驚いたのは、その灌漑プロジェクトの説明会に参加した人々が、参加したことに対価を求めたことである。砂漠化を助長する環境破壊である木々の枝を刈り取って現金化するくらいしかできないほど彼らは極端に貧しい。”援助屋”が、植民地主義的な上下関係を維持してきた故に、彼らにはそういった習慣が深く根付いていたのであった。
主人公の青年は、これを断固拒否する。アマルティア・センの飢餓論に忠実である。自助努力なしに彼らの未来はないという信念が息づいている。
そもそも、貧しい者は、富める者からなにがしらを得ることは、グローバルスタンダードである。イスラム教での喜捨が最も顕著だが、ウガンダは、キリスト教圏でカトリックやプロテスタントの国である。これは植民地時代の悪しき上下関係という側面が強いといえる。主人公は富める外国人として認識されている。
私がアフリカで、経験した同様の体験は、ジンバブエの公園で幼子の兄妹の笑顔見たさに、小銭を与えたことぐらいである。大人から直接何かしらの対価を求められたことはない。それほど、カラモジャ地域の経済的困難さは厳しいといえる。
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