2025年9月20日土曜日

旧約聖書のトリビア知識1

https://yphhpo.babedz.ru.com/index.php?main_page=product_info&products_id=20566
息子が実家に残した書籍の中に、旧約聖書の世界という特集が組まれた『月刊言語』の2003年12月号を見つけた。10人の研究者による様々な論文と、2003年度の言語学系の大学院の入試問題が載っている。面白そうなので、通勤のお供にリックに入れたのであった。

竹田青嗣氏に「物語」と断罪され、ニーチェに「ニセモノ」とボロクソに言っている旧約聖書ではあるけれど、比較宗教学的な興味はつきない。(笑)

旧約聖書をユダヤ教では、タナハと呼ぶことは知っていたが、モーセ五書のトーラー、預言書と歴史書のネビイーム、諸書のケスービームのそれぞれ頭文字をとっているらしい。正典化は紀元90年頃エルサレムの真西、ヤムニヤに置かれていたユダヤ教の最高法院で最終決定したらしい。キリスト教が(ヘブライ語から翻訳された)ギリシア語訳を広く使うようになったので、恣意的に誤訳されることに対抗したものらしい。キリスト教ではギリシア語訳の配列にしているが、本文と内容については、ヘブライ語訳に準拠しているとのこと。(旧約聖書には何が書かれているか/本田献一)

…以後、気になった内容をエントリーしていこうと思う次第。

2025年9月18日木曜日

野球は退屈ではない 2

https://www.google.com/search?rlz=1C1VDKB_enJP1148JP1149&sca_esv=2bdaff5eaf256dbe&cs=0&sxsrf=AE3TifPVc5ziq_a0zxGU-DQZ6J3AOMvtmg:1758188850108&q=%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3
%83%A5&stick=H4sIAAAAAAAAAONgVuLVT9c3NEw2KjSrKEgpecRowS3w8sc9YSn9SWtOXmPU5OIKzsgvd80rySypFJLmYoOyBKX4uVB18ixilXvcPO1x88rHzZsfN3eCyd2Pm-c9bt7zuGn74-alAAtKkj1tAAAA&ved=2ahUKEwi75u3ug-KPAxVgZ_UHHRjWHFcQjp4DegQIBBAS
私の勘違いだったのか、今日のフィリーズ第3戦の先発は山本由伸投手のことが大好きなスネル投手だった。(笑)7回を無失点で抑える好投を見せてくれた。フリーマンのHRもあって、打線の援護も万全。8回には、大谷選手の51号も飛び出して、5-0の勝利だった。最後の抑えのスコット投手もなんとか無事に抑えて自信を回復できたようだ。

ところで、いろいろYouTubeを見ていると、フィリーズには大谷選手と関係の深い選手も多い。マーシュ選手(本日の画像参照)は、エンゼルス時代の元同僚というか弟分的な存在。大谷選手のアドバイスを受けて成長した選手で、第2戦では、兄貴分の大谷投手が無失点で降板後、ブルペン陣から逆転3ランを打った。顎髭が凄い。(笑)主軸のハーパー選手は、大谷選手が尊敬するスーパースター。オールスターゲームでは懇意にしている様子が報道されている。そして、現在ホームラン王争いをしているシュワーパー選手。彼とは、互いに尊敬しあっており、今日の試合後も会話しているようだ。

フィリーズのホームは、フィラデルフィア。ギリシア語の「兄弟愛」を名に冠する都市である。またポストシーズンで対戦するだろうが、なんか、いい話である。

2025年9月17日水曜日

野球は退屈ではない

https://news.yahoo.co.jp/articles/793a651144a76d8d7fc25c4c873f8e53f8041f5a
フィリーズと3連戦のうち2試合が終わった。まさにノーヒットノーランと勝利を一気に逃した時の山本由伸投手が、インタヴューで着ていたTシャツ「野球は退屈ではない」というような試合だった。

昨日は、延長戦となって最後は満塁にしながら点を取れず敗退。今日は大谷投手が5回を無得点で抑えて、キケのホームランも出て勝てると思っていたのだが、大谷選手からブルペン投手に代わったとたんに逆転された。しかしその後、チームを鼓舞する50号HR。これで、今年は去年とはまた違う50-50(HRと奪三振数)を達成した。盗塁数と奪三振数どちらが凄いかというのは愚問、大谷投手にしかできない50-50である。凄い記録だ。しかし、結局8回裏に同点に追いついたものの9回に得点され、2連敗になってしまった。この2試合まさに紙一重の戦いであった。…「野球は退屈ではない」

明日は、山本由伸投手が先発するという。このところ、彼の先発試合は凄い投球をしつつも援護がない。なんとしても、この負の「野球は退屈ではない」を払拭してほしいものだ。

2025年9月16日火曜日

アンチクリストの現代語訳 5

https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Antoine-Calbet/1440410/
ニーチェの『アンチクリスト』の現代語訳『キリスト教は邪宗です!』(講談社+a文庫/適菜収訳)の書評第5回目。帰宅時についに読破したので、最終回のエントリー。興味深い記述をいくつか挙げておきたい。

ニーチェは、新約聖書の中で唯一評価しているのは、ローマ総督のポンテオ・ピラト。彼は「真理」という言葉が間違って使用されているを見て、「真理とは何か」と言っている。ニーチェは、新約聖書の中でただ一つ価値を持つ言葉だといい、この言葉こそ新約聖書に対する批判だとしている。調べてみると、ヨハネの福音書18章37・38あたりのことを指しているようだ。

ドイツ人として、十字軍に参加した貴族の高貴なもの(イスラム教)への攻撃を仕掛けたことに胸が痛むと述べ、偉大な自由精神を持っていたフリードリッヒ2世の「ローマとは自刃を振るって戦え、イスラム教とは平和、友好」と語り実行したことを、賛美している。ドイツ人の場合、よほどの才能と自由精神を持っていないと難しい、とも。

さらに、反キリスト教運動であったルネサンスが、馬鹿なドイツ人によって失われてしまったと嘆いている。それがルターである。当時のローマはキリスト教という病気が克服されていた。法王の座にキリスト教はなく、「生(への意思)」が座していた。ニーチェは、チュザーレ・ボルジア(本日の画像参照)の名を出しているが、傭兵であり枢機卿であった彼のことを調べると当時の混乱がよく分かる。ルターは、法王が堕落していると思ったが、本当は全くの逆であるとニーチェは考えている。もう少しでキリスト教が滅ぶところで、ルターが教会を立て直してしまった。本当にドイツ人はろくなことをしない、と嘆いているのである。

…とにかく、最初から最後まで罵詈雑言の書であった。(笑)とはいえ、学院のシスターや洗礼を受けておられる先生方を見て、ルサンチマンをあまり感じないのも事実である。とんでもないルサンチマン集団が、外交・経済・スポーツ・芸能などであらゆる国際的非難を浴び崩壊寸前であることのほうに、これがルサンチマンの極致か、と強く感じてしまうからかもしれないが…。

2025年9月15日月曜日

ユニコーンとモンスターの1日

https://the-ans.jp/column/464368/
ドジャーズは、SFジャイアンツと3連戦。日本時間14日の試合は、カーショーが早くに打たれて厳しい試合だったが、大谷選手の今シーズン最長距離のバックスクリーン直撃の49号HRで、打線に奮起を促し逆転・大勝した。試合を支配する圧倒的な力を大谷選手は持っている。故にスーパースターであり、さらに100マイルの速球を投げるユニコーンと呼ばれる所以である。15日の試合も、その勢いをかって勝ち越した。MLBの過酷な戦いの中で、これだけ安定的に活躍することは本当に凄い。

さて、同じく14日、名古屋でボクシングの井上尚弥選手が、アフマダリエフ選手と戦い、判定勝ちした。これは、最初からの戦略であったようだが、完璧な試合だった。本人は何度もKOしようと思ったようだが、最後まで判定で勝つという戦略を忠実に守った。ハイライトを見たが、最強の挑戦者といわれるアフマダリエフ選手との実力差を感じた。さすが、モンスターである。

大谷選手は、投手復帰も実現しながら、最近は1番バッターとして、For the teamに徹しているように感じている。無理にHRを狙わず、状況に応じたバッティングをしているように感じている。実際、得点数はダントツだ。

ユニコーンもモンスターも、そういうメンタルが強固だからこそ、日本が誇るスーパースターであるのだろうと強く感じた次第。

教材研究 工業と金融の周縁化考

https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1574570.html
教材研究のエントリーの続きである。グローバリゼーション下では、自由貿易体制の工業は周縁化している。前回のエントリーで示したように、途上国はサプライチェーンに入っているか否かで、経済発展の可能性大きく違う。一方、先進国の中でも、先進的な技術を持つ国が優位である。その例を少しばかり語ろうと思っている。

設計開発能力:IT(半導体などのハード面とOSなどのソフト面)や航空機、自動車などの設計開発能力(開発資金も含む)をもつ国が最も優位。これは、アメリカ、日本、ドイツ、フランス、イギリスなどになる。中国は、(かなり穏やかに言うと)リーバース・エンジニアリングを行い他国の開発能力を再現することに長けている。今のアメリカの対中強行経済戦略の原因でもあるわけで、このことも少し話しておこうかと思う。

高度な材質:半導体を例に取ると、必要なシリコン加工には、日本の信越化学(世界シェアが40%)とSUMCO(同20%)といった世界を牽引する企業が存在する。純度が高いので、他の追随を許さないようだ。凄いぞ、JAPANという話。

高度な生産設備:日本企業が作った純度の高いシリコン・ウエハースに回路を露光する装置・設備は、オランダのASMLが圧倒的シェア(95%)を占めている。(本日の画像はASMLからインテルへ装置を貨物航空機で運ぶ様子)昔はNIKONやCANONも参入していたようだが撤退したという。ちなみに、隣国の半導体はおろか、自動車などの機械工業の工作機械はほとんどが日本製で、以前感情的に不買運動を頑張っていたが、工作機械も破棄・不買したらよかったのに、と思う。

高度な部品生産:自動車では、最も生産が難しいのは、トランスミッション装置だそうで、日本企業は、アイシン(シェア20%)を筆頭に多くの企業が生産しており、極めて優秀だそうだ。これも同じく凄いぞ、JAPANという話。

先進的ではないが、どこでも作れるわけではない技術として、機械部品に使われる合金鋼がある。粗鋼ではなく、ニッケルやクロム。モリブデンなどを加えた強度・耐摩耗性・耐熱性が優れた素材で、中国やインド、マレーシアなどで生産されている。このあたりは先進国を中核とすれは、その周囲に広がるサプライチェーン国である。

その周縁に前述のサプライチェーンに入れない国々=経済構造の変化という「梯子」を外された国があるわけだ。

ところで、先進国の強みは工業だけではない。第三次産業で最大の収益を上げる金融のことに触れておかねばならない。ネットで、金融立国のランキングがあったので整理してみた。1位はアメリカ、2位はイギリス、3位はルクセンブルグ、4位はシンガポール、5位はドイツ、6位フランス、7位アイルランド、8位香港、9位スイス、10位はオランダ、11位カナダ、12位日本、13位イタリア、14位ベルギーと続いている。かの政府系ファンドのノルウェーは意外に22位だった。金融センターのランキングは、ニューヨーク、ロンドン、香港、シンガポール、サンフランシスコ、シカゴ、ロサンゼルスの順となっている。

…グローバリゼーションのモノ・カネの話をしたので、最後に人についても語っておきたいと考えている。少子高齢化が進む先進国では、外国人労働者の増加という問題を抱えている。ヨーロッパでは、旧植民地からの流入に始まり、EU統合後、旧社会主義国からの流入、さらにシリア難民などのイスラム教徒が流入したという経過が有る。移民国家アメリカでは、中南米からの不法移民を巡って、民主党と共和党の政治的な問題から分断の危機さえ言われている。

…2024年の移民人口ランキングを見つけたので表にしてみた。1位はアメリカ。2位はドイツで、伝統的にトルコ系が多いが、シリア難民を多く受け入れて苦悩している。3位は、アラブ諸国からの労働者の多いサウジ。4位イギリス、5位フランスと旧植民地からの移民の多い国が続き、6位スペイン、7位カナダ、8位はUAE(サウジと同じアラブ系労働者が多い)、9位オーストラリア、10位は意外でロシア、11位はトルコ(シリア難民が多い)、12位はヨルダン(こちらはパレスチナ人)、14位はこれも意外だがウクライナ、15位はインド、16位はパキスタン、17位はイラン。この辺は良くわからない。(笑)18位はマレーシア(インドネシアやバングラディシュなどイスラム系アジア人が多いのは経験上知っている。)そして19位に日本となっている。少しずつ解説する時間があればいいなと思っている次第。

2025年9月14日日曜日

教材研究 自由貿易と保護貿易考

https://www.senghuat.com.my/brand-pensonic
体育大会関連の5連休の今日は4日目である。とはいえ、ずっと教材研究と中間試験の作成に励んでいる。久しぶりに教材研究のエントリー。資本主義経済の歴史で自由貿易と保護貿易、歴史的考察とグローバリゼーション下の現状を開発経済学の視点から考えてみた。

最初の先進国イギリスは優位性の中で、リカードの比較優位説によって国際分業を提唱する。しかし、フランスはナポレオンの大陸封鎖令で保護貿易化し自国の工業を育成、ドイツもリストの保護貿易説をビスマルクが採用、関税を導入して自国の工業を育成した。また、アメリカでは南部の自由貿易政策、北部は保護貿易政策を唱え、南北戦争の遠因をつくった。日本でも関税自主権の回復が大きな政治課題であった。保護貿易ができないわけで、自国の工業化が進まなかったのである。WWⅠの後の世界恐慌後、英仏はブロック経済、アメリカはニューディール政策、ドイツと日本はファシズム(この米独日はケインズの有効需要を自国内のインフラ整備で行うか軍需で行うかという相違)で、すべて保護貿易化を行った。その結果WWⅡが起こったという反省から、戦後の自由貿易体制(CATT/IMF/IBRD)を生むことになる。さらに、情報通信・交通機関の発達、そして冷戦の終了後、人・モノ・カネが国境を超えるグローバリゼーションへと発展する。

さて、このグローバリゼーションにおいて、コストを最も容易に削減できるのは労働賃金である。そこで安価に抑えられる途上国で生産を行う企業が増えてくる。もちろん、前述の紛争の罠や劣悪なガバナンスの罠に陥っている国は避けられ、きちんと教育を受けた従順な労働力がある国に投資され、技術力によって、サプライチェーン(SCM)に組み込まれることになる。たとえば、日本のメーカーのパソコンでも、ある部品は台湾、ある部品はマレーシアといった具合である。こうした企業の途上国への進出は、企業はコスト面のメリット、途上国に生産・経営等のスキルを学べるというメリットがある。実際に代替産業が生まれる可能性がある。上記画像は、サプライチェーンに組み込まれた国々。輸出品目(額)を確認すると、機械類が多い。インドの石油製品とあるのは、精製を行っていることを意味している。

…マレーシアには、Pensonicという(代替産業の)家電メーカー(画像参照)がある。(笑)私は日本企業と勘違いして、えらく安いなあと思い扇風機を購入したのだが…。また日本企業の協力を受けて国産車メーカーが頑張っている。フィリピンと聞くとバナナを連想するが、マレーシアで、メガネ(日本のMIKIの店舗)を購入した際、フィリピンで私に合ったレンズを作ると言われて驚いたことがある。

ところで、(前述のように)自由貿易体制は、国家間の戦争を防止するという利点があるが、同時に保護貿易可で国内産表を発展させることが難しくなる。投資を受け、スキルを学べる国はいいが、様々な罠に陥って投資を受けられない国には、経済発展への展望が見えない。しかもIMFや世界銀行等は、そういった国々に半ば自由貿易政策(先進国の商品を低関税で輸入させられ、先進国は天然資源やプランテーションの商品作物を低関税で輸入できる)を強制しており、これを受け入れないと融資を受けることができない。すなわち、途上国側から見るとその経済構造を固定化するもので、梯子を外されているのに等しい。開発経済学では、このような状況を「構造的暴力」と呼んでいる。

…最後に、最近のニュースでもあった中国のアンゴラモデル(天然資源を担保に資源開発やインフラ整備を行うが、全てを中国企業と中国人労働者によって賄う方式)の解説と、新植民地主義についても論じるつもりである。

2025年9月13日土曜日

オススメYouTubeチャンネル

このところ、元テレビ東京のディレクターだった下矢氏のYouTubeをよく見ている。TVや新聞、週刊誌などのマスメディアの裏側を小気味よく解説してくれている。下矢氏がホントに優秀な人だと思うのは、「この件については、3つの原因があります。」などと極めて論理的に話すところ。快刀乱麻という感じである。

いろいろと見てきたが、大阪万博の問題点を指摘した回が最も面白かった。https://www.youtube.com/watch?v=CMNzY-DNKIA

マスメディアだけでなく、様々な問題にも触れてくれていて、私のお気に入りに見事に入ってきた。オススメである。あまり詳しく記すると良くないと思うので、是非一見してみて欲しい。

2025年9月12日金曜日

学院の体育大会 2025

実は、今日は学院の体育大会なのであるが、昨年の会場が工事とかで、かなり遠くの会場になった。生徒たちや先生方もも最寄り駅からピストンバス輸送という大変なことになった。周囲の駐車場も万博の影響で高騰しているらしい。保護者のみなさんも大変だ。ということで、管理職の先生方と相談の上、今回は見合わせた次第。

とはいえ、3年生は、男女とも体育祭のメインともいえる女子のメイポールダンス、男子はソーラン節を行うので、かなり以前から体育の時間頑張っていたのを知っている。今週の火曜日の5・6限は総合練習だったので、それぞれの練習風景を見に行った。せめて、練習風景だけでも見届けておきたいと思ったのである。

近くで見て、メイポールダンスが実際に編み込まれていく様がわかった。色取りどりの布を持った女子生徒が複雑な動きをして、ポールに編まれていくのだが、昨年は全体の上品なダンスに目が行っていたので、編み込みという重要な部分を見落としていたのだ。

男子は今年も元気である。普段は目立たない男子が頑張っていて嬉しくなった。成功を祈るばかりである。

アンチクリストの現代語訳 4

https://zh.freepik.com/premium%E5%9C%96%E7%89%87/flag-anarchist-painted-wall_40204293.htm
ニーチェの『アンチクリスト』の現代語訳『キリスト教は邪宗です!』(講談社+a文庫/適菜収訳)の書評第4回目。ニーチェのユダヤ教観とイエスの人物像について。

ニーチェは、ユダヤ教については、このように考えている。そもそもエホバ(=ユダヤ教の神・ヤハウエ)は、民族を守る正義の神だった。しかし、アッシリアに滅ぼされる。他の民族ならここで、この神を捨てるのだが、ユダヤ人は、「神への信仰が足りなかった」と受取る。これは自然界の法則を無視した行いであり、その「道徳」は自然なあり方をゆがめてしまった。よって、(旧約)聖書は、ユダヤ教の宗教指導者が、神に対する罪と罰、祈りと報いといった子供だましのカラクリを使って歴史を改竄した。

…鋭い指摘である。古代の各民族の神は、民族の攻防の中で権威を失うことが普通。ニーチェの言う通りであり、民族の神に固執したユダヤ教の成立については、かなり特殊な事柄だと言える。ユダヤ教の宗教指導者が、ニーチェの言を借りると”猿芝居”とした、神の意志、神の国といった概念を捏造したのが聖書だというわけだ。たしかに旧約聖書は、出自となった文書によって、矛盾した記述(特に創世記)があることも明確である。

さて、ニーチェはイエスをアナーキスト(本日の画像はアナーキズムのシンボル)であるとする。そもそも新約聖書は、イエスを理解できなかった彼の弟子たちによって書かれており、後のキリスト教に都合の良い様に描かれたインチキ本で、読むときは手袋をするくらい嫌いだと書いている。(笑)

本来のイエスは、ユダヤ教に反抗したのではなく、ユダヤ教を支配していたシナゴーグや善なる正しい人・イスラエルの聖者(=神学者)に反抗し、下層民や仲間はずれ、犯罪者をあおって、ユダヤ教が支配する社会を攻撃した人物だという。そして、イエスとキリスト教は関係がない、と断言する。

イエスは、一切の決まり事を認めなかった自由な精神の持った人で、あくまで自分自身に見えていた「光」、精神の問題を純粋に証明したしただけ、人類に残したものは実践、実際に物事を行動に移すことであって、人間を救うたために死んだのではなく、人間はいかに生きるべきかを教えるために死んだと、ニーチェは結論付けている。

…このイエス=アナーキスト説は、かなり説得性があるように思う。高校の倫理では、律法の成就がイエスの功績とされているのだが…。

2025年9月11日木曜日

アンチクリストの現代語訳 3

https://navymule9.sakura.ne.jp/Kant_as_watershed.html
ニーチェの『アンチクリスト』の現代語訳『キリスト教は邪宗です!』(講談社+a文庫/適菜収訳)の書評第3回目。ニーチェのカント批判についてのエントリー。

ニーチェは、カントを危険人物だとしている。悪意に満ちた間違いを2つ犯したという。実際にはありもしない「真の世界」をでっちあげたことと、「世界の本質としての道徳」というわけのわからない考えをでっちあげたことだ、としている。この2つの間違った考えを上手く料理して哲学として完成させてしまい、なかなか反論しがたい仕組みをつくり、キリスト教に支配されていたドイツの学会が大喜びしたと批判している。

…この記述の背景を帰しておくと、『純粋理性批判』において、先天的認識形式を確立した。この認識形式は、対象をまず感性が感覚的質量として認識した後、悟性が経験によって形成されるカテゴリーから当てはめるというもので、経験できないことは認識できないという結論になった。これは、カントが大学で教えていた形而上学(実証できない=経験できない対象についての学問)の終了を意味した。そこで、カントは、道徳の問題は、経験を超えた物自体の世界にあり、道徳形而上学を『実践理性批判』で成立させるのである。(経験を基盤にした道徳は、功利主義的な善=幸福になってしまうからである。)

…ここで、ニーチェの言う「真の世界」というのは物自体の世界のことで、「世界の本質としての道徳」というのは、道徳法則(自分がこれから行おうとしている行為を、世界中の人が同時に行っても良いかどうかを考えて行為せよ。)を中心にした物自体の世界から導かれた実践理性による道徳である。ドイツ観念論は、この後フィヒテの絶対的自我、シェリングの絶対者、さらにヘーゲルの絶対精神へと繋がっていく。

ニーチェは、カントを神学者として成功したと揶揄している。道徳は我々が人生において作り出したもので、自分たちを守るもの、必要なものであるが、それ以外のものではなく「道徳を大切にしよう」という考えは百害あって一利なし。普遍的な道徳・義務・善など、幻想にすぎない。人間はそれぞれ自分の道徳を自分で発見していくのが自然であり、カントの高いところから見下した、抽象的、一般的、義務的な道徳は危険思想だと散々である。自分で勝手に考えて、勝手に確信したことを真理とみなし、カントは、実践理性などと名付けて科学にしてしまおうとした。まさに思い込みに過ぎない。

…「カント以前の哲学はカントに流れ、カント以後の哲学はカントから流れた」と言われるほどの大哲学者であるカントを、ニーチェは見事なまでにボロクソに言っている。実に興味深い記述であった。

2025年9月10日水曜日

アンチクリストの現代語訳 2

ニーチェの『アンチクリスト』の現代語訳『キリスト教は邪宗です!』(講談社+a文庫/適菜収訳)の書評。とにかく、この現代語訳は、辛辣という表現では足りないほどのキリスト教への罵詈雑言がつまった一冊である。カトリックの学校である学院の図書館においてある事自体がホント不思議である。

膨大な付箋をつけながら読んでいるのだが、まずニーチェがキリスト教の問題点を5点にまとめ上げている部分を取り上げておこう。

1:神・霊魂・自我・精神・自由意志などといった、ありもしないものに対して本当に存在するかのような言葉を与えたこと。2:罪・救い・神の恵み・罰・罪の許しなどといった空想的な物語を作ったこと。3:神・精霊・霊魂などありもしないものをでっちあげたこと。4:自然科学をゆがめたこと(彼らの世界観はいつでも人間中心で、自然というものを少しも理解していなかった)。5:悔い改め・良心の呵責・悪魔の誘惑・最後の審判といったお芝居の世界の話を、現実の世界に持ち込んで、心理学をゆがめたこと。

キリスト教の敵は現実である。なぜなら彼らの思い描いている世界と現実はあまりにもかけ離れているからで、現実がつらいから逃げているにすぎない。素直に現実を認めることができなくなってしまった。これが作り物の道徳や宗教の本質である。

ニーチェは、この後、自信を持っている民族は自分たちの神を持っている。神をまつるのは、自分たちの誇りのためであり、自分たちの繁栄の条件や美徳を神に投影する。感謝する相手は自分自身である。有益でもあり有害でもある。味方でもあり敵でもある。悪いことにおいても良いことにおいても神は必要とされる、それが本当の神の姿である、こういう神の持っている一面を捨ててしまって、単に善のみの神にしてしまうことはできないのである、と述べている。

…ニーチェのキリスト教批判、就中、神の存在についての核心部分でもあるのだが、ニーチェは、キリスト教における神の存在を否定しているが、他の宗教の神も一緒に否定しているわけでない。上記の記述を見ると、ニーチェの超有名なアフォリズム「神は死んだ」が出てくる『ツァラトゥストラはかく語りき』を想起できる。(ゾロアスター教の開祖のドイツ語名がツァラトゥストラである。)ゾロアスター教は善神アフラ・マズダと悪神アンラ・マンユの二神教であり、上記の記述と一致するからである。

2025年9月8日月曜日

美学の相違を強く感じた日

https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/photonews/photonews_nsInc_202509070001195-1.html
昨夜、我が日本国の首相が辞意を表明した。参議院選の敗北から50日。今更という感じである。これで、首相とともにあの売国的な外相も消えてくれる。自分の保身のための50日。全く美しくない。

ところで、今朝、大谷選手が、オリオールズの菅野投手から2打席連続でHRを放ち、ベッツ選手も続いた。(これまでも元巨人の菅野選手にはめっぽう強いのだが、HRの分析についてはかなり難しい球だったとレジェンド達が称賛していた。)5連敗を阻止するとともに、昨日の山本由伸投手の無念を晴らそうとする強い意志とチーム のための献身さを感じた。このオリオールズ第1戦で、急遽先発登板したのも、侠気を感じる。

…この美学の違い。少なくとも日本国首相の座にあったヒトには、煩悩の多さゆえにわからないだろう。そんな違いを多くの国民が感じたのではないだろうか。総裁選では、まともな美学をもった人物に出てきてほしい。

2025年9月7日日曜日

山本由伸投手の衝撃的悲劇

このところ、ドジャーズの連敗が続いている。対オリオールズ、第2戦は山本由伸投手が先発したのだが、打撃陣も頑張って3点を取って、ノーヒットノーランを9回の裏ツーアウトまで続けていた。ハムショー氏のラジオ実況を聞いて、ドキドキしていたのだが、最後の最後にホームランを打たれてしまった。ここで、苦笑いで降板。その後、ブルペン陣が打たれ、ドジャーズはまさかまさかのサヨナラ負け。

…とんでもない試合だった。言葉がない。

2025年9月6日土曜日

アンチクリストの現代語訳

不思議な台風だった昨日、学院の図書館でニーチェの『アンチクリス』』の現代語訳を借りてきた。タイトルは『キリスト教は邪宗です!』(講談社+a文庫/適菜収訳)である。このようなタイトルの本が、キリスト教関係の蔵書で溢れている学院の図書館にあったことが不思議なのだが、すでに3人の貸し出しが記録されていた。(笑)

帰路に少し読んだのだが、やはり現代語訳なので読みやすい。詳しい書評は後日エントリーしていきたい。

2025年9月5日金曜日

台風はどこ行ってん?

https://tenki.jp/forecaster/domoto_yukiyo/2025/09/04/35543.html
今回の台風15号で被害を受けられた方には誠に申し訳ないのだが、大阪では「台風はどこ行ってん?」という1日だった。昨日の予報では、昼過ぎに大阪直撃と言われていた。たしかに朝は激しい雨だったが、1時間目の前には雨がやみ、曇り空だったが、昼には厳しい日差しが降り注いだのだった。備えあれば憂いなしで、気象庁の注意喚起の意義は認めるが、なんとも不思議な「台風直撃」だった。

学校現場では、それぞれ警報によって休校措置や帰宅待機などの要項を定めている。昨日の予報では、万が一の事態も想定されていたはずで、遠方からの通学の生徒もいるし、JRなどは実に脆弱である。心配の種が尽きない1日であったが、フツーに授業を消化できた。まあ、ありがたいことではあるのだが…。

2025年9月4日木曜日

竹田青嗣氏の陽水文芸批評

「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第15 回目というか、最終のオマケ的エントリー。最後の方で竹田青嗣氏が井上陽水の文芸評論を書いていたことが判明したので、井上陽水について、である。

上記画像の『陽水の快楽』だが、当然私は読んでいない。この本のレビューを見てみたが、かなり哲学的な内容であるようだ。「拓郎・陽水・かぐや姫」の世代として、竹田氏が拓郎ではなく、またかぐや姫ではなく、陽水を好み、文芸批評として選んだことは十分に理解できる。

昔々、商業高校勤務時代にサッカー部の指導をしていただいたM先生が、陽水の「傘がない」を題材として国語の授業をしておられたのを思い出す。竹田氏はこの「傘がない」については、五行くらいしか書いていないらしい。陽水の初期のプロテストソング的な名曲であると思うのだが…。

陽水には名曲が実に多い。私の陽水・ベスト1は、「ワカンナイ」である。これは、沢木耕太郎のエッセイ『バーボンストリート』に出てくる。宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩の内容を陽水が沢木耕太郎に電話で聞くところから始まる。詩の内容を伝えた沢木だったが、これが歌になったのが「ワカンナイ」である。下記URLで聞いてみて欲しい。

https://www.youtube.com/watch?v=i1VF5AU3yYg

宮沢賢治を揶揄しているような歌詞ではあるのだが、私は2番にある「南に貧しい子供がいる」(南という語彙で途上国を表現している)「東に病気の大人が泣く」(当時の東は社会主義圏である。)の表現に震えた。そして「今すぐそこまで行って夢を与え、未来の事なら何も心配するなと言えそうかい?」と続く。シュール(超現実主義)なようで、全くシュールではない。

この「ワカンナイ」について、ネット上で解説しているページ(前編と後編)があって一読してみた。

https://note.com/vast_moose217/n/n17eb46155356

https://note.com/vast_moose217/n/ne3e101cc44e4

ここでは、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が、彼の死後全く異なる方向に受け取られてしまったという論が展開されている。陽水も、時代の違いを踏まえながら、その悲哀を歌っているのではないかというわけだ。なかなか興味深い考察である。

私自身は、ふと幼い頃に見た「エデンの東」のシーンを想起した。真面目で慎み深い弟が自暴自棄になってWWⅠの兵役につき、兵員輸送列車の窓ガラスを頭で割るシーンだ。幼くて、この映画の主題となっているカイン・コンプレックスなど知らない私だったが、悪である主役のジェームス・ディーンではなく、なぜ善である弟がこういう目に会うのか、という理不尽さだけを強く感じたのだった。

宮沢賢治の人生は、生前は決して恵まれ、喝采を浴びるようなものではなかった。善の人でありながら…。陽水は、この歌の中で、その善の人を揶揄しているわけではない。その善をハイデガー的に表現すれば、不特定多数の「ひと」にわかってもらえない故の悲哀を、「ひと」には「ワカンナイ」とあえてカタカナで表現しているように思うのである。

2025年9月3日水曜日

時間がない でも合格したーい

JRのドアの広告で、以前から気になっているものがあった。個別指導塾✕某予備校の広告なのだが、「時間がない!でも合格したーい!」と女子高生がハンドメガホンで叫んでいるものである。

受験生と接することが日常である私にとって、この「時間がない」という感覚はよくわかるし、実に効果的なキャッチコピーと、それにマッチしたイラストで実に俊逸だと思っている。イラストもほどよく、ジプリ的で昭和のオジサンにも違和感がない。(笑)

ところで、受験に関するYouTubeチャンネルは、できるだけチェックしている。関西圏では特に、生徒数の減少で指定校推薦や総合型選抜・自己推薦型入試、さらには年内の学力試験で私大は囲い込みを大いに図っている。来年の国公立などの難関校一般入試を受験する方が少数派になってしまった。今や、様々な入試方法があり、ある意味、受験生も迷うところだろう。

今週も、地理の課題(HDIやアフリカの地誌)をやってもらっている間、多くの生徒と進路について雑談をしていた。関関同立よりも、近大の人気が著しく高くなっている。オープンキャンパスや各学部の教育内容がいいという声が多い。今年もまた、生徒諸君からの要望があれば、社会科学的な部分のフォローをする予定でいる。

2025年9月2日火曜日

教材研究 産業別人口から Ⅱ

https://garden-index.com/botsuwana/
経済発展は、産業別人口の変化を促す。第1次産業から、第2次・第3次産業へと移り変わっていく。古くは、イギリスのエンクロージャー。農園を追われた人々は自由な賃金労働者となって、都市の工場へち吸引された。日本でも高度経済成長期に、農村から都市(工場)へという人口流出が起こっている。これは、農業技術の進歩や農業の利益が低い故の貧困が理由であるといえる。

都市に移り住んだ工場労働者は、その賃金で様々な財・サービスを消費する。(前述の竹田・苫野氏の指摘する「普遍消費」である。)ここから第3次産業が発展するわけである。これが、一般的な法則性で、先進国や中進国では、同様の動きが起こった。

ただ、アフリカ諸国では、農業技術が進んでいない関係で、農業の労働人口が過剰になることも多い。そこで、青年層を中心に血縁や地縁を頼り都市に出る場合が多くある。ここでも「情の経済」が有効に働く。ただ、劣悪なガバナンスのもと、先進国からの投資はあまり行われていないこともあって、彼らを吸収する工場の雇用は少ない。そこで、インフォーマル・セクター(正規の経済活動ではない仕事)につくことになる。タンザニアのマチンガ(路上で先進国から放出された古着を売る人々)が有名だが、ケニアでは、売り物にならなくなった花をまとめ、交差点で停車した女性に売る正装した男性を見たし、ジンバブエでもタバコを1本売りする少年、ブルキナでもマルシェ(市場)で、注文を受けて買ってくるのが仕事という人々にも出会った。これらは間違いなくインフォーマルセクターだと思うが、路上の商店など、どこまでがフォーマルで、どこからがインフォーマルなのか判別がつかない状況があった。

ところで、最貧国の内陸国、ブルキナファソには、コカコーラの工場があった。商品が重いので、他国から輸送するより国内に設置した方が効率的だという理由だと思うが、これは装置工業ゆえに雇用が少ない。産油国の中には、石油精製工場を持っているところもあるが、これも装置工業。輸入代替工業は、中国の安価な中国製品の進出を受けて発展していない国がほとんどである。アフリカの第2次産業化への移行はなかなか進んでいないのが現状である。面白いのは、モーリシャス。雇用が多く必要な縫製業が盛んで、GNIを押上ている。ボツワナでは、ダイヤモンドの生産から、研磨(画像参照)へ、さらにはデ・ビアズ社と合弁で首都ハボロネで国際取引市場を形成している。第2次産業から第3次産業まで一環して利益を挙げているわけだ。しかも内陸国ではあるが、ダイヤモンドは高価でしかも小さい故に、航空機輸送で輸出できている。

…ところで、東南アジアの中進国などでは、先進国からの投資を受け、輸出加工型工業が発展している。自由貿易と保護貿易の葛藤や比較優位説などの歴史を踏まえて、「グローバリゼーション」と、地理分野として今や無視できない「サプライチェーン」に話を進めていこうと、今考えているところである。

2025年9月1日月曜日

教材研究 産業別人口から Ⅰ

地理総合の教材研究は、近代国家論の資本主義に入っていく。どこから入るか大分悩んだのだが、産業別人口から考えていくことにした。

まずは、缶コーヒーの価格が120円であるとすると、コーヒー豆(第1次産業)は15円、缶代と缶の加工費(第2次産業)が25円、販売(第3次産業)が80円になる。それぞれ、労働賃金とコストと利益が含まれているのだが、コストについては、あえて細かく説明したい。高校生にとってこういう現実的なコスト(例えば、缶の原料費のコスト:鉄やアルミの採掘費用+精錬費用+輸送費+それぞれの労働賃金になる。)は、イメージしにくいからである。

このコーヒー缶の例で、利益は、第1次産業<第2次産業<第3次産業となる。第3次産業のなかでも金融業が最も利益率が高いのだが、これは後に説明するつもり。

次に、産業別人口比とHDIの順位を比較してみる。二宮書店のデータブック・オブ ザ ワールド(画像参照)から、15カ国をピックアップしてみた。第1次産業の人口比が低い順に表にしてみた。第1次産業人口比における先進国(低い)と途上国(高い)の差は歴然である。また特記事項として、農業従事者1人あたりの耕地面積(データブックの各国別データから引用)なども追加した。

第一次産業は農林水産業であるが、多くの国はその中でも農業の比率が高いと考えられるので、農業における土地生産性と労働生産性(これは地理のカテゴリーである。)について、少し深く見ていくことにした。①土地生産性が低く、労働生産性が高いアメリカやオーストラリアなどの(地理の専門用語で言うと)商業的穀物農業。②土地生産性も労働生産性も低い途上国の天水耕作の影響を大きく受ける(これも地理の専門用語で言うと)自給的穀物農業。③土地生産性が高く、労働生産性が低い(=安価で雇用)、途上国のプランテーション。この安価で雇用されていることについては、フェアトレードにも触れることにした。④土地生産性も労働生産性も高い園芸農業。農業従事者1人あたりの耕地面積が狭い日本やオランダだけでなく、途上国でも見られる。

…地理総合というフィールドで、資本主義を語ろうとした場合、意外にこの産業別人口比から見ることは有効だと思う。次回は、第1次産業から第2次産業・第3次産業へと労働人口が移動していく資本主義の発展の法則に繋げたい。…つづく。

2025年8月31日日曜日

興味深い M・ウェーバー批判

https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Alessandro-Lonati/1459103/
「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第14 回目。本質学的な哲学の視点で資本主義を説明するという部分。

第一に、資本主義は、それまでの経済システム(国王がすべての所有者であった時代は収奪の経済システム)と全く違った、近代社会に固有の経済システムであること。

第二に、資本主義は、生産力を持続的に拡大していく経済システムである。生産された財を商品として、共同体、国家間で交換し合うという(資本主義の前段階的な)自由市場経済システムが、国家の経済を飲み込み、ヨーロッパの諸国家全体がその圏域となった。17世紀以後、他の文明を制覇した理由である。

第三に、その生産拡大の根本構造を、普遍交換ー普遍分業ー普遍消費という構図で示せること。(ここで言う「普遍」は、「いたるところで」という意味)市場経済は、国家間で財を交易・交換する。自国で閉じられた経済より、交換の経済は両方に利がある故である。利を増やすためには、沢山の財だ必要でありので、共同体に働きかけ、分業を促す。この分業、つまり生産技術の向上が生産力を高める。(アダム・スミスの国富論のピンの話が例として使われる。)自由主義経済が資本主義になりためには、さらに「消費」という要因が必要である。近代市民国家では、一般市民が消費のサイクルに入って3つの歯車(普遍交換ー普遍分業ー普遍消費)が回り続けることが可能になった。(中国やイスラム世界では、商業は発展したが、近代国家化できなかった故にで資本主義にはならなかった。)

…この資本主義の「普遍交換ー普遍分業ー普遍消費」という構図を竹田氏は重視している。特に、後ろの普遍分業と普遍消費が重要だと思う。ただし、授業では哲学的にすぎるので使いにくい。

マックス・ウェーバー(画像参照)の『プロテスタンティズムと資本主義の精神』について、竹田・苫野両氏は批判的である。禁欲的な勤労、予定説的な精神は、資本主義の発達と軌を一にしてはいるが、必ずしも本質論ではない、と。聖書中心主義のプロテスタントが識字率を押し上げたこと、そのことによる高度な人材が経済成長を後押ししたこと、またヨーロッパの王権は弱く、プロテスタントの経済エリートに頼らざるを得なかったこと、すなわちブルジョワジーが権力をある程度掌握できたことなどの論を紹介している。

さらに、ヨーロッパの資本主義的「競争」意識を挙げ、16世紀以降の植民地争奪戦、スペインの没落を例に取っている。産業革命の重要性がよく語られるが、これは分業の発展形であると断じている。

…M・ウェーバー批判が実に興味深い。この定説は倫理などで必ず教えるところであるのだが、本書で指摘されている識字率や高度な人材、さらに王権の弱さとブルジョワの台頭などの話のほうが定説以上に重要だと思った次第。

2025年8月30日土曜日

ノルウェイ政府系ファンドの話

https://japolandball.miraheze.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC
ノルウェイの政府系ファンド、ノルウェイ政府年金グローバルが、イスラエルのガザ攻撃は人道危機であり、ECG(投資家としての責任で戦争や人道危機に関係する企業等には投資しないという規定)に違反するとして、イスラエルの株や債権を売却することを発表した。さらに、イスラエルに゙加担するアメリカの企業の株式(キャタピラー社)も売却するということで、トランプ政権が報復関税をかけるという話が出て、大きな関心を集めているらしい。

https://www.youtube.com/watch?v=2FpNvKJa7xU

1967年に設立されたノルウェイの政府系ファンドは、北海油田の莫大な収入を将来のために活かそうとしたもので、2024年時点で、世界最大の$1,8兆の資金を運用している。この天然資源のレントの最も有効な使用法として、地理総合でも触れる内容である。

ただ、モハPチャンネルでは、8月に行われたこの動きに対して、疑義をはさんでいる。時期が唐突で政治的な問題がからんでいるようだ。ノルウェイの労働党政権はパレスチナを承認すると発表したフランス、それに続こうとするイギリスに近い立場だが、中道左派でそこまではやらない穏健派であるのだが、9月の議会選挙で現在は不利のようで、連立を組む強硬派の社会党の選挙協力を得るための配慮だと言われており、選挙の結果次第では、再び方向転換する可能性もあるそうだ。

意外に、ノルウェイ国内ではこの政府系ファンドへの関心は薄いのだが、今回はアメリカの関税問題もあり、関心が高まっているようである。ポートフォリオではイスラエル関連の投資は0.1%程度=2500億円ほどだが、世界的な金融関係者も注目しているとのこと。この世界中の機関投資家が共有しているECGが机上の空論なのかどうかが浮き彫りにされたのが、今回の問題だといえるらしい。

2025年8月28日木曜日

フーコー「見えない権力」批判

https://www.etsy.com/jp/listing/1447490765/misherufknoposut-oo
「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第13 回目。竹田・苫野師弟は、哲学の原理学という観点から、「表象(イメージ)の誤謬=イメージ当てはめ型批判」について批判を展開している。そこに挙げられてくるのが、ポストモダンのど真ん中にいたフーコーである。

まず、「規律権力」近代国家は、国家は一体であるという「幻想」を人々に与えるために、規律的な近代教育を利用した。近代国家は、暴力装置としての国家という古い形態から、文化全体が人間の主体を無意識に支配に従属させるような新しい支配システムと変化し、文化的な「見えない権力」による支配という像を描き出した。この像は、大きな影響を与えた。

しかし、近代市民国家は、前述の「自由の相互承認」の原則によって、徐々に時間をかけ人々の自由と福祉を実現してきた。ビスマルク以来の福祉政策、さらに普通選挙法、労働法など、歴史を見れば明確であると。フーコーは近代社会の暗黒面を慎重にピックアップし、それを詳細なデータで、近代社会を抑圧の歴史として描いたが、事実は完全に逆だと竹田氏は断言する。「見えない権力」という言い方も、実体としては存在せず、全くの表象、あるいは比喩でしかない。

近代社会では、命令に従わせる力は、実力ではなく、誰が上位の権限者になるかの「権限を与えるゲーム」であり、この権限のゲームを構成している多くのルールの束である。(選挙制度や株主総会などが謙虚な例として挙げられる。)

近代国家では、権力の独占と不当な権力が問題なのであって、権力という制度が問題なのではない。本当に権力を取り払ったら強い者勝ちの社会が残るだけであり、フーコーは、この権力の独占や不当な権力を「見えない権力」によって支配されているという「物語=表象」によって表現しているに過ぎない、というわけだ。

…たしかにフーコーの哲学の視点は実に興味深い。批判していることにも納得できるのだが、竹田・苫野両氏は、あくまで原理学としての哲学という立場から批判しているのである。見えない権力が、新たな抑圧の物語をつくっている…だから、どうすればいいのか?フーコーを始めとしたポストモダンには、そういう回答がなされていない、というわけだ。ドゥルーズやデリダも、たしかに明確な回答をもっているとはいいがたい。

追記:レッズとの三連戦、スイープで終わった。大谷投手が9三振を奪う好投でドジャーズでの初勝利、今日もキケが首を痛めたフリーマンに代わって一塁で守備も打撃も頑張っていたのだった。ところで彼らは知っている。だからどうすればよいのか?全力でプレーするのみ。昨年の同僚ラックスと婚約者に(投手大谷を打ち込めなかったが)「全力でプレーしてカッコ良かった。」と大谷選手が試合後に会った際言ったそうだが、これが野球というスポーツの原理なのだと思う。

2025年8月27日水曜日

キケが帰ってきた

https://www.sportsgalleryusa.com/product/sho-176/
ドジャーズの試合を、毎回YouTubeのハムショー氏のラジオ的中継とその後に編集されて見ることができるMLB SPOTV NOWを見続けてきた。大谷選手・ベッツ選手・フリーマン選手のMVPトリオ以下、多くの選手の顔や背番号を覚えてきて、いっぱしのドジャーズファンになってきたのだが、やはり、明るいプエルトリカン、キケ・ヘルナンデスの存在は大きい。このところ肩を痛めて負傷者リスト入りをしていたのだが、今日ついに帰ってきた。

強打者のマンシー(彼も今負傷者リスト入り)の三塁を今日は守っていた。ユーティリティープレイヤーで内外野を守れ、点差が開いた時の投手(話題にでてきたが捕手も)もこなすキケは、ドジャーズのスーパー・サブ的存在である。同様のユーティリティープレイヤーのエドマンもキム・ヘソンも負傷者リスト入りしていて、このところルーキーや新加入の内野手が頑張っていたのだが、ベンチの総大将・キケの復帰は実に大きい。今日も守備だけでなく、ヒットや犠牲フライなど大車輪の活躍で、ファンとしては実に嬉しい。31日は、キケのボブルヘッドデー(画像参照)だそうでで、間に合って本当に良かった。

…と同時に思うこと。MLBは実にハードである。試合数も多いし、移動も長いし、故障者が出るという前提で動いている。投手の投げる速球、変化球も凄いし、それを打つ打者もまた凄い。大谷選手ら強打者の打球を内野手がさばくのも当然のように見えるがどんでもない速さである。しかもこれらの投球や打者のデータが各チームで念密に検討されており、対策が練られて試合に臨むわけで、まさに世界最高峰のパワーと技術、そして情報がぶつかり合っているわけだ。また、試合後には多くのインタヴューがなされ、ここでの発言も大いに注意しなければならないことも、選手にとっては大きな負担のような気がするのだった。

2025年8月25日月曜日

長岡高専のケニア技術協力

https://www.nagaoka-ct.ac.jp/80381/
TICAD9の報道の中で、長岡高専の学生がケニアで、「現地で調達できる装置」を使って、栄養価の高いキノコ栽培を行える減菌装置を発案、地元の大学と実証実験を行った成果発表を行った、ということを知った。これは凄い。この「現地で調達できる装置」という視点がなにより重要だと私は思う。

https://www3.nhk.or.jp/lnews/niigata/20250820/1030034079.html

少し長岡高専のことを調べてみた。最初メインのHPを見たので、物質工学科で生命応用コースに学ぶ学生かと思っていたのだが、環境都市工学科の学生であるらしい。なにより驚いたのは、長岡高専の学科専攻横断型一貫プログラムなどの特色ある学びのシステムである。多くの高校などで行っている「探求」の授業を遥かに凌駕した教育実践である。おそらくは、物質工学科の生命応用コースの先生方も絡んでいるに違いないと私は推測している。高専は男子のイメージが強いが、今回の発表者は全員が女子学生であったのも驚いた。https://www.nagaoka-ct.ac.jp/

当然ながら、JICAケニア事務所も関係している。今回の長岡高専と関わったのは、JICAのアフリカ型イノベーション振興プロジェクトに参加しているジョモ・ケニヤッタ農工大学である。この大学には、ケニア視察の際、ちょっとだけ訪問させていただいたことがある。懐かしい。これは、ちょっとした邪推でもあるのだが、我々の視察の際もそうだったが、JICAケニアのスタッフさんは、所長以下、今回の長岡高専の学生さんの安全面等に大いに気を使っただろうと思う。本当にご苦労さまと申し上げたい。

天王山 対パドレス三連戦

https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/nikkansports/sports/f-bb-tp2-250825-202508250000233
サンディエゴで、対パドレス三連戦 が行われた。今回は1勝2敗でドジャーズは、なんとか同率首位を守った。ちなみに、もし両者が残り試合を全部勝ったとしたら、直接の対戦成績の関係で、ドジャーズが地区優勝であるらしい。

第一戦はダルビッシュの前に完璧に抑えられた。第二戦も同様。パドレスは、先発もブルペンも投手力が良いし、特に外野の守備が無茶苦茶良いことを知らされた。それに、この球場は、海風で打球が押し戻されるようだ。大谷選手のHR性の大飛球が2度も捕球された。

今日の第三戦は、山本由伸が先発し、唯一の失投を9番バッターの捕手に2ランを打たれたが、こっちも9番バッターの捕手が逆転3ランを打った。フリーマンも2本打ったし、ダメ押しで、大谷選手の45号HRを最後の最後に打ってくれた。

このHR後、大谷選手はベンチ横の最前列で、ずっとこのパドレス戦で不振だった大谷選手相手にヤジを飛ばしていたパドレスファンのおっさんに、笑顔でハイタッチするという前代未聞の仕返しを行った。ロバーツ監督も、このおっさんがかなりうるさかったようで、この行為をユーモラスに語っていた。このおっさん、試合後に大谷選手に謝罪に訪れたようで、さらに神対応(写真を撮ったり、サインボールをもらうなど)をされたようだ。このある意味単純明快なアメリカ人気質が面白いと私などは思うし、器の大きさを見せつけたスーパースター・大谷選手の実に日本人的な対応も嬉しい。

2025年8月24日日曜日

Chrome OS Flexのこと

https://cjky.smudwcwl.club/index.php?main_page=product_info&products_id=224046
マイクロソフトがWindows10を使えなくする問題について、YouTubeのいくつかのPC系のチャンネルで、いろんな情報が出てきている。そんなにPCに詳しくない私としては、既定路線で、学院でパワーポイント用に使っているPanasonicのレッツノートに関しては、ネット関係のアプリをすべてアンインストールすることにしている。学院に万が一でも迷惑をかけたくないのである。

実は、TVがない我が家では、食事時にYouTubeを見るのはこのPanasonicなので、近々見れなくなる予定である。マレーシアから使っているDELLは、速度が遅すぎるので廃棄するしかないかと思っていたのだが、DELLをChromebook化するというアイデアが浮かんだ。無料で変換できるアプリ(Chrome OS Flex)があることがわかったのである。これを丁寧に解説してくれているYouTubeがあり、USBをもとに起動できるので、Windows10に戻すこともできるようだ。このChromebook化で、YouTube専用にするのは、なんとかなりそうな気がしている。

今日のところは、DELLの中に入っている必要なデータをUSBに移してみたが、まったく遅い。そこで、PC Managerを入れて無駄なデータを掃除し、ブーストしようと試みたが、インストールするのに1時間以上かかった。(笑)さすが、HDDパソコンである。CPUはi3、メモリも4GBしかない。こんな低スペックでもChromebook化は可能らしい。いずれまた挑戦する日が来ると思う。(今日の画像は、そんなChrome OS Flexがインストールされた中古&低スペックパソコン(=Chromebook)で、5000円ほどという価格のもの。すでに商売している店があるわけだ。笑)

2025年8月23日土曜日

第9回 TICAD について二題

https://www.yomiuri.co.jp/politics/20250814-OYT1T50066/
9回目のTICAD(アフリカ開発会議)が開かれているが、綺麗事が多い政治ショー的な色合いもあって、その具体的な内容についてはあまり注目していなかったのだが、興味深い取り組みがあったのでエントリーしておきたい。

まず、アフリカ地雷対策プラットフォームの設立である。以前TV放映されたウルルン滞在記で、日本では、ドイツの世界平和村のアンゴラの子供たちの地雷被害が大きな衝撃を受けたが、このアンゴラ内戦をはじめとしたアフリカの紛争では地雷がかなり有効視されてきた。というのも、安価な武器であり、殺傷しなくとも重症を追わせることで敵陣営にそれ以上の負担を与えるという効率性からである。幸い、日本には、カンボジアの地雷撤去活動(カンボジア地雷対策センター)という大きな経験値がある。今回は、5カ国以上で職員に技術研修を実施すること、また日本企業が開発した地雷探知機の供与や除去後の土地での農業開発協力、日本の3Dプリンターを活用した義足の生産能力の向上も進めるそうだ。この「技術研修」という、魚を与えるのではなく魚の釣り方を教える(JICAのよく使う比喩)やり方が、実に日本的な国際協力なわけなのである。

今、アフリカでは中国離れが進んでいる。自国の原材料、自国の労働者によるインフラを整備し借金を押し付け、その国の資源を奪うようなカネ・カネ・カネの「アンゴラモデル」と呼ばれたシステムを、アンゴラが拒否したという報道があって、多くのアフリカ諸国が同調するのではないかと見られている。今こそ、利権まみれの中国に代わり、日本がイニシャチブを取っていくべきだと思う。

さらに、以前から私が注目していたモザンビークのナカラ港とマラウイ、ザンビアを結ぶ「ナカラ回廊」の開発を加速させるらしい。これは、相手国の要請を待たずに行う「オファー型」の枠組みである。これは内陸国の罠にハマっているザンビアの銅をタンザン鉄道ではなく、このルートで確保するという日本の戦略的なサプライチェーンの強靭化と見られている。「ナカラ回廊」の開発自体には大賛成だが、利権の匂いがしてどうも嫌である。モザンビークでは、同じポルトガル語圏で気候も近いブラジルとの南南農業開発で失敗しているだけに、この回廊の開発とともに、ザンビアやモザンビークでの銅製錬工場の整備までやってほしいものだ。ザンビアのモノカルチャー経済を助長し、モザンビークの港湾利権に絡むだけのような中国臭がする。これは、非日本的な国際協力というより、新植民地主義のような気がしてならない。

追記:昨日久しぶりに学院に登校し、1時間だけ授業をした。生徒の顔を見れただけで嬉しいものだ。2学期はアフリカの開発経済学も講じる。このTICADの話題も入れようと思う。

2025年8月21日木曜日

現象学の「認識論の解明」

https://www.etsy.com/jp/listing/776731434/edomundofussru-shu-ci-hua-xiao-xiang-hua
「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第12 回目。いよいよフッサール(画像参照)の現象学について。

自然科学の認識は誰にとっても同じ「事実」の認識であるが、人間や社会の認識は、多様な価値観が入ってくるので、事実の認識とは言えず「本質」の認識である。「本質」の認識の領域では、存在を正しく認識する(客観から主観へ)という順序で考えるのは無効で、経験から確信が生じる(主観→客観の確信)というのが現象学の図式である。

その好例として次のような記述があった。かつてのヨーロッパ人は皆キリスト教の世界観を信じていた故に「神が世界を創ったので私は神が存在すると考える。」という独断論が蔓延っていた。「私は生まれたときから親や大人たちに神はいると言われ続けてきたので、神は存在すると考える(確信している)。」というのが正しい、と竹田氏は述べる。

…フッサールの現象学といえば、対象がリンゴの場合の図式が多いのだが、私にはこの例が最も突き刺さった。(万が一、カットリックの学校である学院の授業で現象学を説くことがあっても、この例は絶対使えないが…。笑)

本質領域での認識問題については、全知(真実=真理)が存在するという発想をきっぱりやめることとが、現象学の「認識論の解明」である。「社会とはなにか」という問いは「よい社会とは何か」という問いを含む。よって必ず価値の多様さによって様々な考え方(信念・確信)が出てくる。哲人政治(プラトン)、絶対平等(マルクス主義)、絶対救済(仏教)、道徳的完成の世界(カント)等々。どれかが最も正しいというのではなく、考えの違いを超えて誰もがOKと思える「良い社会」についての共通の合意を取り出せる可能性が、現象学的スタンスにはある。

社会はルールの束によるゲームであり、多様な価値観(人間の自由)が許容される社会は相互承認にもとづく「自由な市民社会」であることは誰もが認めざるを得ない社会的認識である、ということで、現象学のフィールドからプラトンからルソー、ヘーゲルに至るリレーを再認識するカタチで、本書の社会哲学的な内容は一応完結するのだった。

…明日から、学院での授業が再スタートする。実に有意義な本書の書評はここで小休止したい。

2025年8月20日水曜日

追憶のデンバー

ドジャーズが、コロラド・ロッキーズの本拠地・デンバーで4連戦を戦っている。第1戦はサヨナラで大谷選手もベンチで激怒するほどの敗北をきしたが、今日は、大谷選手もHRを打ったし、先発全員安打という猛攻で、11-4で快勝した。(ライトのT・ヘルナンデスも昨日の守備への批判を攻守両面で見事に払拭できて、実に嬉しい。)

デンバーは、サウスダコタへの旅で一泊したことがある。というのも、関空からサンフランシスコに着いてから、ハブ空港のデンバー経由で、翌朝ラピッドシティへ飛ぶという日程だったからである。このころから、宿も決めずに旅するようになった。YMCAなどの安宿を探したが、いい宿が見つからず、結局知り合った日本人旅行客に紹介してもらった安宿に泊まった記憶がある。

デンバーには、無料の循環バスがあって、お土産屋なども充実しており、なかなか快適な街だった。残念だったのは、ハードロック・カフェ・デンバー(画像参照)が新規開店直前だったこと。

さて、翌朝大失態を犯すことになる。サマータイムであることを失念していたのだ。ある大きなホテル前から余裕を持って空港行きのバスに乗ろうとしたのだが、ドアマンに次の便を聞いたところ1時間早いことが判明したのだった。(当然、$1チップを渡した。このチップの価値は大きい。笑)幸い、ラピッドシティの便には間に合った。

デンバー空港は巨大な空港で、三本の並行した滑走路を持っている。それぞれのターミナルは地下鉄で結ばれている。ラピッドシティへは、ユナイテッド航空の小さなプロペラ機で、操縦席まで見える席だった。窓を見ると、3機が同時に離陸していたので、航空ファンとしては貴重な経験をさせてもらった。

いろいろあったけれど、デンバーの印象はなかなか良いのだ。

正しい思想はありうるか?

「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第11 回目。「認識問題」、すなわち普遍的な認識(=正しい思想)はあり得るかという事について。

まずは、ソフィストのゴルギアスの論証。①存在はない。誰も存在を証明できないから。②仮に存在があるとしても、誰も正しく認識できない。③仮に認識があるとしても、言語で表現することはできない。竹田氏がゴルギアス・テーゼと呼ぶこの論証は正しい認識は成立する可能性がないということである。この相対主義・懐疑論は、以後ずっと哲学につきまとい、普遍的な認識を求めるプラトンやアリストテレス、デカルト、カントやヘーゲルと言ったビッグネームの哲学者たちを苦しめ、現代哲学まで継続している。

竹田氏は、簡潔にその思考のリレーを記している。カントは、先天的認識形式を提示したが、同時に神の全知でなければ物自体をの世界を正しく(=あるがままに)認識できないとし、ゴルギアス・テーゼを半分だけ認めた。ヘーゲルは、「概念の連動」(時間の経験の中で認識は変化していくという弁証法の要諦:幼児、子供、大人と成長するに従って、対象は多くの概念の束として認識されていく)を提示したが、最終的にゴルギアス・テーゼの構図を破壊できず、絶対精神=世界という認識論で終わっている。

ニーチェの認識論は、革命的である。それまでの絶対の前提だった「主観と客観の一致」(=存在と認識の一致)を打ち壊した。当然前述のカントの神の全知を否定したので、真理(絶対的な認識)も存在しない。それどころか認識は「力への意思」、すなわち生き物の「生の力」が世界のありようを分節する、と説く。

いろんな生き物が自分の身体性に応じて世界のありようを分節している。ダニは、光覚と温覚、嗅覚という3つの感覚しかないそうで、ダニの身体性(感覚と欲望)にあわせて世界を認識しているという。このニーチェの認識論は、相対主義の後ろ盾のように解釈されているが、竹田氏はこれを一蹴する。ものごとは様々な観点の取り方で様々に変化すると言った場合、暗に世界は一つを前提にしているからである。ニーチェのこの画期的な認識論の転換が、フッサールの現象学に繋がっていく。

…ところで、この内容の最初に、次のような文章が出てくる。「多くの若者は、ほぼ例外なく、自分がたまたまはじめに出会った世界思想に強く引かれて、それをどこまでも信じ続ける傾向がある。」思わす笑みをこぼしてしまった。私にとっては、高校時代に呼んだ梅原猛の「哲学の復興」がその最初に出会った世界思想にあたる。この新書には、デカルトの二元論批判と、西洋哲学に対する仏教思想の優位が説かれていたからである。前回、円融の三諦という実体論について、わざわざエントリーしたのは、こういう私の思想遍歴に由来していると言えようか。

2025年8月19日火曜日

続・仏教哲学は所詮 物語か?

https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/okyou-houbenpon.html
「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第10 回目。昨日の書評で仏教哲学については、本書ではほとんど顧みられなかった。まあ、主題ではないので当然であるが…。

…たしかに法華経は宗教の経典であり、本書で言われる「物語」であるということは否定しない。だが、本書が「物語」だ、と切り捨てた一神教とは趣が違う。初期仏教で最重要の教義は「縁起」(えんき:全てのものには原因と結果がある。)ということであり、一神教では、こういう原因と結果はすべて神に帰していることと比較し、その相違を強く主張しておきたい。

…昨日のエントリーの最後に、円融の三諦のことを私は記した。これは、法華経方便品第二(画像参照)に記されている諸法実相から導かれた「実体論」であると私は考えている。円融の三諦とは、空仮中の三諦とも言われる。高校生にもわかるように述べれば、空諦とは諸法実相の如是性から導かれる、精神(ギリシア哲学的には魂)は、有るというのでもなく無い、というのでもない概念である「空」であるということ。固定的な実体を持たないともいえる。仮諦は、同じく如是相から導かれる、肉体や物体が時間的(諸行無常)・空間的(諸法無我)に変化するので、仮に生じ存在し、また消滅していくということ。中諦とは、精神と肉体が合わさり、どちらにもとらわれず存在していることだ、といえる。

…西洋哲学では、有と無のみの存在論である。また変化する現実と実体(本当に存在するもの)については、ギリシア哲学におけるヘラクレイトスとパルメニデスの問い以来、変化と実体の関係は問題にされてきたが最終的にデモクリトスのアトムに帰結する。結局のところ、有と無の実体論であるわけだ。私は円融の三諦の実体論のほうが、はるかに(一神教の原理主義者を除いて)万人の理解を得れると思う。

2025年8月18日月曜日

対パドレス三連戦 スイープ

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250818/k10014896621000.html
ドジャーズが、エンゼルスに三連敗して首位陥落した後のパドレス戦。なんとスイープ(三連勝)したのだった。死球合戦やあわや乱闘のような荒れた前回の対戦から、今回は穏やかな三連戦であった。

今回は、ドジャーズにとっては全員野球の勝利だったと思う。3人の先発投手もブルペン投手も、このところ不振だったり守備でミスをしたりして批判された野手も、もちろんMVPトリオも…。

中でも昨日の第二試合では、ピンチを救ったスミスの三捕殺が凄かった。攻撃では四球が重なり、ヒット1本で5点取ったという珍試合でもあった。

今日の第三試合では、ダルビッシュが先発。1回に大谷選手がヒットを打った後、ベッツが四球、そこでフリーマンが3ラン、さらにパヘスがソロHRで4点も先攻した。ダルには、敵とはいえ負け投手にはなってほしくないなと思っていたが、その後パドレスも同点に追いつき、負けが消えた。(これはメデタイ。)最後は、ベッツのHRで決着がついた。コツコツと不振を払拭していたが、久しぶりにスーパースターらしい華々しい活躍だった。

これで、逆に2ゲーム差がついた。この後ドジャーズはロッキーズ4連戦、パドレスはジャイアンツ4連戦。その後にもう一度対戦する。これがナ・リーグ西地区の天王山になりそうだ。いよいよ、大谷選手も遠慮せずHR量産してほしいところだ。

仏教哲学は所詮 物語か?

「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第9 回目。哲学は宗教の後に出てきた世界説明で、普遍的な世界説明(万人が納得できるような説明)という点が重要であるのだが、宗教は「物語」であり音楽に似ており、人間の心情に強く訴える力を持っているとしたうえで、竹田氏と苫野氏は少しインドの仏教哲学について触れている。

膨大な理論と歴史をもつ仏教哲学だが、竹田氏は「原理」の方法はあまり発展しなかった。その理由は宗教の要素つまり「物語」(輪廻・業・解脱といった宗教的世界観)が大きな前提になっている故だとする。仏教哲学の根本動機は人間の救済や解脱であり、世界の正しい認識ではないとしている。

苫野氏は、意外に仏教哲学に親近感を抱いているようで、初期仏教の諸行無常・諸法無我の法印のあらゆるものには実体はないとするシンプルさには説得力があるとし、天台の「一念三千」や華厳の「事事無疑法界」という壮大に積み上げられたある種の形而上学的理説世界観には感銘を受けている。ただ、どの説が正しいかは、ほとんど好みの問題になってしまう。(天台が勝利した)教相判釈(南三北七と言われた当時の中国各教派が論争した)は、諸説乱立として理解しているそうだ。よって、原理のリレーというよりは、種々の形而上学的=宗教的世界像の打ち出し合いという印象であるとのこと。

…仏教哲学は、私の専門と言ってもよいので、少し違和感を感じた。西洋哲学の立場から見るとそうなるのだろうが、もう少し、龍樹の中論(後に竹田氏はまじめな相対主義と評しているのだが)、世親の唯識、馬鳴の如来蔵と続く大乗哲学について語ってほしかったところ。教相判釈でチャンピオンとなった法華経から、円融の三諦、一念三千論が導かれてくるわけで…。本書の本題ではないから当然ではあるが、少し残念。

2025年8月17日日曜日

ルソーからヘーゲルへのリレー

https://keu-blog.com/he-geru/
「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第8回目。ルソーの社会契約説をヘーゲルは批判し、近代民主主義社会の原理を最終的に確立した、ということ。

ヘーゲルの時代は、イギリスの初期資本主義のひどい矛盾が露呈した時代で、単に契約によって自由を認め合うだけではだめだ、というわけだ。近代国家は、自由競争が生み出す大きな貧富の差を調整するような役割を果たさないと行けない。ここで、前述(8月13日付ブログ参照)の「人倫」が登場する。人倫における国家において「一般福祉」(万人が福祉を得られるように配慮する原理)を付与することになる。

…「人倫」の概念は高校生にはかなり難解だと思われる。人倫というのは、法・道徳を統合した概念(社会全体の倫理的な枠組み)であり、その体系は家族・市民社会・国家と弁証法的に発展するとしたもの。今回のキーワードである「一般福祉」の概念は、利害の対立する市民社会から国家へと止揚される中で生まれている。

…カントの道徳が個人的内面的な自律的な行為による自由であるのに対し、ヘーゲルの人倫は社会制度や慣習の中で実現する自由を重視したものといえる。

近代民主主義社会の根本原理は、「自由の相互承認」であり、法=権力の正当性の原理は「一般意志」である。一般意志を目指し続ける国家は、同時に「一般福祉」すなわち全ての人の自由、福祉、よき生の実現を目指し続ける国家であり、そのような国家でなければ正当性を持ち得ない。

…これが、本書の前半部の重要な結論といえるわけだ。

2025年8月16日土曜日

ホッブズとルソーのリレー

https://christiancommons.or.jp/jean-jacques-rousseau-on-jews/
「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第7回目。哲学や思想は、現実を動かす可能性の原理でなければ意味がない、ということについて。

プラトンは、『ゴルギアス』の中でカリクレスという人物を登場させて、この上記の「現実の論理」を体現させている。ヘーゲルは、これを「現実の法則」と呼んでいるが、同じく「自由の相互承認」を哲学原理として受け入れている。ホッブズ、ルソー、ヘーゲルとリレーされた社会原理は200年くらいかかって、近代社会を作り上げ、歴史を変えたといえる。現実に対抗し、現実を動かす原理を持った哲学と、理想や希望だけで原理を持たない哲学がある。哲学を原理の学として理解しない人は、まさしくこの区別をつけることができないと、竹田氏は断言する。

ここから、ホッブズとルソー(本日の画像参照)について述べられている。ホッブズは「不信」(竹田氏によると相互不安)によって、戦争から逃れられなくなった、とする。すると、戦争阻止の原理は、この相互不安を抑えることになる。よって、強力な統治、強力な国家の成立が根本原理となる。これが近代社会の設計図の出発点になっているわけだ。

ルソーの「一般意志」は、法や権力はどうあれば良いのか、その道標、灯台になる原理である。みんなの利益になる合意を目指す以外に法や権力の正当性はどこにるのかと問うても代案は出せまい。この原理を手放したら権力者や金持ちの特殊意思が好き放題をするに違いない。ルソーはホッブズの考えに賛成ではなかった。ルソーは統治やルールは大嫌いである。しかし、『社会契約論』では、ホッブズの統治の必要性を受け入れ、統治権力を維持し、かつ人々が自由になるような原理として、社会契約と一般意志を提示した。

マルクス主義や現代思想では、国家は人間支配の根源で、解体することで支配がなくなるという考えが根強くあった。しかしアラブの春後の中東諸国を始め、歴史的にもいたるところで統治権力なしにそもそも社会が存在しない反国家、反権力は哲学的には素朴な誤りで、ヘーゲルの言い方だと「表象の誤謬」。ルソーの見出した、暴力を制圧する正当な国家や権力をいかに創るかが重要だといえるわけである。

…社会契約論は、倫理でも政治経済でも登場する。ホッブズ・ロック・ルソーの三者を対比しながら教えるのだが、本書の示唆はすばらしい。その根幹を近代社会論をもとに見事に描いてくれている。ここで、ふと「憲法」について思索することになった。アメリカの憲法は、ジェファーソンが権力の制限を意識して作ったことは有名である。日本国憲法もその延長線上にある。まさに、本日のテーマである「現実を動かす可能性の原理でなければ意味がない。」という意味では、ルソーの功績は極めて大きい。

…ところで、ルソーは偉大な哲学者かもしれないが、人間としては問題がある。教育論・エミールは超有名だが、自分の私生児を認知していない。こういう功績と人間性にギャップがある例は多く、ギャンブル狂だったドストエフスキーや、傲慢そのものだったトルストイ、さらには借金踏み倒しの野口英世などが挙げられる。まあ、ニーチェも、かな…。

2025年8月15日金曜日

対エンゼルス三連戦 なおド…

https://news.yahoo.co.jp/articles/068fee0977e7347889b35a3e7f8a7834d62b373a/images/000
ドジャーズが、エンゼルス三連戦で全敗してしまった。第一戦は期待の山本由伸投手だったが、7-4。第二戦は7-6。そして第三戦は大谷投手が先発しながら6-5。大谷選手は第一、第二試合ともHRを打ったし、第三では、先頭で三塁打も放って頑張っていたのだが、まさに「なおド…」という表現がしっくりくる。

このところ、ハムショー氏のラジオ的実況を最初から最後まで聞いているのだが、ハラハラ・ドキドキの大接戦だった。

特に第三試合のWBC以来の、大谷投手とトラウトの兄貴との対決は感動的だった。ギアを上げまくり剛速球のストレートを投げ込み、最後は変化球で2三振に仕留めた。大谷ファンとしては、試合結果も極めて重要なのだが、連続のHRやトラウトとの対決に満足した。やはり彼はスーパースターなのである。

意外にエンゼルスの選手の頑張りも目立った三連戦であった。第三試合では、オホッピー捕手が満塁でタイムリーを放ち逆転された。ところで、オホッピー(O'Hoppe)という名前は、バリバリのアイルランド系の名前で、「~の息子」の意味。ちなみに、Mc~も同じ意味で同じゲール語から来ているので、スコットランド系にもある名前。イングランドでは~sonである。NY州の出身だし、彼はアイリッシュに間違いない。

明日から、首位を奪われたパドレス戦。敗戦を引きずらず、背水の陣でドジャーズには頑張ってほしいものだ。

2025年8月14日木曜日

プラトンから一気にヘーゲルへ

「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第6回目。

プラトンの「善のイデア」(よく生きること)から、一気にヘーゲルに進む苫野氏の言が、私を驚愕に導いた。もちろん、師である竹田氏の論の内容である。ヘーゲルの言う「人間的欲望の本質は自由である。」とは、人間は、誰もが「自由」に、つまり生きたいように生きたいと欲望してしまう、だからこそ、その「自由」をめぐって争ったり、無様にあがいたりする。ヘーゲルは、「自由の相互承認」を説き、自由を好き放題に主張していても、決して自由になることはできず、他者と争いになる、ひどい場合は戦争になる。よって、もし自由で平和に生きたいのであれば、まず互いの自由を認め合う約束をするしかない。苫野氏は、この近代民主主義社会の根本原理であり、2500年におよぶ哲学史における叡智中の叡智だと考えている、と。

…ヘーゲルは近代哲学の完成者だと高校の倫理では教える。前述の「西洋哲学の木」では、カントの実践理性→フィヒテの絶対的自我→シェリングの絶対者→ヘーゲルの絶対精神というドイツ観念論の流れの中でまず教えてきた。絶対精神は、弁証法的に歴史を動かす、その本質は理性であるというのが一般的であるのだが、理性の狡知として、自由を拡大する歴史(1人だけ自由な専制政治から、複数が自由な貴族政治、ナポレオンの功績としてもっと多くが自由になる近代市民社会といった構造)などにも触れる。

…本書を読んで、今までヘーゲルは難解で高校生に理解が難しいという前提で浅く教えてきたことを恥じる次第。もし倫理をまた教える機会があれば、この「人間的欲望の本質は自由である。」と、絶対精神の関連性、理性の狡知、さらに人倫へとヘーゲルの近代市民社会への箴言についても語ることになるだろう。

第1走者はプラトン

https://ja.namu.wiki/w/
「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第5回目。

現代社会では、「良い社会」とは、「良い経済」とは、「良い福祉」とは何かといった問いが大事になっているのだが、この問題は、相対主義のポストモダン思想や科学的実証主義の方法では問う方法がない。価値の問題を扱うことができるのは「本質学」の方法が必要だ、その理由は、意外にもフッサール・ニーチェ・ハイデガー・ウィトゲンシュタインらの極めて本質的な原理が、現在の哲学者にほとんど理解されていないと竹田氏は嘆く。最大の理由は、普遍的な認識などありえないという相対主義哲学の勢いが強く、民主主義と資本主義は表裏一体で切り離せない、よって矛盾の大きい資本主義をやめればいい。すなわち「大きな物語は終わった」というイメージの思考に流されたというわけだ。

…私自身は、フーコーやドゥルーズ、デリダなどのポストモダン思想は実に興味深いと考えているし、倫理の授業でも必ず講じる。上記の「物語」という表現は、まさにフーコーのもの。ドゥルーズの社会のコード論も納得できるし、デリダの差延も脱構築も納得できる。ただ、竹田・苫野両氏の言う「本質学」ではなく、相対主義であるのは指摘通りであると、私も思う。

本質学としての哲学の根本、リレーの第1走者は、プラトンだと、竹田氏は言う。苫野氏は、この言を受けて、次のように述べる。プラトンは、イデアのイデアは「善のイデア」だと言った。「真のイデア」ではない。人は確かに真善美を求めるが、圧倒的に善を求める。ここで言われる善は、必ずしも道徳的な正しさではなく、ソクラテスの言っていた「よく生きる」で、人生をよりよく生きたいと誰もが思っている、という善への希求を根底に持ちつつ世界を見、生きてるのだと。

…このプラトンの善のイデアが第1走者であるという趣旨には、少し驚いた。私の倫理の授業では、「よく生きる」という人類の教師・ソクラテスの原理は、四元徳として展開している。イデア論は、神秘的(目に見えない)なアルケーとして、理解してきた。ピタゴラスからプラトンのイデア、そしてアリストテレスの形相へと繋がるという一般論に従ってきたからである。今更ながら驚きをかくせない。

…昔々の話になるが、母校での教育実習の時、指導教員をしていただいたO先生(哲学科出身でハイデガーの徒である。)から、(採用試験に合格するなど一切思われていないので)翌年非常勤講師として呼ぶから、一緒にギリシア哲学を勉強しようと言われていたのだが、青天の霹靂で採用が決まり実現することはなかった。ギリシア語を学びながら本格的にやると言われていたので、言語が苦手な私はホッとしたのだが、今から思うと勿体ない話だったような気もする。

2025年8月13日水曜日

市民社会の原理のリレー

https://ja.namu.wiki/w/30
「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第4回目。竹田青嗣氏の近代哲学の意義についての考え方は、実に示唆に富んでいる。

中世のキリスト教神学では、カトリックとプロテスタントの分裂が起こると、「物語」の対立故に解決の道はどこにもなく、激しい宗教戦争(画像は三十年戦争)になった。そこで近代哲学が新しい世界説明を出すことでこの深刻な対立を克服した。

宗教的教義の対立ではどちらが正しいのかという答えは決して出ない。この対立を超えて多様な人間が共存できる唯一の原理は、それぞれが互いに相手の信仰を承認し合う「相互承認」に基づく「市民社会」だけである。信仰は人間の内的な属性の1つになり、市民として互いに認め合うという市民社会のの原理は、ロック、ルソー、カント、ヘーゲルらによってリレーされ鍛え上げられていった。これが現在の民主主義社会の根本設計図である、といえる。

…このロックに始まりヘーゲルに至るリレーという発想は、実に興味深い。私の倫理の授業では、社会とのコンフリクト(社会について考えた哲学)の系譜になる。詳細は後日の書評にゆずるが、最終到達点はヘーゲルの「人倫」にくると想像できる。

また近代哲学は、キリスト教という巨大な世界像が崩壊した後、完全に新しい仕方で人間の存在理由やその価値と意味について考え直した。人間の自己理解という点でも大きな仕事を果たしている。

…ここでは、認識論とニーチェが重要かと思う。こっちは、私の倫理の授業では、自己自身とのコンフリクト(生き方について考えた哲学)の系譜になる。ちなみに、もうひとつ、ギリシアのミレトス学派などの自然とのコンフリクトがあるのだが、こちらは事実学である自然科学に発展解消したといえる。

ところが20世紀に入って、哲学の根本方法、物語ではなく普遍的な仕方で人間と社会を考えるという方法が忘れ去られてしまった。近代市民社会の自由を開放した社会原理は、その後の国民国家どうしの闘争状態の結果、植民地争奪戦争を経て、世界戦争というカタストロフィー(破局点)にまで行き着いた。これを強く批判したのがマルクス主義とポストモダン思想と言える。

…これは、後に竹田氏も記しているように、両者とも相対主義的なスタンスが強く、普遍性を求める近代哲学のアプローチの否定になっている。ただ、その魅力と衝撃は大きすぎたと私も思う。

2025年8月12日火曜日

哲学の「原理のリレー」

https://www.ac-illust.com/main/
search_result.php?word
「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)の書評第3回目。

まず、哲学の考え方の2つの本質について。哲学は、まず「原理」の学であること。いろんな問題について、誰が考えてもそう答えるしかない、という答えを探す思考であり、その答えを「原理」と言う。この「原理」は絶えず人々の検証に開かれている。

…西洋哲学におけるこの「原理」の学の好例は、デカルト(画像参照)の第1証明から第3証明かなと思う。第1証明の方法的懐疑・「我思う、ゆえに我あり」で思惟する自我の存在は、誰が考えても納得せざるを得ない。第2証明の神の存在証明は、かなり無理のある論理であるが、論理的破綻は見られない。ただし、キリスト教的伝統のない日本の高校の倫理の授業で語ると、なかなか理解しにくいところがある。第3証明に至っては、神の存在証明を受けての、物体の存在証明であるが、「神は欺瞞者ではないので、理性(思惟する自我)が明晰判明に理解するところは真である。」といわれても、同様に神=全知全能の創造者という前提が理解されていないので、これまた生徒に理解してもらうには苦労する。もちろん論理的破綻はない。(笑)

哲学のもう一つの本質は、「原理のリレー」として成立することである。

…私が倫理の授業で使う「西洋哲学の木」も、この原理のリレーを重視してきた。デカルトの話を続けると、スピノザが汎神論という原理を提示してくる。このような哲学者のリレーが西洋哲学の木を構成しているのである。

竹田青嗣氏は、この2つの哲学の考え方の原則が、20世紀に入ってから、マルクス主義やポストモダン思想によって、殆ど消えてしまった、と嘆くのである。…つづく。

2025年8月11日月曜日

「伝授!哲学の極意」書評Ⅱ

いろいろあって、長い間書評が書けなかった「伝授!哲学の極意! ー本質から考えるということはどういうことかー」(竹田青嗣・苫野一徳著/河出新書)について記していこうと思う。もしよろしかったら、まず6月19日付の「「伝授!哲学の極意」書評Ⅰ」を再読いただければと思う。

この一冊は、高校倫理の先生方に是非とも一読をオススメしたい新書である。(学院でも当然オススメした。)と、いうのも、私がこれまで倫理の授業で、「西洋哲学の木」として示してきた一般的な流れを超克する構造を提起しているからである。
西洋哲学の木では、ヘレニズム(ギリシア哲学)とヘブライズム(キリスト教)が木の根っこに示される。哲学の起源はたしかにこの2つの流れであり、正しいといえるのだが、6月19日付で示したキリスト教の「物語」の共同体的世界観(宗教改革で凄惨な戦いが生じたこと、あるいはイスラム共同体との世界観のぶつかり合い)を克服するために哲学が生まれたとする本書の発想は、実に示唆に富んでいるからである。

…昨日、帰国中の息子と竹田青嗣氏と苫野一徳氏について少し話したのだが、後期博士課程まで進んだ息子の評価もなかなか高かった。というわけで、明日から当分書評を書いていくつもりである。

2025年8月9日土曜日

PP 近代国家論 国民国家

近代国家論の次の視点は、国民国家である。国民国家は、日本の近代化に於いて最も早く施策されたもので、日本史組に是非確認してもらいたいと思っている。この国民国家化は国民皆兵と同義語である。富国強兵のため廃藩置県を強行した西郷やその背後にいた勝海舟と、戊辰戦争を途中で抜けヨーロッパの軍隊を視察して国民皆兵の重要性を認識して帰国した山縣有朋についてはイラスト・名前なしで示した。見栄えもそうだが、授業では日本史組に質問したいところ。山縣はちょっと難しいかもしれない。

この国民国家=国民皆兵は今も徴兵制に繋がっている。徴兵制を今も継続している地図を見せたうえで各国の事情(特にスイスやスウェーデン、フィンランドなどの、中立国の立場とロシアとの関係性)についても伝えたいと考えている。スウェーデン、フィンランドのNATO加盟にも関係してくるからである。

国民国家化を阻止した黒歴史は、ベルギーの恣意的民族分断(ツチとフツ)やフランスの少数派優遇などがある。こういう現在裕福で力を持っているヨーロッパの黒歴史という事実は生徒に伝えておきたい。ちなみに、ルワンダの虐殺については、映画のポスターのみで陰惨な画像は使わなかった。

国民国家と民族の関係、ヨーロッパの引いた国境の無意味さを見事に表しているアフリカの地図を発見した。世界史組には、この国境線引きを決めた会議の名を質問してベルリン会議という回答を引き出したい。これはおそらく大丈夫だと思う。

国民国家の最後は、多民族国家のアメリカ・カナダ・オーストラリアの移民帰化時の「宣誓」を英文で紹介したPPも作っておいた。この三カ国の宣言の違いも興味深いと思う。

…地理総合(空間的把握)という科目の中で、世界史、日本史、政治・経済のコアな部分を語りながら、国民国家とは何かを語れればと思う。