2017年9月2日土曜日

適度な先進性と適度な後進性

http://sites.thestar.com.my/aamwalk/
「マレーシア新時代」(三木敏夫著/創世社新書)をやっと読み終えた。意外に長くかかったのは、後半部があまり面白くなかったからである。今日は、この本に出てくるマレーシアの「適度な先進性と適度な後進性」というレトリックを元にエントリーしてみたい。

今週のスクールホリデーは、旅行や観光には行かなかったけれど、いろいろと所用があって住処に引きこもりというわけではなかった。火曜日は、シャーアラムにあるCANONのサービスセンターに行ったし、水曜日は病院や銀行に一人で行ったし、木曜の夜はA先生と妻と新しく出来た近くの焼き肉屋へ。金曜日はまたまたA先生と夫婦共々NSK(業務スーパー)へ行った。今日もチェラスまで所用があったので妻と行ってきた。帰りにはブキッビンタンから先日開通したMRTにも乗ってみた。出不精の私としては、なかなかの出家率である。(笑)

マレーシアの先進性は、ITを駆使して第三次産業が隆盛していることで証明できる。KLの中心、ブキッビンタンに今日はスニーカーを探して行ってきたのだが、パビリオンやLOT10といった有名なモールの中は、先進国そのものである。日本の商品も少しばかり高いが、かなりの種類がこちらで手に入る。最近開通したMRTも、素晴らしい新交通機関だ。しかし、一歩裏道に入ると、路地には開発途上国らしい雑然とした雰囲気がある。私は、もちろん嫌いではない。と、いうより親しみを持っている。こういう表面的な「適度な先進性と適度な後進性」は、おそらく長期滞在しなくてもわかるだろうと思う。
http://www.mymrt.com.my/en/sbk/trains
しかしながら、マレーシアの「適度な先進性と適度な後進性」というレトリックは、私にとってはガバナンスの面で痛感するところである。たしかに先進国並みにIT化が進んでいて、若い人やIT慣れしている人には十分その先進性を受け入れることが出来るが、私のようなデジタルデバイドのおっちゃんにはかなり厳しい。銀行や税務など、ちょっと気後れしてしまう。ちょっとしたミスでやり直ししなければならないことが多い。(他の先生方の話を総合すると)しかも対応してくれるスタッフによって、かなりサービスが違う。早い、遅いの差は日常的。マニュアルがないのかもしれないし、引き継ぎにいたっては絶望的なこともある。

車を運転しようにも、スマホのナビがなければどこへ行くのにもローカルの人でさえ不便する。これには、少し解説が必要かと思う。マレーシアは極めて車社会で、しかもフリーウェイの高速道路が縦横に張り巡らされている。信号はかなり少なくて、停滞さえなければ移動時間は極めて短くて済む。ただし、道を間違うと地獄である。もの凄い距離を迂回するはめになるのだ。これらは、先進性でもあり後進性でもあると言えそうだ。

とはいえ、マレーシアの魅力はこの「適度な先進性と適度な後進性」だという著者の論には賛成するしかない。

ところで、私の街タマンデサを走る650番のバスは、時間が不確かだし便利なようで便利でない代物なのだが、人間的である。バス停の間でも手さえ挙げれば止まる。これはおそらく官僚制から見たら後進性なのだと思うが、嬉しくなる。顔なじみのサングラスをかけた650番の運転手と、今週は3度も会った。まずは、月曜日だったか、妻の体調が悪くて一人でスーパーに買い物に出かけたとき、偶然目があった。彼はフォーンを慣らして挨拶してくれたのだ。火曜日に病院に行くため坂を下っていたら、また会った。手を挙げて挨拶してくれた。そして、今日、始点であるパサセニのバスステーションから乗り込んだら、運転手が彼だった。もちろん親しく挨拶した。我がコンドミニアムの向こう50mほどのところに正規のバス停があるのだが、何も言っていないのに、当然のように正門前で止めてくれた。

こういう人間的なコミュニケーションがマレーシアには溢れている。もちろん全員が全員、善男善女であるわけはないが、私がマレーシアに住んでいて最も良いと感じる点である。おそらくは、「適度な先進性と適度な後進性」と「多文化共生」が融合してできた国民性が心地よいのではないだろうか、と思っている。

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