2025年1月22日水曜日

「人間的な高さまで高める」とは

https://weekly-economist.mainichi.jp/
articles/20210713/se1/00m/020/060000c
佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第12回目。ヘーゲル法哲学批判序説の「ドイツは原理の高尚さにふさわしい実践に到達できるか、言い換えれば、ドイツを近代国家の公式水準にまで高めるばかりでなく、この国民が近い将来達するであろう人間的な高さまで高めるような革命に到達できるであろうか、ということが問題になる。」という本文の「人間的な高さまで高める」について今回はエントリーしたい。

佐藤優氏は、この「人間的な高さまで高める」の人間は、神を崇拝する代わりに本来の人間、理想的な高さに在る人間を崇拝すれば良いとマルクスは言っていると述べている。ヒューマニズムとは、結局のところ、神を人間に置き換えた思想であるわけだ。だが、ここで、ユダヤ教・キリスト教の原罪が問題になる。アダムとイブから、人間は責任転嫁・自己保身をしてきた。イスラム教やナショナリズムには原罪というメカニズムがないから、絶対に正しいと信じることに邁進することが可能になる。仏教の場合は、悪に傾きやすいという人間観を持っている。仏教はキリスト教の性悪説と少し似ているが、キリスト教の原罪が全身の入れ墨みたいなものであるのに対し、仏教は墨抜きが可能で、罪からの開放能力があると、述べられている。

…ブディストとして、この原罪の(入れ墨的)対比が実に面白いと感じた。仏教の無明は、煩悩によるものであるから、この煩悩の超克が成仏への道になる。キリスト教的な罪という語彙には今だ違和感があるが、煩悩と読み替えれば親和感はある。「人間的な高さまで高める」ということは、究極的には人間が持つ煩悩の超克による仏性の湧現という理解に落ち着くのである。ちなみに、仏性の湧現=成仏は刹那的(一瞬よりもっともっと短い時間)なものと私は理解している。

2025年1月21日火曜日

「疎外論」と「物象化論」

佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第11回目。ヘーゲル法哲学批判序説の本文「人間の自己疎外の神聖な姿が仮面を剥がれた以上、神聖でない姿での人間の自己疎外の仮面を剥ぐことが、まず第一に、歴史に奉仕する哲学の任務である。」の「疎外」について、今回はエントリーしたい。

疎外とは、「本来のものがあるにも関わらず、それとは違うものになっている。」という意味である。この本来のものという概念は、我々日本人には理解が難しい。なぜなら、この本来のもの=在りて在るものとは、神や理想的な状態、自然状態といった実証できない(キリスト教的な)形而上学的なものであるからである。

このマルクスの疎外論に対して、廣松渉氏は、マルクスの解釈を皆間違っていると言っている。マルクスは本来のものという考え方を自体を拒否しているのだ、と。関係の第一義性を唱えた廣松渉氏は、現象学的なアプローチから、すべての物事は関係性から生まれていると言った。これを物象化論と言う。

佐藤優氏は、この物象化論は、実は仏教の阿毘達磨、中観や唯識の考えに近く、本来あるものを設定するのではなく、無や空から生じる、縁起論に似ていると言う。また知的な分野で指導的な欧米では「疎外論」が今も中心だが、「物象化論」との両者、どちらを取るかは、個人の趣味の問題だと結論付けている。

…倫理の授業では、マルクスは、労働に人間の価値を置き、その労働による充実感こそが本来のものであるのに、剰余価値説によって資本家に搾取されている故の非本来的なありかたを疎外と教えることが多い。マルクスの言う「神聖でない姿での人間の自己疎外の仮面を剥ぐこと」は、”神に代わって肉体という要素を持つ労働”という意味に私は受け取っているのだが…。

2025年1月20日月曜日

「宗教は民衆のアヘン」の真意

https://www.hmv.co.jp/artist_Varnagel_000000000451013/item
佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第10回目。いよいよ「ヘーゲル法哲学批判序説」に登場する「宗教は民衆のアヘンである。」という殺し文句について。

「宗教上の不幸は、1つには実際の不幸のあらわれであり、1つには実際の不幸に対する抗議である。宗教は悩んでいる者のため息であり、また心のない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。それは民衆のアヘンである。」これが、殺し文句の含まれる段落の本文。

実際、レーニンはこのテーゼ通りに戦闘的無神論を提唱し、国是として宗教を迫害した。この楔が解かれたのは、WWⅡの時のスターリンが、「同志諸君」ではなく「兄弟姉妹の皆さん」という教会の使う呼びかけをして、大祖国戦争(祖国戦争はナポレオン戦争、大祖国戦争は対ナチ)を勝利に導いた時で、なるほどスターリンは神学校出身である。その後、ソ連解時にゴルバチョフ(彼は幼児洗礼を受けていたらしい)が楔を解くが、すでに半世紀にわたる迫害で、ロシア正教会の宗教的イデオロギーは崩壊していた。

さて、マルクスのこのテーゼを、中世や近世以前の宗教の瞑想を批判しているとマルクス主義系の解説があるが、佐藤優氏は明確に否定している。マルクスのテーゼは、近代的な神の居場所が、シュライエルマハーによって、心のなかに組み入れられた後のことを行っている。(1月13日付ブログ参照)我々の周りには、いろいろな宗教性があり、願望を宗教にしている例がたくさんある。その宗教性をどうやって相対化していくかが、マルクスの宗教批判の肝である、と。

…マルクスの本文(上記)は深い。「心のない世界の心情であるとともに精神のない状態の精神である。」という文章には感銘を受けざるを得ない。キリスト教に対するニヒリズムは、ブディストの私から見て十分理解できるところである。

2025年1月19日日曜日

共通テスト 2025 地理

https://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/kyotsutest/25/analysis/5410.html
https://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/kyotsutest/25/analysis/5140.html
新課程の共通テストは、地理も地理総合+地理探求になった。今回、地理総合と歴史総合で受験する教え子と地理総合+地理探求で受験する教え子もいたので、まずは、その比率から。結論から言うと公共と同じく地理総合は25点配点であった。

https://nyushi.sankei.com/kyotsutest/25/1/exam/5140.pdf
地理総合の分野は大問で4つだが、その内の大問1・2が+地理探求でも出題されている。大問1は割と簡単な問題もあった。上記の問3の正解・イギリスは②である。これはほぼ秒殺問題。とはいえ、他の問題はまぎらわしい記述もあった。大問2も、地域調査で様々な視点の問題が加味されているが、防災の問題などが出るのは予想通り。大問3はその防災問題そのものであった。大問4も含めて、比較的取り組みやすい問題であったのではないかと思う。

https://nyushi.sankei.com/kyotsutest/25/1/exam/5410.pdf
地理探求の方は、模擬試験を数多くこなせば、ほぼ類推可能な問題が多いと見た。その典型例は、第5問の問3。GDPにおける製造業の割合と、都市人口比率のグラフで、イタリア・オーストラリア・韓国のそれぞれを見極める問題。現在のオーストラリアの製造業の低さと韓国の製造業の発展をを念頭に置けば、おのずと正解が見える。正解は④である。

共通テスト 2025 公共政経

共通テスト・公共+政経の問題も見てみよう。こちらも読解能力が試される問題が無茶苦茶多い。ただし、昨年よりは、選択肢が楽になっているようであるが…。上記画像(拡大可能)は、私が良問というか視点が良いと思った第4問の問5である。国連安保理と総会というか、国連の基本的スタンスを問う問題。正解は③。やはり安保理の常任理事国の権力が大きいという認識となる。次問のアラブの春に関する統計資料の問題もなかなか良い視点だと思う。画像スペースをとりすぎるので、興味のある方は検索して欲しい。

共通テスト 2025 公共倫理

https://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/kyotsutest/25/analysis/5610.html
https://kaisoku.kawai-juku.ac.jp/nyushi/kyotsutest/25/analysis/5510.html
新課程の共通テストの公民分野は、公共+倫理(100点満点)、公共+政経(100点満点)が受験生の主なる選択となる。
昨年度、学園で2年生の公共を教えた関係で、まず公共の問題について考察したい。公共倫理では、公共の問題は、8問で配点が25点になっている。政経も全く同じで25点配点であった。

公共の問題は、資料を読みとる思考問題が主で、いかに早く読み、論点を掴むかが問われている。倫理的な問題として第2問・問1にハーバーマスとアーレントが出た。正直な所、ハーバーマスの思想は私の好みではない。かなりの綺麗事、小学校の学級会的な原理を述べているに過ぎないと今でも思っている。さて、倫理の問題を見て、かなり複雑でいやらしい問題(河合塾の表現では踏み込んだ知識を問う問題)になっていると感じた。特に、第3問問4は、中国思想の礼楽についての4つの記述にあてはまる思想家(孔子・孟子・荀子・老子・荘子・墨子)をそれぞれ選ぶ問題であるが、ここまで授業で教える教師は全国でどれくらいいるのだろうと思う。

…とはいえ、良問を1つくらい選んでも罰はあたらないだろう。大乗仏教の思想についての第3問の問5。正解は②である。イは、維摩経は在家の維摩の話。(菩薩の説明も微妙)エは、鑑真が決定的に違う。まあ、これも上記の踏み込んだ知識といえなくはない。

2025年1月18日土曜日

ユニテリアンへの言及

https://ia-wake.hatenablog.com/entry/2022/12/31/012905
佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第9回目。まだまだ付箋が残っている。この書が書かれたのは、2016年。イスラム国において日本人2名が殺害された後のことであり、度々話題に出てくる。佐藤優氏は、助けに行ったジャーナリストの後藤健二氏が、プロテスタントであり、教会に行かなくなった後もクリスチャントゥディ(ネット上の新聞)に寄稿し、難民の悲惨さや旧約の詩篇を引いて自分の意見を述べていることを挙げて、彼は「召命」を受けたのだと確信していると述べている。

次に、新島襄は、ユニテリアン的なところがあったと推察する。ユニテリアンはプロテスタントから派生しているが、教派縦断的で、イエス・キリストを神秘的・超越的な形の救世主として捉えるのではなく(三位一体の否定・神の唯一性)、救いではあるけれど偉大な先生のように考える。神様の要素が少し小さくなった形で、アメリカの事実上の国教。米軍の従軍牧師やCIA職員は圧倒的にユニテリアンが多い。また作家・副島隆彦のユニテリアンについての考察を、佐藤優氏は着想が良いと述べている。副島隆彦についても調べてみたが、佐藤優氏や松岡正剛氏同様、新左翼運動にルーツを持つ言論人・作家である。また、佐藤優氏は、副島隆彦や大澤真幸、橋本大三郎らのキリスト教に関する著作で、些末な誤認がある場合、揚げ足取りばかりするキリスト教の人々を批判している。

2025年1月17日金曜日

バルトとフロマートカ

佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第8回目。第1章の最後の質疑応答で、受講生から、「バルトは分裂している近代そのものを背負っているのではないですか?」に対する佐藤優氏の回答が興味深い。

バルトは、近代の限界のところにいたと思う。あるいは居住していたスイスという国とも関係しているのかもしれない。スイスという国は、民族や宗教で成り立っていない、一定の約束のもとで国民が集まっている株式会社かアソシエーションのような国である。柄谷行人氏と対談していた時、バクーニンやプルードンのようなアナーキストはスイスを根城にしていたということに気づいた。ある種アナーキーな人が出てきやすい国で、バルトもまさにそういう人だといえる。

佐藤優氏が最も研究対象としていたチェコのフロマートカは、チェコのズデーデン地方がナチに割譲された時、アメリカのプリンストン大学にいたのだが、バルトは彼に公開書簡を送り、「かつてのフス主義者の末裔であるあなたがたは、あまりにも柔弱になっているヨーロッパに対して、今日でもなお力強い男たちがいるのだということを見せてもらいたいのです。」と書いた。おかげで、フロマートカは、ゲシュタポに追われ、殺されそうになり、スイスに逃げることになった。

また、ニューヨークに留学していたドイツ人のルター派の優れた若手の神学者・ディートリッヒ・ボンヘッフアーにも、戻って抵抗運動をやるべきじゃないのか、と手紙を書いた。ボンヘッフアーは、実際ナチに協力しない牧師のネットワークを作るとともに、独国防軍に入り、狼の巣のヒトラー暗殺計画に関与し処刑されてしまう。

フロマートカは、戦後、共産化されたチェコに戻り、信仰を貫き通して亡くなった。バルトは、胡散臭いけれど、その胡散臭さの中に真理があるところがあって、それを発展させようとしたり、巻き込まれた人は、大体悲劇的な結末になってしまってる、との言。

…佐藤優氏は、バルトとフロマートカは予定説によっており、天国行きのノートに名前を書かれているから、逃げ切れる、成功すると確信していたように感じると言っている。

…その後の質疑応答で、神は静的にあるのではなく動的に、ほっつき歩くというか、常に変容しているイメージだと述べ、浅田彰の「構造と力」にある”しらけつつノリ、ノリつつしらける”といったような力を動かしているものが、キリスト教の神に近いのではないかと述べている。あるいは仏教の「縁」に非常に近いとも述べている。「構造と力」は学生時代に読んだなつかしい本である。ドゥルーズを中心にポストモダンの思想を紹介した哲学書である。仏教の「縁」に近いというのは、少し驚いた。プロテスタント神学と縁起(えんき:縁りて起こること=すべての物事には、必ず原因があり結果があるという真理)の対比まで出てきたことに、驚きを隠せない。また、イスラム国に関係して、中田考氏をかなり批判している記述があった。私が希望する二人の対談の実現は困難だと感じた次第。

2025年1月16日木曜日

反宗教批判 人間が宗教を作る

https://www.shinkyo-pb.com/books/
佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第7回目。「ヘーゲル法哲学批判序説」の本文 の解説から。「反宗教的批判の根本は、人間が宗教を作るのであって、宗教が人間を作るのではないということである。」についてエントリー。

佐藤優氏は、この本文の宗教を神と言い換えても良いとしている。現代の(プロテスタント)神学は、こうした宗教批判が大前提になっている。この宗教批判を認めない牧師や神学者がいるとすれば、うんと不勉強な者。またファンダメンタリズム(キリスト教原理主義)の牧師や神学者、そしてたしかに宗教というものは人間が自分の願望を投影した幻影であり、作り出したものだということを認めたうえで、人間はこういう幻影を作らざるをえない存在であると考えるニコライ・バルジャーエフや、カール・バルトらである。

バルトの弁証法神学については、昨年の4月末から5月にかけて詳細をエントリーしているので、後で逸話を中心に記しておきたい。ただ、バルトが、WWⅠの時ドイツの神学が戦争を支持した際、自分の学んだ神学が崩壊し、パウロの研究に入るのだが、当時はパウロの研究は時間の無駄だと考えられていた。佐藤優氏の、この理由についての解説が実に興味深い。

史的イエスの研究において、聖書学では、マルコの福音書をもとに、マタイ・ルカの両福音書が書かれたと考えられてきた。ただ、マルコの福音書には記載がなく、マタイ・ルカの福音書だけに共通する記載がいくつもあり、もうひとつ先行する福音書があったが散在してしまったと考えられてきた。それが「Q資料」(Qはドイツ語のQuelle:源・出所)である。(2023年12月19日付ブログ参照)である。佐藤優氏の言によると、日本聖聖書会の新共同訳の聖書のマルコの福音書には、四角い「」で虫眼鏡で見ないとわからないような注がある箇所があるそうである。それは、イエスの復活の場面で、「後世の挿入とされるが、長い間教会で真正の文書と思われていた部分」と書かれている。マルコの福音書に復活の場面がなかったということになると、大変である。(東大の西洋古典学科は、マルコの福音書の研究ばかりして無神論を強めていったらしい。笑)

さて、これに関連して、キリスト教を作ったのは、割礼を否定して世界宗教に押し上げたパウロであることは間違いない。しかしながら、パウロはかなり弁も立つし、ローマ市民権もあったし、原始キリスト教会を良しとする後世の神学者からは、かなりイカサマ師的な部分があると指摘されてきた。バルトのパウロ研究は、そんな状況下においてなされたからである。

バルトは、パウロの研究から、マルクスの言う「人間が作った宗教であること」を認めながら、シュライエルマッハーの「心のなかに存在する神」ではなく、「外部にいる神」に、神の居場所を変えることを提唱した。レヴィナスの言う、他者、外部性と同義である。神を語ることは不可能だが不可能を可能にしなければならないという弁証法神学の誕生である。最初は無視されたが、後に決定的な影響力を持つ。

…西田幾多郎は、ハイデッガーに学びたいと相談に来た滝沢克己に、バルトのほうが深いと勧めたという逸話も載っていた。バルトは、ナチスに抵抗しスイスで50歳で国境警備の軍務につくような人物であり、冷戦期は東西どちらにも与しなかった。ただ、人格的には破綻していたと、佐藤優氏は記している。

酒飲みで、パイプ好き、妻と5人の子どもがいたのに、13歳年下のシャルロッテ・フォン・キルシュバウムと自宅でおぞましい三角関係の私生活を送っている。(画像参照)口述してタイプを打たせていた彼女が脳に異常をきたしてから「教会教義学」の執筆も未完に終わる。ちなみに、シャルロッテには印税を分けていないし、月2万円程度の小遣いを渡していただけで、奴隷的搾取をしていたようだ。しかも、「教会教義学」の公刊できた「断片」の最後には、「愛する妻ネリーへ」とあるそうで、まあ、どんでもないオッサンであるわけだ。

2025年1月15日水曜日

ChatGPT考

https://minnano-rakuraku.com/contents/whats-wrong-with-chat-gpt-5075/
ChatGPT(AI)で、ダンテの神曲で聖パウロがどこにいるのかを調べてみた。 ChatGPTは無謬ではないと思うのだが、煉獄にいるとのこと。理由は、イエスの復活後に目が見えなくなり目からウロコが取れるまで、迫害する側に回っていた罪が挙げられる。あるHPでは、天国編でダンテと同伴したとあったが、どちらが正しいのか、神曲の煉獄篇・天国篇を実際に読んでみなければわからない。

このChatGPT、たしかに便利だが、信用して良いのかどうかは迷うところである。他にもいろいろ調べてみたのだが、質問の仕方に工夫が必要だというのがよくわかった。

昭和の社会科教師としては、生徒にChatGPTを使うことについては、あまり賛成できない。まずは、基礎学力と基礎知識が重要。そのうえで、いかにうまく使いこなすかが課題だと思う。

2025年1月14日火曜日

「批判」(klitik)の意味

佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第6回目。いよいよ「ヘーゲル法哲学批判序説」の本文に入っていく。冒頭の「ドイツにとっての宗教の批判は本質的に終わっている。そして宗教の批判こそ一切の批判の前提なのである。」において、佐藤優氏は、「批判」(ドイツ語でklitik)は、日本では誤訳されていると言う。

「批判」は、否定的なニュアンスがあるが、ドイツ語のklitik(クリティーク)は、相手の言っていることは何であるか対象をまず虚心坦懐に認識する。それに対して自分は賛成している、基本的に賛成だが一部は賛成できない、全体的に賛成だが付け加えたいことがある等、対象として客観的に受け止めた上で自分の評価をしていくことを指す言葉である。これは、普通日本語で使う「批判」とは、肯定的なニュアンスとなり、かなり違う。よって、マルクスは、”キリスト教は(前回記した)「史的イエスの探求」によって本質的に終わっている(=結論が出ている)。無神論こそすべての前提となっている。”と述べているわけである。

…この批判というドイツ語の和訳の誤訳について、私が真っ先に思い浮かぶのは、三大批判書で有名なカントである。もし、またカントを教える機会があったなら、真っ先に伝えるべきことかと思う。ただ、純粋理性批判に関しても、決して否定的なニュアンスはないし、実践理性批判、判断力批判も同様である。

2025年1月13日月曜日

大学ラグビー決勝

https://www.instagram.com/patrick_yu810/p/DEwF4AoSqCw/?img_index=1
ラグビーの大学選手権は、帝京大が早稲田大を33-15で勝ち、4連覇した。実は大学選手権の決勝を見たのは、私がマレーシアに行った2016年以来である。なぜ明瞭な記憶があるかと言うと、この時、帝京が優勝し、その圧倒的強さに驚いたのであるが、まさかその帝京大学系列のPBT(帝京マレーシア日本語学院)に4月から行くことになるとは思いも寄らなかった。まさに奇遇だっただからである。

実はPBTで勤務している間に、帝京大学の総長に授業見学していただいたし、歓迎会で直接お話もさせていただいた。当然話題はラグビー部の話である。そういう関係もあって、やはり帝京大学を応援してしまう。マレーシアから教え子もかなり送った大学でもあり、当然と言えば当然なのだが…。

一方、早稲田大学との関わりの1つは、商業高校時代に先輩の先生方から、ラグビーのジャージを皆で注文しようという話が出て、私は迷わず早稲田のジャージにした。この早稲田カラーは一時期、私の代名詞だったのだ。まあ、帝京よりは遥かに薄い関係性である。(笑)ただ、学園から応援団に入った教え子もいるし、スポーツ推薦で送り出した教え子も早稲田にいる。今日の映像は、TVのない我が家としては、おそらく個人撮影であろうYouTubeで見たので、応援団が出動していたのかどうかはわからないのだが…。

とまあ、言うわけで両方(8:2で帝京かな)応援していたのだった。高校ラグビーより迫力があるのは言うまでもない。最後になったけれど、帝京大学、4連覇を称えたい。。

史的イエスの探求と無神論

佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第5回目。前回記したシュライエルマッハーの死から10年後に「ヘーゲル法哲学批判序説」が書かれているのだが、そのスタンスは、18世紀以後の啓蒙主義・実証主義的な「史的イエスの探求」の成果の上にある。「史的イエスの探求」の結論は、(歴史学的実証主義の立場から)イエスの実在は曖昧で、はっきり実証できないというものだった。

ここから2つの流れができる。1つは、イエスの実在が証明できなかったのなら、イエスとともにイエスを送ったとされる神の存在も証明できない(=存在しない)。では、人間はなぜ、どのようにして、神の概念をつくってきたのか突き詰めて考えるべきであるという「無神論」の立場であり、2つ目は、イエスの存在は実証できないかもしれないが、2世紀のはじめに「かつてイエスがいた。神の子であり救い主だ。」と信じる人々が存在したことまでは、事実(新約聖書等の文書の存在)として実証できる。そこまで実証できるのなら、イエスの教え、救済など原始キリスト教の論理を掴むことで我慢すれば良い、というプロテスタント神学の主流の考えである。佐藤優氏によれば、マルクスは、無神論とプロテスタント神学の「分水嶺」にあたるとしている。

ここで、このあたりに記されている逸話集。①ヨーロッパの国立の総合大学にはフランスを除いて全て神学部がある。フランスは、フランス革命後完全に国家と宗教を分離したので、ドイツと領有を長年争ったライン川西岸の(無神論的な)ストラスブール大学以外に、国立大学に神学部はない。公立学校でも、十字架をぶら下げることは、(ムスリムのヒシャブ以前から)規制されている。②日本の無神論の中心は、東大の西洋古典学科で、戦後占領軍の要請に激しく抵抗した歴史がある。聖書学者であっても神学者ではないというスタンス。京大は、神学がやりたくて同志社に入った(明治時代の貿易商でイスラム教徒だった父親をもつ)有賀銕太郎教授が、占領軍と交渉して文学部にキリスト教学科をつくった。

…「史的イエスの探求」の100年は、メタな視点で見ると実に重要である。無神論が、ここに由来することは容易に推測できるが、佐藤優氏にはっきり示してもらえるとありがたい。意外に面白かったのは、逸話集である。有賀銕太郎氏の戦前・戦中・戦後の話は俊逸であった。ちなみに東大の西洋古典学科出身の田川建三氏は、同じ無神論的なストラスブール大学神学部に学んでいる。調べてみると、田川氏は自らを「神を信じないクリスチャン」と名乗っているそうだ。

シュライエルマハーの神学

https://1000ya.isis.ne.jp/1782.html
佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第4回目は、プロテスタント神学の転換の内容を中心に記していきたい。ルターやカルヴァンの教義についてもこれまで詳細にブログに書いてきたので、割愛し、佐藤優氏のメタな視点を中心に見ていきたい。

宗教改革後の16世紀から18世紀半ばのプロテスタントの神学は、古プロテスタント神学と呼ばれる。その理由は、前述してきた「神は上にいる」という発想であったからである。そもそも、プロテスタンティズムの本質は、「イエス・キリストに帰れ」ということで、カトリックを旧教、プロテスタントを新教と呼ぶことが誤解を招いていると佐藤優氏は言う。啓蒙主義に始まる進歩史観は近代以後主流になったが、これはフランス革命以降の流行にすぎない。それまでの歴史観は、「下降史観」で、過去に、原点に、初心に帰ることが良しとされてきた。プロテスタンティズムは、「下降史観」、復古主義的であることを抑えておかねばならない、と。

もう一つ、プロテスタンティズムは、当初においては反知性主義であった。腐敗していたカトリックには(アラビアを経由したアリストテレスの形而上学から派生した)スコラ哲学があり、細かい理論にも精緻していた。そこで、プロテスタント側もスコラ的になっていくのだが、同時に物理学や天文学の発達とともに、「神様の居場所」について新たな居場所を発見する。それが、ドイツの神学者・シュライエルマハーの「宗教論」で示された「宗教の本質は直感と感情である。」、すなわち神の居場所は心の中であると、近代以後の理性中心の考えと矛盾しない形で、神を信じることが可能な神学を展開したのである。

このシュライエルマハーの神学の影響は大きく、心理学という学問を生み、また神学は心理学に吸収されていく。特に、この「宗教の本質は直感と感情である。」という規定は、自己絶対化の危険性を含んでいるといえる。マルクスの宗教批判(=ヘーゲル法哲学批判序説)は、このような状況下でなされるのである。

…さて、次回はいよいよマルクスに入るというところであるのだが、「下降史観」や「神の居場所」の転換などの極めて重要な命題が示されている。

2025年1月12日日曜日

フスとチェコの宗教事情

https://mementmori-art.com/?p=7876
私がお世話になっている学院はカトリックの学校なので、あまりカトリックの悪口を言いたくはないのだが、世界史をメタに見た場合、どうしても悪口を言わざるをえない。佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評、第3回目は、その最たる例であるチェコのフスの宗教改革の話から始めることになる。

フスの宗教改革については、2021年12月31日付ブログで、世界史B研鑽23の中で詳細を記しているので割愛するとして、関連する逸話について述べたい。フスの要求の1つに、聖体拝領時にワインを信者に飲ませることがある。前述のカトリックのサクラメント(11日付ブログ)との関連である。チェコのフス派の教会の入口には、ワイングラスが描かれているとのこと。さらにボヘミアに攻めてきた十字軍のシンボルと重なる故にフス派の教会には十字架はないとのこと。これはまさに異質である。

…フス派の十字架のない教会の画像をかなり探したが、ついに見つからなかった。その理由。チェコはフスの火刑後、2世紀の間、殆どがフス派となりフス戦争を起こしたが、その後ハプスブルグ家支配の影響でカトリック化を強要され、社会主義を経由して、現在は無宗教の人口が欧州で多い。調べてみると、統計的には様々な記述があるが、カトリック人口も少なく、フス派はもっと少ない。一説にはカトリックが10%ほど、フス派は0.4%。葬儀でも聖職者を呼ぶのは少数派で、葬儀法にしたがって葬儀社が行うという状況であった。

…それでも、フスが火刑の際に言った言葉「真実は勝つ。」は、今もチェコの大統領府の旗に刻まれ、「”宗教面に限らず”チェコ人を団結」させていると佐藤優氏は、記している。ここで、あえて”宗教面に限らず”という語が加えられていることが、私は気になる。現在のチェコが無宗教であるから、宗教面での団結ができないという意味に捉えるべきなのか、あるいは無宗教(=神の否定)が「真実は勝つ。」というフスの言葉が予言的に強烈にリンクするからなのか。キリスト者である佐藤優氏故に、前者であろうが、あえて深読みして後者と捉えられないように加えたのかもしれない。

2025年1月11日土曜日

中世の形而上学的存在論 考

http://saitama-te.com/main/
human/divinecommedyworld4/
前回のブログでふれた中世の形而上学的存在論(上に神のいる天国・下に地獄)について、学院の図書館で同時に借りてきた「天国と地獄」(神原正明著/講談社選書メチエ191)の中にある、図2「ダンテの神曲の宇宙」(左記画像)が参考になると思う。

ダンテは、13世紀から14世紀にかけての人なので、神曲に描かれた地獄篇・煉獄篇・天国篇は、当時のカトリック的(煉獄の存在を伝えるのはカトリックのみ)宇宙観の一つだといえると思われる。

ダンテの神曲の宇宙観は、地球が陸の半球と水の半球に分かれており、エルサレムがその中心で、キリストの十字架を目印にして、その地下に地獄があることになっている。

https://event.hokkaido-
np.co.jp/dali/work/

以前にも神曲について記したことがあるが、地獄の門をくぐると、辺獄=リンボ(ホメロスなどのキリスト教に接することがなかった以前の者や洗礼を受けずに亡くなった幼児の存在するところ)がある。調べてみると、カトリックでは、この洗礼を受けずに亡くなった幼児の救済について、アウグスティヌスの時代からトマス・アクィナスを経て、現代まで議論されてきたが、教義ではなく神学上の仮説・意見として存在しているにすぎないらしい。その下がいわゆる地獄で5つの圏をなしている。地球の中心部が最下層で、井戸があり水半休の中心部に出る。さらに進むとエレサレムとちょうど反対側に海から突き出るように山がそびえている。それが7層になった煉獄である。(右の画像はダリの描いた煉獄である。)

煉獄の頂上の平たい部分が地上の楽園であり、その上に、天国が広がっている。プトレマイオスの天動説にしたがって、同心円状に遊星となっている月天、水星天、金星天、太陽天(聖トマス・アクィナスやソロモン王がいる。)、火星天、木星天、土星天、恒星天(聖ペテロ・聖ヨハネ・聖ヤコブやアダムがいる。)、万物を動かす根源の原動天(セラフィムなどの9人の天使がいる。)、神が坐す至高天(聖マリアがいる。また聖ヨハネ、聖アウグスティヌスがいる。)にいたる10層に分かれている。

まあ、神曲という文学上の話ではあるが、興味深いと私は思う。ダンテにとって、トマス・アクィナスより、アウグスティヌスの方が上であり、ペテロより、ヨハネの方が上で、行きたまま天国(第三天=金星天?)に引き上げられたとされるパウロ(コリント人への手紙2-12)は、ダンテの愛したベアトリーチェ(至高天までの案内者でもある)の同伴者として描かれているそうである。私は天国篇は未読なのでいずれ確認したいと思う。

存在論とサクラメント

https://stannbb.org/our-faith/the-sacraments/
佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)の書評第2回目。すでに2/3ほど読んだが、付箋の数が膨大に増えている。本書に登場する論理的な内容も様々な逸話も、実に興味深いので、できる限りこのブログに残しておこうと思う。

日本人が宗教について考える時、皮膚感覚で理解しにくいのは一神教の感覚であるのだが、その表裏一体の関係にあるのが、哲学で言う「存在論」(ontology)である。この存在論には、我々が物事を考える際に、「見えている世界」の背後に「見えない世界がある」という暗黙の前提がある。これが形而上学で、中世までの形而上学では、上(神のいる天国)と下(地獄)というヒエラルキーがあった。ところが16世紀以後、コペルニクスやガリレオが地動説を唱えて近代的な世界観が開かれる。これによって、形而上学的な上の世界の存在が否定されてしまった。哲学は組み直しを行ったが、神学(特にカトリック)は近代以前の世界観を守ろうとし、今もそのままである。それがカトリックの強みである、と佐藤氏は記している。

…存在論とカトリックの形而上学の対比は実にメタな視点である。中世から近世への西洋思想史における大転換。この対比については薄々感じていたが、哲学側の人間である私から見ると、どうしても批判的に見るしかなかったのだが、これ以後も論じられていく、超重要命題である。

ここで、サクラメント(=秘跡)についての話が出てくる。カトリックでは7つのサクラメント(洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油(とゆ)・叙任・結婚)がある。聖体は、ミサで、イースト菌の入っていないパン(=ホスチア)がキリストの肉となり、葡萄酒がキリストの血となるとされている。神秘的な力が働くからで、サクラメントとミステリーの語源は同じである。ちなみに多くのカトリックでは、葡萄酒は神父が飲むだけである。床に落としたら不敬にあたるという由来で信者が辞退したという伝統から来ている。オーソドックス(正教会)では、葡萄酒を信者も飲むが、万一床にこぼした場合は、乾かして床を切り取り焼いて灰にする。キリストの血が肺になり聖遺物化するという処理方法をとるとのこと。加えて、オーソドックスでは、このパンと葡萄酒がキリストの肉と血になることを議論することは、機密(オーソドックスのサクラメントの和訳)を疑うことが信仰に反するとしているとのこと。

ちなみに、プロテスタントでは、サクラメントは聖餐(カトリックの聖体と同義)と洗礼の2つのみである。結婚がサクラメントにはないので、離婚は奨励しないまでも禁止はしていない。

…学院で、昨年6月の聖母祭のミサを見学した際、校内の信徒(先生も生徒もいた)の聖体拝領はホスチアのみで、葡萄酒は私のいた後方から神父に持って行ったのを見させてもらった。葡萄酒を持って行った宗教委員の生徒は3年生でよく知っている生徒だったので明確に覚えている。

…カトリックでは、結婚がサクラメントに入っている故(以前読んだ知識だが、死別した場合を除いて)一応原則禁止だと言う話なのだが、昨日、宗教科のN先生に、この話題を出したら、人定法の民法などでは離婚が認められているので、教会法では、神父が立会う結婚式は2回はできないということと教えていただいた。「この辺のリベラルなスタンスは、カトリックの強みですね。」と申し上げたら、「たしかにそうですね。」と笑顔を返された。

2025年1月9日木曜日

ゼロからわかるキリスト教

学院の図書館で、佐藤優氏の「ゼロからわかるキリスト教」(新潮社)を借りてきた。帰宅途中に35Pほど読んだが、すでに付箋を10個以上付けてしまった。(図書館の本には、赤線など引けないので、重要だと思われる箇所には、小さな付箋を貼る習慣になっている。) 

この本は、佐藤優が「キリスト教について語る場合、種々の偏見があるために、そのような偏見を除去するためにマイナスから出発せざるをえない。こういう不毛な作業を避けるために、(中略)日本人の大多数は自らを無宗教と考えている(故に)、宗教は民衆のアヘンであると定式化したマルクスに焦点をあてれば、逆にキリスト教の特徴が明らかになるのではないかと考えて作成されたのが本書である。」とまえがきで書いているように、「ヘーゲル法哲学批判序説」をもとにした新潮講座で語った内容をまとめた本である。

…佐藤優氏らしい、なかなか面白い切り込み方である。佐藤優氏の本はかなり読み込んでいる。同志社神学部での思想遍歴もある程度知っている。無神論を研究しようとして同志社に学び、1年後にプロテスタント(日本ではカルヴァン派の会衆派も長老派も昔に合同しているので、こういう表現方法になる)の洗礼を受けたことも知っているし、チェコの宗教改革の先駆者・フスを研究したことなども知っているのだが、本書でも後にふれることになっている。

本書は2016年の発行なので、イスラム国(ISIS)の話から始まる。佐藤優氏は、ISISを資本主義の本質(いつだって資本は貪欲に自らを増殖させていくことい血道をあげ、無意味で過剰で不公平な競争へ人々を追い込み、途方もない格差を生むこと)の打破への一つの対抗策(=プレモダン、近代以前への回帰)として理解できるとしている。しかし、このような資本主義打破への模索は、100年前からずっと続いていると氏は言う。WWⅠはまさに、近代の理性が生み出した悲惨な戦争であり、理性への信用が喪失(近代=モダンの危機)は今だ続いているといってよい。ポストモダン的なものによって近代を脱構築できるのではないか、近代を超克できるのではないか、という試みはあったものの、1980年代の日本ではこれをものにしたのは広告代理店くらいで、ポストモダンは小さな差異をつけて商品やイメージを作り出し利益を得たに過ぎない。よって、やはりマルクスを読む必要がある、という話がなされている。

…この記述のISISについては、中田考氏がカリフ制再興という観点から、資本主義的な領域国民国家(中田氏はこの表現がお好き)のイスラム世界における打破を強く訴え、シンパシーをある程度持っておられる。私は、佐藤優氏と中田考氏の愛読者なので、両者の対談を望みたい。意外に意気投合されるような気がする。

…この記述の後半には、デリダの脱構築理論(おそらくフーコーの物語理論も含めて)ポストモダン批判が書かれているが、私の倫理の授業では、まさにこの佐藤優氏の言われる広告代理店的な話をする。携帯会社の白い犬のCMシリーズや他の携帯会社の桃太郎・浦島太郎などのCMシリーズなどで、脱構築を高校生に理解させることが一番わかりやすいのである。ここの記述は、妙に嬉しい。(笑)

これからもますます付箋が増えるだろうと思う。当分の間、本書の書評がブログの主役になりそうである。

鉄道唱歌 JR学研都市線編

https://www.youtube.com/watch?v=J2thAMF5DKc
たまたま見たYouTubeで、片町線(現・学研都市線:私がいつも乗っているJRである。)の歴史という、かなりレアでマニアックなものがあった。ここで、鉄道唱歌の話が出てくる。例の「♪汽笛一声 新橋を…」であるが、全国各地編があるとのこと。その頃すでに今の学研都市線は存在しており、当時は始発駅の名をとって「網島線」という名前だったらしい。

この鉄道唱歌、正式には、鉄道唱歌/関西・参宮・南海編。現・学研都市線に関連する歌詞のみ紹介したい。旧漢字や表現を現代風にして読みやすくした。また駅名は「」で示した。

♪汽車をたよりに思い立つ 伊勢や大和の国めぐり 「網島」いでて関西の線路を旅の始めにて

♪造幣局の朝桜 桜の宮の夕すずみ なごりを後に見返れば城の天守も霞みゆく

♪咲くや菜種(なたね)の「放出」も過ぎて「徳庵」「住道」 窓より近き生駒山 手に取る如く聳(そび)えたり

♪「四條畷」に仰ぎ見る小楠公のみやどころ 流れも清き菊水の旗風いまも香らせて

♪心の花も桜井の父の遺訓を身に占めて 引き返さぬ武士(もののふ)の戦死の跡はこの土地よ

♪飯盛山をあとにして「星田」すぐれば「津田」の里 倉治の桃の色ふかく源氏の滝の音高し

…大阪以外の方には、わかりにくいと思うので少し解説。最初に出てくる造兵局(財務省管轄の硬貨や勲章を製造する所)は大阪市内の桜の名所。天守は当然大阪城。生駒山は奈良との境をなす地塁山地。倉治は現交野市の地名。源氏の滝は、自宅から徒歩圏内なのだが、実際には大きな滝ではない。駅名も難読なものもあるので、放出=はなてん、徳庵=とくあん、住道=すみのどう、となる。

…1900年(明治33年)の作であるから、日清戦争と日露戦争の間である。小楠公というのは、南北朝時代の武将(建武の新政で活躍し湊川で戦死した楠木正成の嫡男)で楠木正行のこと。南朝の河内守で、四條畷の戦いで北朝に敗れた。「太平記」の伝説に基づき、明治9年に尊王思想の模範とされ従三位を贈られている。菊水の旗とは、楠木正成の家紋である。飯盛山山頂には、吉野の方向を向いた正行の銅像(昭和13年)が建っている。当時の時代背景をすこぶる強く感じるわけで、社会科教師なのに苦手な日本史の再確認も少ししてみた次第。

2025年1月8日水曜日

英語・マレー語・スワヒリ語

https://www.youtube.com/watch?v=tv9FWg51xww&t=797s
たまたま見たYouTubeチャンネルで、私と縁の深い(マレーシア在住歴3年半、JICAで研修に行ったケニア)2言語(マレー語・スワヒリ語)と英語の共通点について解説していた。英語はもちろん、マレー語(ほとんど同じインドネシア語も)もスワヒリ語もカタコトでしかないのだが…・(笑)

https://e-words.jp/w/
それは、ラテン文字のアルファベットを使う言語の中で、この3言語は、「ダイアクリティカルマーク」(左の画像参照)を使わない言語ということだった。私は大学時代、ドイツ語をかじったので、ウムラウトは知っていた。まあ、フランス語などもこういったアルファベットになんかついているのは知ってはいたが、ほとんどの言語が使っていることには、改めて驚いた。

この「ダイアクリティカルマーク」、発音を示すための記号であるとのこと。元はラテン語を書くために生まれたものらしい。中世の共通語であったラテン語からできたラテン文字で各言語を表現する場合必要になったという。

英語が「ダイアクリティカルマーク」がないのは、かなり特別なことらしい。マレー語もスワヒリ語もたしかに…「ダイアクリティカルマーク」を見たことがない。いやあ、実に奇遇なのであった。

2025年1月7日火曜日

準優勝に胸を張って欲しい

高校ラグビー決勝戦、T大G高校は、神奈川のT学園に40ー17で及ばなかった。この得点差に両者の強さの差があるのだろう。ボールの支配力、ラックやスクラムの強さ、そして一瞬の隙を見逃さないバックス…。だが、後半、勝負を度外視しても最後までトライを決めるというT大G高校の粘りに、感動した。

T大G高校ラグビー部、準優勝に終わったとはいえ、接戦を勝ち抜き素晴らしいチームだった。胸を張って欲しい。私は、この冬休み、T大G高校ラグビー部のお陰で、高校スポーツの醍醐味とハラハラ・ドキドキの日々を送らせてさせてもらった。T大G高校との関わりが生まれたことにも感謝したいと思う。

今日の画像は、地理特別補習の最終日に撮影した夕陽に照らされたT大G高校の校舎である。

2025年1月5日日曜日

死闘 高校ラグビー準決勝

まさに死闘と呼ぶにふさわしい大阪決戦だった。高校ラグビーで、私と関わりのあるBシードのT大G高校が、初戦S工を14対10、3回戦でH学園を31対5で破り、さらに準々決勝で強豪HF高校に17対12で勝ち、今日の準決勝では、同じ大阪のJ学園高校(旧O工大高)と対戦した。

結果は、29対26。リードしていたのだが、最後の最後まで食い下がる相手に2人も退場者を出し、最後は13人で戦うという窮地に追い込まれながら、勝利を掴んだ。私が花園に行ったS工との試合も、準々決勝のHF高校との試合も、1トライでひっくり返る僅差の勝利だったが、今日の試合は、LIVE中継を見ながら、いい試合すぎて、最後の最後までヒヤヒヤする、ホント心臓には悪い試合だった。

H高校のラグビー部の顧問をしていた時、ラグビーは必ず強いほうが勝つ残酷なスポーツと教えてもらったが、全国大会の頂点となるとまさに紙一重である。明後日は、いよいよ決勝。相手はAシードのT学園である。短い間だったけれど、T大G高校の教え子たちの顔を思い浮かべながら、彼らの受験の勝利と重ね合わせて応援したいと思う。教え子たちも同級生に大いに勇気をもらっているはずだ。

今日の画像は、花園に行った時、歴代の優勝校が電信棒にデコレーションされていたのを撮影したもの。T大G高校は、これまでに6回優勝している。

2025年1月4日土曜日

穏健派ヨルダン国王のこと

https://www.facebook.com/photo.php?
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ヨルダン国王は、ムハンマドのクライッシュ族・ハーシム家の血筋で、世が世ならカリフになるべき王家である。

第3次・第4次中東戦争時、ヨルダンは前国王のフセイン1世の治世。両戦争にヨルダンも参加したが、ラビン・イスラエル首相と平和条約を結び、エジプトに次いで国交を結んだ平和主義者である。

国内の上下水道と電気のインフラを整備(治世の終わりには、10%から99%に拡大)、識字率も33%から85%に向上させた名君といえる国王であった。その長男である現国王のアブドゥーラ2世も、先代の国王の穏健路線を粘り強く引き継いでいる。

この父子は空軍パイロットでもあり、人の上に立つ者はそれに見合う責任があるという「ノブレス・オブリージュ」が、世界的な常識であるからだが、アブドゥーラ2世は、政府専用機を操縦することもあるらしい。変装して一般市民の生活を実際に見聞きする国王としても有名。

さて、現在のヨルダンには、UNHCRとUNRWAの統計で232万人のパレスチナ難民がいる。他にもシリア難民が66.8万人、イラク難民が3.6万人、その他スーダンやイエメン、ソマリアの難民も受け入れている。

そんなに資源もなく(リン鉱石と天然ガスが少し)、果実・野菜などの農業国で、アラブ諸国の中でも豊かではないヨルダンは、この難民受け入れを、アメリカなどの支援とサウジなどの支援で賄っている。イスラエルのマイナス面を、国際社会にあっては、こういうカタチで受け入れているありがたい国であるといえるのだが、それも二代の国王の人徳によるところが大だといえるのではないか。

歌川国芳展に行く。

歌川国芳展に昨日行ってきた。三が日から行く人は少ないだろうと思っていたのだが、かなりの満員御礼で、30分ほど入場制限されたのだった。後で謎が解けたのだが、展示期間が前半と後半に分けられていて、昨日見たのは前半の展示だったのだ。チラシによると前後半通して展示されるものは実に少数であることもわかった。正直、人が多くてゆっくりと楽しむことはできなかったので、後半、ウィークデーにまた行こうかと妻と話している。

最近市内にでると、外国人の多さを肌で感じるのだが、国芳展でもそうだった。携帯のアプリで、解説文を写真にとって翻訳している人もいたりして、静かに鑑賞してくれる分には共通善的に全く問題なしである。(上記画像は撮影が許されていた数少ない作品の1つ。)

美術館には、大阪出身のヤノベケンジ氏による、外に美術館を守る猫(SHIP'S CAT)、館内にジャイアント・トらやん(画像参照)のモニュメントがある。なかなかユニークである。

ところで、この中之島美術館、西尾市長時代の1988年から平松市長時代にかけて計画が進められた大阪市の近代美術館構想で出来上がったものらしい。よって、前を流れる堂島川のもしもの時の大規模な浸水に備えて、2Fが庭園、入口で、貴重な佐伯祐三やモディリアーニなどの収蔵品や展示室はかなり上の階にある。エスカレーターはかなりの長さであった。この辺は利権に走る現在の市政と、まさに一線を画していると思う次第。今年開催の万博はそういった熟慮はされているとは思えない。

2025年1月2日木曜日

人類史上最もやっかいな問題8

https://www.toibito.com/toibito/articles/
「イスラエルー人類史上最もやっかいな問題ー」(ダニエル・ソカッチ著/NHK出版)の書評、第8.5回目。第16章にある「イスラエルのアラブ系国民」についてである。

1948年に、イスラエルに逗まった15万6000人のアラブ人には市民権が与えられた。と、いうのもイスラエルは建国宣言の中で民主国家を目指しているからである。同時にユダヤ人国家を標榜しており、このジレンマもやっかいな問題である。アラブ系人口を多く抱える地域には戒厳令がひかれ、解除されたのは1966年のことで、さらにヨルダン川西岸のアラブ人は国民ではなく、投票権もなく、イスラエルの軍法下に置かれている。現在イスラエル国籍を持つアラブ人の人口は190万人。全人口の20%を占める。

彼らは、公式には平等であるが、別々の社会圏で、別々の学校制度を持つ。最貧の自治体の多くはアラブ系で、兵役につかないために、イスラエルの基幹作業であるハイテク系への就職の機会がないからである。(この事に関しては、米山伸郎著「知立国家イスラエル」に詳しい。)しかも人種差別的な扱いは、テロの頻発やインティファーダの歴史から日常茶飯事である。

2011年の「予算団体法」は別名ナクバ法と呼ばれ、独立記念日をナクバ(大惨事)として哀悼記念日とする学校や自治体などの組織は国家からの資金を失うことになった。また同年の「転入委員会法」は、転入希望者がコミュニティの社会的文化的にふさわしいかどうかの委員会を設置する法律で、宗教や民族差別を禁じて入るものの、アラブ人を歓迎しないコミュニティが締め出すことを可能にした法律であるとされている。

最も懸念されているのは、2018年の「国民国家法」である。成文憲法のないイスラエルでは、14の基本法が同等の価値を持ち、改定には議会の圧倒的多数が必要となる。国民国家方は最も新しい基本法で、ある種のユダヤ至上主義的を謳っており、アラブ系に対して彼らがイスラエルに属していないことを知らしめる排外的な内容である。当時の大統領であったルーヴェン・リヴリンは、右派リクードに属していたが、職務として法の成立に最終的に関わったが、不賛成の意を込めてアラビア文字のみで署名したという。右派政権は、独立当時の民主国家とユダヤ人国家のジレンマを捨て去ったのである。

…このイスラエルのアラブ系国民、軍法下におかれたヨルダン川西岸のアラブ人の問題も実に厄介な問題である。多民族国家マレーシア在住時に、マレー系と中華系、インド系といった微妙な感覚に触れたが、はるかに強圧的な構造である。「選民」と「土地の子(=ブミプトラ)」では、天と地の差があるような気がする。

2025年1月1日水曜日

うどんとラーメンの論理学

https://www.amazon.co.jp/
新年明けましておめでとうございます。正直なところ、私達を取り巻く日本、そして世界の政治的経済的情勢は極めて厳しく、あまり”おめでたい気分”ではないのですが、まさに慣例句として記載している次第です。

さて先日、花園ラグビー場の帰路、O先生とゆっくり話す機会がありました。O先生は、高校生の学習ということについて、いろいろと考えてこられた方で、実に示唆に富んだ話をされておられました。

学習とは、知識から知恵(あるいは自分の意見の創出)への転換であり、様々な命題の対比から、それぞれを調べ文章化して知識化したうえで、自己の知恵に昇華していく過程だというものでした。実際には、うどんとラーメンの違いを把握し、自分はどちらが好きか、その理由をはっきりと言えるようになることというかなり具体的な話でした。(笑)要するに論理学なのですが、言い当てて妙でした。

先日見たYouTubeでは、上記の論理学に則り、ウクライナ紛争が何故終わらないか、地政学と国際的なルールの対比で論じられていました。ロシアの政治的・軍事的・経済的地政学から見れば、ウクライナの重要性は死活的であり、国家の主権・自衛権という面からは、ウクライナに正義があるといえるわけで、ここに歴史的文化的な様々な軋轢が加わり、この両者の止揚は実に難しいというわけです。今集中的にブログに記しているユダヤ人とパレスチナ人の「人類史上最もやっかいな問題」も同様です。ウクライナ紛争もまた、「かなりやっかいな問題」だといえるでしょう。

さらに、「かなりやっかいな国」・中国を巡る問題ですが、人民開放軍が公に主席批判をするまでになりました。まさに清の末期のようになってきました。経済的には破綻しているようですが、倒れそうで倒れない中共政府に、アメリカの新大統領となったトランプがどう対処していくかが、今年の大きな流れを作っていきそうです。

トランプ政権といえば、1月20日が就任式ですが、SNS上では翌日からパンデミックが再来するという話で持ちきりです。Wに対して懐疑的なケネディ氏の手腕に期待したいところです。

日本の現実も酷いもので、さらなる増税が生活を蝕んでいきそうです。日本の政治家には国士はいないのかと叫びたくもなります。後輩や若い教え子たちの将来を思うと、暗澹たる気持ちになります。2025年もまた、大谷選手や井上尚弥選手の活躍だけに光を感じる年になるのでしょうか。

追記:T大G高校ラグビー部は、本日、H学園に31-5で勝利し、ベスト8に進出しました。私にとっては大きな光です。