2014年10月13日月曜日

「武器としての社会類型論」Ⅱ

加藤隆先生の「武器としての社会類型論」を少しずつ読んできて、ようやく「掟共同体」にまで進んだ。この「掟共同体」こそ、この本の主題なのだが、その前に西洋社会・中国・日本・インドといった文明圏の社会類型を整理しておきたい。この類型は、国際理解教育の異文化理解に大きく役立つと思うし、社会科学全般にも有効だと思う。

加藤先生は、西洋社会を「上個人下共同体」という二重構造で説明しておられる。ギリシアの自由で、暇があり哲学が可能だった個人で構成された支配層と、奴隷として労働を強いられた不自由な共同体とに完全に分離している構造である。
…これまで、経済史では奴隷経済として学び、私自身はこういう奴隷制は古代の話だと信じていたのだが、よく考えると、ローマから中世の農奴制にいたるヨーロッパに根付いた社会構造である。この打破の動きが民主主義を成立させたわけだ。とはいえ、こういう二重構造はイギリスだけでなく、今でも存在するのだと思う。ヨーロッパの植民地経営もこの延長線上にあるわけだ。

さらに、何度も膝を打ったのは、中国、日本、インドの社会構造論である。中国は、「上共同体下個人」と、ヨーロッパと逆の二重構造である。しかしながら、この上下は移動可能である。科挙という国家試験の存在は、下層に生まれても上層部に移動することが可能であるからだ。ところが、この上層部は「君子」として、個人としての自由を奪われ、社会を管理しなければならない宿命をもつ。下層部に位置しているものは、個人としてある程度の自由も価値創造も富の蓄積も可能な社会である。なるほど。
日本には、こういう二重構造は存在しない。「全体共同体」と称されている。同じ共同体に属するという「場」が重視され、個人という存在は成立しない。よって自由はない。優秀なものは上層に立つが、それは機能的なもので、タテ社会となる。富は密かに享受される。これも、見事なほどの分析である。

…現在の中国にも、この社会構造はあてはまる。科挙の変わりに共産党員という資格で、上共同体に属するのである。儒教は否定されつつも、社会を管理する使命は存在している。意外に、下層の個人は自由である。だからこそ、政府は民主化を恐れるのであろう。ここでも、西洋的なるモノへの敵愾心が存在するわけだ。日本の「全体共同体」には、全く批判の余地がない。

インドは「資格共同体」と呼ばれる。この資格はジャーティー(仕事別による身分)を意味する。このジャーティーには、それなりの上下はあるのだが、ヨコ社会が重視されており、人による支配の構造は働かない。またジャーティーによって、自由な自己実現が未然に封じられている。とはいえ、自由に伴う不安や挫折もない。
…インドで、IT産業が盛んなのは、彼らが数学的に才能があるということだけではなく、このジャーティーによるヨコ社会の構造から見ると、新しい職業であり、拘束力が弱いからだと、加藤先生は言われる。実力主義で優秀なものが集まるわけだ。長いこと、このインドのIT産業におけるジャーティーはどうなっているのだろうという疑問があったのだが、極めてジャーティー感覚が弱いのだということがわかった。ある意味、このインドの社会構造を覆すものとなるかもしれない。

ここまでの内容だけでも十分面白い。「掟社会」の内容が楽しみである。

0 件のコメント:

コメントを投稿