド・ラッセルの「床屋のパラドックス」にも触れられている。これは、ある村の人間(男)を、床屋に行ってヒゲを剃ってもらう人間と、自分でヒゲを剃る人間に分けた場合、床屋はどちらに入るのかという問題。床屋は自分で剃っているともいえるし、床屋に剃ってもらっているとも言える自己言及問題となり、コンピュータは解決・判断できない。AI時代には重要な、一番の隘路(あいろ)であると言えると、佐藤氏は警鐘を鳴らしている。工学系の人も哲学の勉強をしていないと危ういという話である。(P44-45)

…私自身、本年度はAIを教材研究などで徐々に活用するようになったが、たしかに危ういと思えることもある。

2025年11月26日水曜日

佐藤優 哲学入門 備忘録1

佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)をとりあえず一読した。画像にあるように付箋がいっぱいついている。(笑)本日は、付箋をつけた箇所の備忘録として、つらつら記しておくというエントリーの第1回目である。佐藤氏の講義では、横道にそれながらも教養あふれる話が多いので、神学から見た西洋哲学という趣旨とは、あまり関連のない記述もあることをご了承願いたい。

近世より中世、中世より古代の方がいい時代といった復古維新的な発想について。日本は明治維新の時、日本本来のあり方についてどこまで戻そうとしたか?1つが建武の中興、後醍醐天皇の時代、さらには中国から入ってきた律令制導入以前。これは5.15事件の理論家でアナーキズムと国家主義思想の双方に影響を与えた後藤成卿(せいきょう)の論。さらに、日本神話の天地開闢(かいびゃく)まで戻るべきと唱えた人々もいたのだが、伊勢神道系と出雲系で分かれるので難しい。解釈学では大和朝廷による国家統一の過程を神話化したとされる。西洋でも哲学の根っこはギリシア神話とつながっており、その連続性のなかにある。(P22-23)

…こういう秘史的な話を佐藤氏はどこで身につけたのかと思う。例の獄中であったとすれば、マイナスを見事にプラスに変えたといえるだろう。

2019年、フランシスコ教皇が来日した際、反原発の立場をとった。その理由は、創造の秩序の神学に身を置いているからである。神はプルトニウムをつくっていないから、人間はそういうものをつくってはいけないというわけである。ゲノム編集も合成生物学もダメということになる。自然の中に神の意志があるという考えは、極めてプレモダンであるが、モダンの危機の中で、ポストモダン的な状況の中で再び脚光を浴びている。プロテスタンティズムは明らかに袋小路に入っているが、カトリシズムが同じ袋小路に入らないのは、モダンの時代に背を向け、プレモダンな状況に身を置くという選択をしたからである。(P25)

…このカトリックがプレモダン(近代以前)の状況に身をおいていの反原発という論理は実に興味深く感じた。同時に、プロテスタンティズムが袋小路に入ってしまっているという箇所が気になった。新しい研究材料である。

神学は基本的に「独断論」の立場を取る。自分にとって絶対に正しいことがあるというところからスタートする。哲学的な思考は、究極的には独断論か不可知論かしかない。正しいものは何もない、あるいはとりあえずこれが正しいことだ、という事で始める、どちらしかない。現代の哲学で、独断論の立場を取るのは、神学以外では、フッサールの「現象学」のみである。独断論といえばナンセンスに思えるが、反証主義をそこに合わせれば問題は生じないので、独断論は重要である。とりあえず独断論の構えから始まっても、反証主義的に開かれたカタチにしておく=反証可能性を残しておくなら議論ができるからである。最初から本当か嘘かを問う不可知論では議論自体が進まない。(P28-29)

…この「独断論」について、神学とフッサールの現象学が反証可能性を残している独断論であるいう対比の記述は実に面白い。なるほどと感心した次第。

カントの物自体(Ding an sich)は、考えても無駄だとされるようなもので、限りなく神に近いものである。ところが、そういうものに対しても価値の哲学という形で扱うことができると考えたのが新カント派である。解釈が前提となる新カント派は戦前・戦中の日本の教養主義の中で大きな地位を占めていた。この時代の人達が書いたものは基本的に新カント派の考えの枠内にあると思ってよい。

本書のテキストとなっている著者の淡野安太郎氏も同様である。彼はこう記している。「その宏大無辺な宇宙を自己の思想の中に包み入れることができるし、また包入れずにはおれない。」こういう考え方(1人の人間の中で全世界を整合的に解釈するという考え方)は、世界観である。

世界観を最も強調した潮流はマルクス主義である。だから、マルクス・レーニン主義は世界観であるが、スターリンの場合は『弁証法的唯物論と史的唯物論』の中で、その世界観の主体を党(共産党)にした。正しい世界観は党が持っている、ということにした。その党の意思決定は、党の政治局によってなされ、政治局の意思決定は書記長によってなされるので、書記長の見解が唯一の正しい世界観になる。

この構成は、カトリック教会と一緒であるが、全体主義と受け取られるのを避けるため、教義に関する事柄と道徳に関する事柄については、ローマ教皇が教皇座から言う事は過ちを免れる(教皇の不可謬性)という言い方をすることで、世界観を持っている教会であることを正当化しているのだが、佐藤氏によればスターリニズムと全く同じ図式だと手厳しい。(P32-33)

…カントの物自体が神に近いという記述は、目からウロコである。実践理性のみが関与できる存在であるくらいにしか思っていなかった。さらに付記すると、高校倫理では、新カント派については、新プラトン主義ほど語られないというより、ほとんど登場しない。新鮮である。

…世界観という視点から、スターリンに突入しているのが興味深い。これは、現在の中国共産党にも言えることではないか。習近平の世界観も同様に、中華思想に凝り固まっているがゆえに、現在のような馬鹿げた事態を招いているように思う。

…ところで、まだP30くらい。本書はP435まである。(笑)

2025年11月25日火曜日

中国外相タジキスタンで吠える

https://www.travel-zentech.jp/world/map/Tajikistan/Map_of_Tajikistan_and_neighboring_countries.htm
中国外相が、タジキスタンを訪問し、日本の軍国主義の復活云々と吠えた。タジキスタンもこれに呼応し中国の立場を認めたという報道が流れた。

タジキスタンという国は、トルクメニスタンほどではないにせよ、かなり独裁に近い強権政治を強いている国だ。ソ連の支配下にあった関係で、反ロシア的色彩が濃い。となれば中国に接近するのは地政学的にも当然である。山岳国家で、かなり経済的に厳しい。HDIは129位/193カ国である。

中国は、G20でも立場がない状態で、UNでも一気に影響力を低下させた。なんとか味方を増やそうと必死なのだろうが、焼け石に水。先進国、ASEANなどの批判を果たしてかわせることはないだろうと思われる。

2025年11月24日月曜日

ドイツ的キリスト者運動の事

https://ja.wikipedia.org/wiki
佐藤優氏の『哲学入門』もあと少しで一読、というところまできた。その中には、大きく取り上げたい話と、備忘録的に記しておきたいものもある。いずれ再読しながら書評を書きたいと思っている。
今回は、その備忘録的な内容の1つ。1930年代のナチスドイツ時代に、ルター派の一部が他のプロテスタント教会と統一し、「ドイツ的キリスト者」(Deutsche Chiristen)と呼ばれる運動を展開したことについて。

キリスト教を「非ユダヤ化」する試みで、イエスは当時パレスチナに駐屯していたローマ軍団兵の息子で、ユダヤ人ではなかったとした。イエスのユダヤ教に対する戦闘的な側面を強調し、旧約聖書のすべてを含むユダヤ人が書いた部分を却下、さらにカトリックを根絶し、プロテスタントの統一を図るといった具合。

なぜ今日この話題にしたかというと、期末試験後にホロコーストのパワーポイントを生徒に見せるつもりであるからだ。新たに、この話も挿入したいと思ったのだ。これまでわたしが作ったホロコーストのパワーポイントには、その背景として次のような言葉が出てくる。

「まず、ユダヤ人のシナゴーグや学校にひをつける。それから燃えないものはすべて埋めるか土をかぶせる。こうして石ころ1つ、燃えがら1つ、二度と目に触れないようにする。モーセは申命記13章に、邪教にふける全ての都市は火によって焼き尽くされるであろうと書いている。モーセが今も生きていたら、彼は率先してシナゴーグやユダヤ人の家に火をつけていただろう。」

…これは誰の言葉だろうか、と毎回生徒に問いかけてきた。正解を言った生徒は未だにいない。これは、マルティン・ルターの言なのである。申命記の邪教はオリエント社会の多神教だと見るのが正しいと思われるし、ルターが嫌悪しているのは、イエスを死刑にしたという各福音書の記述ならびに、ユダヤ共同体が社会になじまず独自の存在感を見せていたことが大きかったように推測できる。私は、ルターという人物をそんなに重要視していない。わりと教義的には曖昧な部分は曖昧で、当時の政治状況で持ち上げられた側面と、ドイツ農民戦争での掌返しといった面も感心できない理由の1つだ。

ともあれ、ルター派から、こういったナチスに迎合した宗派が存在した事実は、受験の世界史や倫理では登場しないわけである。もちろん、これに反対した「告白教会」などもあったことも付け加えておく。

2025年11月23日日曜日

WBC 2026考

https://www.mlb.jp/2024/05/24/67920/
最近のYouTube、特にMLB関連の内容は、FA情報などフェイクがかなり多い気がする。確かな情報を得るためには、かなりのリテラシーが必要なようだ。

さて、来年春のWBCが近づいているが、大谷選手・山本選手・ササミローキ選手は出場するのだろうか。また今季MLB入が噂されるスラッガーたちや、カブスの今永投手らメジャー組の動向もよくわからない。しかもTVも地上波放映ではなく、LIVEでは見れないとのこと。(我が家にはTVがないので同じだが…。)

今のところ、判明している事は、ダルビッシュ投手とヌートバー選手は、怪我で出れないらしい。これは実に寂しい。

前回のWBCは痺れる展開だった。当時エンゼルスにあってポストシーズンとは無縁だった大谷選手にとっては、まさにヒリヒリする展開だったと思う。優勝の喜びもひとしおだっただろう。ダルビッシュもイチロー選手同様ベテランとしてチームをまとめあげた。

だが、今回のWBCは、大谷選手らドジャーズ組にとっては、過酷なシーズンを終え、7回戦まで進んだWシリーズで死力を振り絞って戦った後になる。ドジャーズが、出場に慎重になるのも十分理解できる。現状においては、WBCとWシリーズ3連覇を天秤にかければ、自ずと不参加、あるいは大谷選手は打撃のみ、山本・ササミローキ選手にも厳しい登板制限がかかるのではないか。

アメリカは、本気で優勝を狙っているし、他の国も精鋭を揃えてくる。果たしてドジャーズ組とメジャー組のWBC出場はあるのだろうか。

2025年11月22日土曜日

UNの敵国条項問題

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM21AXC0R21C25A1000000/
在日本・中国大使館が、UN(日本では国際連合と訳しているが、直訳は「連合国」)の敵国条項を持ち出して、中国は日本をいつでも攻撃可能だと脅してきた。

敵国条項は、1995年にその削除が賛成多数で決議されたものの、国連憲章は全加盟国の批准が必要なため、死文化したまま放置されているのが現状。これを持ち出してきた中国大使館の頭の中はどうなっていいるのだろうか。

中国の置かれている国内の経済状況は、全く酷いものだ。共産党幹部の汚職・蓄財、不動産バブルの崩壊、消費の縮小=市場の縮小、農村出身の失業労働者の帰郷、地方政府の財政破綻、EUやアフリカ諸国との軋轢などやるべきことが山積みのはずだが…。

日本に喧嘩を売って、不満の高まる国内の統制を強めようとしているようだが、本気で日本が重要な輸出規制(半導体県連素材や工作機械など)を行ったら、中国の生産というか、息の根が止まる。すでに日本企業の撤退は容赦なく行われている。

中国は、科挙の伝統があったはずだが、「粉骨砕身」という故事成語を日本相手に使う場合、日本での意味を事前に知って使うべきである。また、ハニトラに引っかかった政治家を暴露するぞという脅しがあったが、自分たちのやったことを披露しているのに等しく、ぜひとも暴露していただきたいところだ。

今回の中国の口撃を鑑みるに、現中国政府のノーメンクラツーラ(エリート官僚)の能力は極めて低いと断じざるを得ない。

2025年11月21日金曜日

中国が台湾侵攻したい理由

https://meesikoukou.blog.jp/archives/33385005.html
台湾を巡る中国と日本の大喜利が続いている。(画像参照)ものすごく簡単に言ってしまうと、中国が台湾侵攻を諦めない理由は、「易姓革命」である。古来中国では、王朝の転換は天命であるとされてきた。これまでもその正当性を巡って前王朝の滅亡に躍起になってきた歴史がある。中華民国が存在し続けることは、中華人民共和国にとって許しがたいことらしい。私などは、アルバニア決議案で国連の安保理常任理事国になった時点で、易姓革命はなったのではないかと思うのだが…。

2025年11月20日木曜日

京都王将 五目そばが消えた

久しぶりに、京都王将・放出店に行ってきた。当然ながら、私の定番は、五目そば+餃子なのだが、なんと五目そばがメニューから外されていた。ショックである。おそらくは、需要とコストの関係なのかと思う。五目そばが失くなったのなら、王将に行く必要を認めない。いよいよ難波の珉珉に行くしかないのかと思う。

2025年11月19日水曜日

PP 英仏独露南ア蘭の国是

授業は、いよいよ最終局面に入っている。パワーポイント教材も手直しながら、イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・南ア・オランダの国是や理想について作ってみた。
イギリスは、4つのカントリーの同君連合である。少しだけ地誌を交えた。フランス語の王権神授説の国章から君臨すれども統治せずに変化したことも階級社会も重要だし、先進国中の先進国であるイギリスの姿も伝えた。(上記画像)ここは、政治・経済の復習になる。
フランスは、フランス革命と政教分離(ライシテ)と個人主義、そして中華思想。ヨーロッパに与えた影響は多大である。特に、ライシテが如何に特別であるか、イギリスの英国国教会、ドイツのルター派とカトリックといった国家と宗教の関係性について対比する。
ドイツは、ホロコーストの反省と国際貢献。上の画像は、私が撮ったアウシュビッツ第一収容所のガス室に残されたユダヤの人々の爪痕である。ドイツの理性による理論構築のことも、ニュルンベルグ法(ホロコーストの際のユダヤ人の規定)で説明。道具的理性にも少し触れたい。
ロシアのナショナリズムと歴史的に民主主義を経ていないことは、ロシア理解の上で重要かと思う。できれば、ウクライナ問題にも触れたいところ。
南アの「虹の国」という国是は、5ヶ国語による国歌にも現れている。アパルトヘイトを乗り越えて再建途中だが、ジニ係数が世界最悪の数値であることも述べなくてはならない。
オランダに関しては、最もリベラルな国であることも重要。学院には看護コースもあるので、安楽死の話題は欠かせない。

…一気にパワーポイントのエントリーをしたが、修正したいところもある。それは、もし同じような授業構成をするとして、来年度の課題としておきたい。

2025年11月18日火曜日

キケは骨折をおしてのWSだった

https://www.youtube.com/watch?v=Vs66lHZkff0
キケ・ヘルナンデス選手が、実は左手を骨折しながらも、WSにフル出場していたことが判明した。WSでも大活躍していたし、優勝パレードでも、全くそんな素振りをみせていなかったので驚いた。

昨年の盗塁で怪我をしたが強行出場した大谷選手、今年の連続登板の山本投手もサムライだが、キケ選手もまた、プエルトリコのサムライである。ドジャーズが2連覇したのも、こういうチームの勝利第一の姿勢があってこそだったのだろう。

大谷選手が、多忙なスケジュールの中、日本のお菓子を持って見舞いに行ったとの報道も出た。2人の対話もまた、実にいい。私は、キケが大好き。来季もドジャーズに残って、重要なピースとして3連覇を目指して欲しいとい祈るのみ。

教材研究 オランダの国是

https://jp.123rf.com/photo_198726138_
オランダの国是は、王室のモットーである「Ik zal hanghaven」(我、守り続けん)である。何を守るのか?それは、スペインから独立した歴史と、海跋以下の土地を水利・治水技術による国土保全だといえる。非公式な国是には、「独立・自由・寛容性」が挙げられる。ここで謳われる自由と寛容性は、フランスのユグノー戦争で迫害を受けた人々を受け入れた歴史や商業国家として、合理的な精神性と対話力などが背景にあるようだ。

オランダは、世界的に最もリベラルな国家だと言われる。まずは、マリファナなどのソフトドラッグとハードドラッグ(LSDなど)を区別し、マリファナについては、コーヒーショップで非刑罰対象として許可していることが挙げられる。(マリファナの使用率は、EU諸国の平均くらいだと言われている。)また、2001年に世界初の同性婚を認めた国でもある。さらに、厳しい条件(患者の示達的かつ熟慮による要請/患者の苦痛が永続的で耐え難いこと/他の合理的解決策がないと患者と医師が確信していること/別の医師の意見を聞いて判断等)のもと、世界初の安楽死を合法化した国でもある。オランダでは、2013年の統計で9068件の安楽死の処置が行われたという。これには、国民の過半数が無宗教という宗教的背景がある。オランダと言えば、ゴイセン(カルヴァン派)の拠点で、前述のアフリカーナーと同じかと思いきや、本国では、すでに(日本同様に)他のプロテスタントと合併し、13%ほどになっていることが大きい。

…国是やその国の理想を語るうえで、オランダは外せないと判断した。私が、ケニア視察の帰路に見たオランダ・アムステルダムは、LGBTの象徴であるレインボーフラッグがあふれており、まるで、NYCを彷彿とさせたのだった。もちろん、いくら合法とはいえ、マリファナを吸うことなど思いもよらなかったのだが。ところで、教材としては、売春の合法化については触れないことにした。女子生徒が多いし、適当でないと判断したのである。とはいえ、アムスでは、お土産屋には、飾り窓のマグネットが溢れていたのだった。

2025年11月17日月曜日

教材研究 南アの虹の国

ケニアの農村で、キャッサバを見せる故ピーター・オルワ氏
…JICAのケニア視察旅行の帰国時の空港で、コーディネーターの故ピーター・オルワ氏が、最後の最後に「レインボーだよ、レインボー!」と叫んだ。 その時は、なぜ彼がそう叫んだのかわからなかったのだが、今思うと、南アのマンデラ大統領が主張した「虹の国」を、ケニアも含めてアフリカ全体の明るい未来への希望を込めていたのだと思う。今回の「国是」の中に南アを含めたのは、故ピーター・オルワ氏へのリスペクトからである。

南アの国章には、カム語で「多様な人々の団結」という文字が刻まれている。人種平等の達成と民主主義の実現、多様な民族が共存する「虹の国」としての国家を建設するという願いからである。国歌も、コサ語、ズールー語、ソト語、アフリカーンス語、英語の5ヶ国語で構成されれている。国歌の元になったのは、コサ語とズールー語の「アフリカに祝福を」とアフリカーンス語の「南アフリカの叫び声」である。

南アはアパルトヘイトという過去を持つことは周知の事実である。アフリカーンス語を話すアフリカーナーは、主としてオランダ系のカルヴァン派(+フランスからオランダに逃れたユグノー等)である。彼らがアパルトヘイトを主導した。ボーア戦争でイギリスの植民地となったが、WWⅡ以後政治の主導権を握ったのだった。カルヴァン派の予定説から見れば、現地の黒人は、全くの差別の対象となったのである。

ともあれ、今はアパルトヘイトは廃止された。だが、そんな簡単に解決するわけはない。南アは今もジニ係数(国内の経済格差を計る指標)では世界最悪の数値を叩き出している。

…故ピーター・オルワ氏の叫んだ「レインボー」は、未だ道半ばである。

2025年11月16日日曜日

教材研究 露のナショナリズム

ロシアには正式な国是はないが、伝統的な価値観と国家の主権を守るという強烈なナショナリズムがあると言える。もとは、モスクワ公国という小さな存在だったが、領土拡大で世界一の面積を誇る大国になった連邦国家で、89の構成主体(48の州、9の地方、3つの市、24の共和国、1自治州、4自治管区)に分かれている。(ウクライナとの紛争で係争中の6地域を含む。)

ロシアは、対ナポレオンとの祖国戦争、対ナチス・ドイツとの大祖国戦争で、多大な人的被害を出した国であり、この歴史からナショナリズムが強い国家となった。また、ユーラシア主義が国是とみられることもある。ロシアは、ヨーロッパでもアジアでもないという地政学的概念であり、モンゴル帝国の征服を受けた歴史やビザンチン帝国の正教会を受容した歴史、中央アジアのイスラム国をソ連時代に従えた歴史を持っている。現在のプーチンはこのユーラシア主義者だという主張もある。

ロシア革命による世界最初の社会主義国としての歴史は、プロレタリア独裁という体制をとり、スターリンの治世ではスターリニズムという個人崇拝と恐怖政治が行われた。この影響は大きく、ソ連崩壊後、市場経済に移行したものの、民主主義は確立せず、自由や権利、表現の自由などはかなり制限されている。今も独裁政治体制だと見るのが妥当だろう。

ロシア正教会は、ソ連時代は弾圧されたが、WWⅡの大祖国戦争時にスターリンによって復活され、他の国家以上に二人三脚で政府を支えている。核兵器を祝福したことでも知られる。

…ロシアは、ロシア帝国時代に領土拡張の結果、日露戦争後に経済的混乱をきたし、ロシア革命を呼んだ。ソ連は、これも領土拡張(というか親ソ政権の確保のためだが…)アフガン侵攻で同様に経済的混乱を呼び、ソ連が崩壊した。同様の歴史を繰り返すというYouTube(神野正史の世界史ワンポイント講座34回:URLが長いのでタイトル表示)を見たが、納得せざるを得ない。現在のウクライナ紛争も同じ過ちを繰り返しそうだ。

…実際、すでにロシアの軍事力は60%損失し、25万人の死者を出しているという情報もある。なにより、経済を支えてきた軍事産業が国際社会での評価を落としているようである。石油や天然ガスといった鉱産資源と並ぶ経済基盤が危ういようである。今回の授業では、こういった深部に触れる時間的余裕はないが、国民生活もかなり危機的な状況であるらしい。

2025年11月15日土曜日

世代を超えて教えたいこと

https://www.etsy.com/jp/listing/1823702526/arabama-heart-of-dixie-nanbpurto-3ag0666
地理総合の授業では、アメリカの国是や理想、11のアメリカといった地誌的な内容が一息ついたところである。期末考査まであと2週間。ここからは、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、南ア、オランダとテーマ講義が続いていく。ちょっと気になったことを、エントリーしたい。

ウェストバージニア州(州コードはWV)は、グレイト・アパラチアの起点となった州であるのだが、私は9.11の話をする。9.11については、生徒諸君はおよそ映像などで知っていて通じるのだが、オノ・ヨーコがNYCのNYタイムズ紙”IMAGINE PEACE”という広告を出したことを述べた際、生徒諸君はオノ・ヨーコが誰なのかを知らない。亡夫・ジョン・レノンの名も軽音楽部の生徒以外知らない。まさに世代的な認識の相違である。さて、WVで、女子高校生が平和を訴え、退学になった話をする。実際の攻撃を受けたNYCでオノ・ヨーコがこういう広告を出してもさして非難は出なかったのだが、WVでは、”平和を”と書かれたビラを撒いた女子高校生は退学処分になったのである。この事件は、民放のある報道番組で大きく取り扱われた。平和主義を国是とする日本らしい話のだが、私は、WVのいう地域性に対するマスコミの無知を感じた。アパラチア炭田が主産業で、斜陽化後は軍人になった人々が多いプワーホワイトの州、WV。彼女の行為は正義であったかも知れないが、地域性と真っ向から対立する行為だったのだ。

ディープサウスでは、”Heart of Dixie”=南部の心臓という愛称をもつアラバマ(州コードはAL)のカープレート(画像参照)を見せて始まる。もちろん、かの公民権運動の震源地としてのモントゴメリーのバスボイコット事件について語るのだが、M・L・キング牧師の”I have a dream”の演説は、今の高校生には直感的に伝わらない。昔は、中学の英語の教科書に必ずと言っていいくらい載っていて、暗唱できる生徒も多くいたのだが…。この公民権運動自体も教える機会が少なくなったように思う。アメリカの多民族社会を”人種のるつぼ”から”人種のサラダボウル”と言い換えているアメリカというかWASPにとっては、ネイティブアメリカンへの仕打ちと共に黒歴史ではある。日本の教育界が忖度したのかもしれないが…。

私は、善悪や美醜を超えて、知る限りのアメリカという国を、世代を超えて伝えたいと思うのである。昨日下校時に、ある生徒が「授業を聞いて、是非アメリカに行ってみたいと思いました。」と言ってくれたのが、何よりうれしい。

2025年11月14日金曜日

社会科学習とコロナ禍の影

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/218009/051700045/
学院の社会科教員Y先生との会話の中で、社会科学習にとって重要な時期は、小学校の高学年と中学時代の基礎的な事項の学びではないか、という話になった。たしかに、私自身の経験からも、この時期に詰め込んだように思う。今だに地理の国名や首都名、日本の県名や県庁所在地、主な山脈や岬名等は、小学生時代にに完全に頭に入れたし、日本史や世界史、政治分野のおよその流れもこの時期にインプットされている。

中学時代は、社会科好きの友人がいて、朝日年鑑などを読み合って背伸びして難解な用語を頭に入れたりもしたものだ。

ところで、今の高校生の年代は、この重要な時期、コロナ禍の影響をモロに受けた年代であるのかもしれないとY先生は言われる。なるほど…。偏差値は決して低くないのだが、意外に一般常識的なことを知らないことが多い。高校の社会科は一気に学習内容が深くなるのだが、その基盤が形成されていないように感じるというわけだ。

コロナ禍の時期は、学習をサボろうと思えばサボれた時期だ。学ぶ意識が高ければ自学自習できただろうが、コロナ禍に流された可能性は高いと私も思う。

…この会話の後、私はM高校に視察に来た中国の社会科教師のことを思い出した。彼は、文化大革命時代(画像参照)に学生生活を送った故に、英語を学ぶ機会を失い、一切英語が話せなかったのだ。日本視察を命ぜられるほどの教師であるのに、簡単な会話でさえ不可能で、さすがの私もコミュニケーションを取れなかったのだ。まさに、世代的悲劇である。コロナ禍は小さな文革といったところだろうか。

2025年11月13日木曜日

佐藤優『哲学入門』を読む。

学院の図書館で、佐藤優氏の『哲学入門』(角川書店/2022年)を借りてきた。この書は、2019年冬に同志社大学神学部大学院神学研究科の学生たちと4泊5日の集中講義の記録である。そのテキストとなったのは、淡野安太郎の『哲学思想史』である。

周知の事実ながら、同志社大学神学部は佐藤優氏の母校である。タイトルは、『哲学入門』となっているのだが、プロテスタントの神学生への講義としての哲学入門なのである。よって、キリスト教神学就中プロテスタント神学と、西洋哲学の両方の知識が必要な書である。西洋哲学の方は、高校倫理の教師であるので、そんなに問題はないのだが、幸いにも、昨年春から学院にお世話になってから、図書館のキリスト教の書籍を乱読してきたので、ある程度、この特別な書を読めるようになっていること自体が嬉しい。

面白いので、朝夕の通勤時についつい読んでしまい、またまた莫大な付箋を付けまくっている。いずれ、少しずつ書評と言うは、興味深い話をエントリーしていこうと思っている。

2025年11月12日水曜日

アテネの民主政と陶片追放

https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E3%81%B8%E3%8
1%AE%E6%8B%9B%E5%BE%85%E4%BD%9B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%
AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E9%83%A8/dp/4790716872

佛教大学歴史学部編の『歴史学への招待』(世界思想社)から書評をもうひとつエントリーしたい。井上浩一氏の「憶える歴史から考える歴史へ アテナイの民主政と陶片追放」という項である。氏の一回生の「西洋史概論」で古代ギリシア史の講義の実践記録である。

ペイシストラトスの僭主政治の後、クレイステネスが民主政を確立させる。高校の世界史では、直接民主政の細かなところまではやらない。この項では、さすが大学での講義という感じで、実に興味深かった。

全ての国民が参加する「民会」と、執行機関として少数で構成される、それまで貴族が牙城としていた「評議会」をクレイステネスは、「五百人評議会」に改編した。アテネ市民の中から抽選で毎年500名を選んだ。なるべく多くの人が就任できるように、生涯で2度という制限をつけた。500名の評議員は、50名ずつ35~36日間の任期で当番評議員を構成する。この当番評議員は、今日の内閣にあたるもので、日常的な政務のほか、評議会や民会の招集権限をもっていた。市民の中から50人が順番に各々1ヶ月あまり大臣を務めたわけである。当番評議員から、抽選で1名が評議会議長(内閣総理大臣であり、民会の議長でもある)となったが、任期はたった1日で二度と就任することは許されなかった。

氏は、18歳以上のアテネ市民を推定3万人として、評議員になれるのは30歳以上の市民とした場合、評議会議長になれる確率を考えるのも面白い、としている。これらの民主政は、僭主が再び現れないようにとの想いから出たものだが、それでもなお懸念が残り、陶片追放というシステムである。民会で行うべきという意見が多数を占めた場合に行われ、投票数が6000にたしたら、あるいは6000以上の人物のうち最多得票となったらの二説あるのだが、財産や市民権を失うことなく、10年間の国外追放となったという。

ペルシア戦争・マラトンの戦いの少し後、陶片追放が初めて機能した。かつての僭主ペイシストラトスの親族であった。しかし影の部分もあった。政敵を打倒するために組織的な投票が行われたり、流言飛語や風評で有能な政治家・将軍が追放の対象となった。マラトンの戦いで活躍したアリスティデス、サラミスの海戦でペルシア艦隊を撃破したテミストクレスも陶片追放となった。有名な政治家・ペリクレスは、若い頃、この陶片追放=民衆を恐れていたと伝えられる。彼の晩年にアテネは、スパルタとのペロポネソス戦争に突入し、陶片追放も戦争中に最後を迎える。この約100続いた陶片追放について、学生に是か否かを問うという。実際の是非の意見も付記されていたが、なかなかよく書けている。

…実に面白い。自分の意見を形成するとともに、他者の意見をよく聞いてさらに考える。こういう歴史学習は、いいなと思うのである。受験の世界史や日本史では味わえない歴史の醍醐味を得ることになると思う。

2025年11月11日火曜日

桂小五郎から坂本龍馬への書簡

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575896
佛教大学歴史学部編の『歴史学への招待』(世界思想社)という本の青山忠正氏の項に、桂小五郎(木戸孝允)から坂本龍馬宛の書簡の話が出てくる。当時、桂は薩摩側の求め(黒田清隆を薩摩は派遣した。)に応じて、京都の薩摩藩邸で西郷と小松帯刀との直接会談をし、大坂の薩摩藩邸に下って、伏見にいた坂本に六か条の書簡を書いた。(上記画像参照)

この書簡には、「尽力」「周旋尽力」「冤罪も御免」などの語彙が何度も出てくるのだが、当時の大前提を理解していないと何のことか全くわからない。大前提とは、禁門の変以来、毛利家当主父子が、官位停止の措置を受けていたことである。当主・慶親(よしちか)は、天子から「従四位上参議左近衛権中将」、十二代将軍家慶から「松平大膳大夫」の称号を受けていたし、世子・定広は「従四位下左近衛権少将・松平長門守」を受けていたのだが、それらが停止・剥奪されてしまったのである。これは、大名の公式資格の剥奪にあたる。領外の公式の場に出席することも、はたまた家臣の末に至るまで領外にでることもできない状況であった。桂の手紙には、このような大前提を文字にすることさえ忍びないことであったし、明治になって、長州は「朝敵」となった前科を隠し、周囲もまたあからさまに口にすることを憚った。時代が下がるにつれますますわからなくなり、専門研究者でさえ理解されなくなっていったとのこと。

この大前提を薩摩に覆して欲しい、さらには、この周旋努力を遮っている「橋会桑」(一橋慶喜:禁裏守衛総督・会津藩主松平容保:京都守護職・桑津藩主松平定敬:京都所司代)といった、将軍家茂や老中小笠原長行より孝明天皇に近い彼らが邪魔をするようなら「決戦」(薩長の武力行使)も辞さない合意というのが、書簡の内容で、坂本に、長州と薩摩の了解事項は、これでいいだろうかと問い、必要なら朱書きを入れてくれということだった。桂としては、薩摩の口約束を信用するしかなかったのだが、坂本を通じて再確認したかったのだろう。

時は、第二次長州征伐前夜である。坂本は、朱書きを入れずに、この桂の書簡を西郷や小松に見せ、了解を得たと桂に伝えた、と推察される。歴史学から見た薩長同盟の姿がここにあるわけだ。

…たしかに、この長州毛利家の官位停止の話は、初めて知った。幕末史の関係書籍はかなり読んだつもりだったが、この件は初めてで、大いに勉強になった。

2025年11月10日月曜日

教材研究 ドイツの反省と貢献

https://lacosuke.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/33-9fdc.html
ドイツは、16の連邦州で構成され、各州は独自の憲法と広範な自治権を有している。非公式な国是には、「統一と正義と自由」がある。統一は、領邦国家として英仏に遅れを取った歴史をもつドイツにとって、また冷戦下で東西に分裂したがゆえに、重みがある。

一方、ドイツの国是は、国歌の三番の冒頭で「民主主義や法の支配」といった普遍的な価値を重視する姿勢だという見方がある。ドイツは、ビスマルクが統一後、社会主義者を弾圧しつつ、疾病保険法、労災保険法、障害・老齢保険法を成立させ、社会保険制度を確立させた、社会権の先駆者である。WWⅠ後のワイマール憲法は、当時としては最も民主的な憲法(国民主権・男女平等の普通選挙法・社会権の保障等)であったが、ナチスがこれを利用して、民主的プロセスで台頭した。警察権を握りドイツ共産党を壊滅させたうえで、時限立法の全権委任法を成立させ独裁へと持っていく。SA(突撃隊)などの暴力も有効に活用して、ではあるが…。

そのナチによって、WWⅡが引き起こされ、ホロコーストを行ったことは、ドイツにとって極めて重要な反省すべき問題である。「イスラエルの安全はドイツの国是である。」といった考え方も強い。名誉職的な色彩が強いドイツの大統領は、イスラエルへの贖罪が最も重要な政務の1つで、何度も訪問しては贖罪の演説をしたりしている。ただ、最近のガザやイランとの問題で、この国是が揺れていることも事実である。

イスラエルへの贖罪だけでなく、ドイツは国際貢献に熱心である。シリア難民を最も受け入れたことや、戦争で身体的に障がいを受けた子供を預かり、治療して戻すドイツ国際平和村も、その贖罪意識から出ていると私は思う。

ドイツは、伝統的に、理性によって自ら構築した理論構築を重んずる国である。かのナチがホロコーストを行う際に、ニュルンベルグ法でユダヤ人の定義をまず規定したことが、印象に残っている。このドイツの理性については、フランクフルト学派から「道具的理性」と揶揄されているが…。

…イスラエル行で、死海に行った際、バス(画像参照)が途中で動かなくなった。後から来るバスを待っていたのだが、選民意識の強い超正統派は他者を顧みず我先に乗って行った。老人や女性を優先スべきと考えた我々(私と妻と息子の妻)は、最後まで残ったが、同じく残っていたのは、ドイツ人青年だったことを思い起こさせる。彼の胸中にあったのは、贖罪意識だったのか、日本人的発想と同じ理性的判断だったのか…。