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https://bs.tbs.co.jp/kyosyo/bknm/08.html |
高野氏は彼のようなソマリ知識人は明治の知識人と重なる部分がある、としている。日本人における中国文明のように、ソマリ人にとってイスラム世界こそが文明であった。イスラム法学者の父のもと、論語の素読よろしく、クルアーンの暗誦を幼少からしており、造詣が深い。一方、ソマリランドはイギリスの植民地となって以来、クリスチャンの中学高校で英語教育を受けた。2つの外来文化に親しんできたわけである。ただ、夏目漱石や森鴎外のように「近代的自我」などには全く悩んではいない。(漱石も鴎外も、イギリスやドイツにおいてヨーロッパ的な思想の影響を受け、自己の存在について大いに悩み苦しむことになる。明治の知識人=留学経験者が、同様の問題意識に陥ったことは、よく知られている。)
「イスラム教徒は、自分がヨーロッパ人より上だと思っている節がある。」とは漱石を愛する在日スーダン人研究者の言だとか。イスラム教徒が、個人のアイデンティに悩む必要がないのに加え、伝統的氏族社会故に「自分は何者か」などを問う余地は少ないのだろう。よって、内部に葛藤を持たないソマリ知識人は、常に直球ドマン中勝負である、とのこと。
…高野氏のこの明治知識人との対比による考察は実に面白い。このソマリ知識人=イスラム教+イギリス文明の基盤にソマリアの氏族社会があるわけだ。日本ではこういう氏族社会の概念が完全に薄れている。すでに、日本の知識人は、このような数式めいた構造を失っているように見える。我々の世代限定で、無理に数式化すると、八百万の神の多神教的基盤の上に、仏教+朱子学+平和主義+左翼的リベラリズム(今回の参議院選でもかなり減少していることが明らかになった。)という考察になるかなと思う。
このソマリ人の基盤となる氏族社会的な話は、後に南部ソマリアの首都・モガディシオで再登場する。
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