2012年10月16日火曜日

「岩倉使節団」を読む。(仏国編)

Paris 1873
3日連続で「岩倉使節団」の教材メモをエントリーしたい。今日は、フランス編である。久米の『米欧回覧実記』には、ドーバー海峡を渡り、カレーに着いた途端に別世界に入ったと感じたとある。こうも雰囲気が変わるものか、第一に言葉の感じが違う。久米には英人の発音は「沈鬱」に響き、仏人のそれは「激越」に聞こえた。意味がわからないだけに、音感の変化が一層強く感じられたらしい。「食膳の設けもとみに調味を変ず。」ともあり、ワインに始まってカフェに終わる昼食は、トーストと紅茶中心のつつましやかな英国の食事とはおのずから趣を異にしたのだろう。…久米の「漢学者としての表現」がすこぶる面白いと私は思う。

当時のパリは、普仏戦争で敗れ、しかもパリ=コンミューンを制圧した直後である。ドイツに賠償金50億フラン(9億5000万ドル)を課せられていた。使節団はうらぶれて意気消沈したパリを創造していたらしい。ところがパリはクリスマス前ということもあって、華やいでいたのだ。久米は、ロンドンは活力に満ちていたが、こうしてパリに来るとまるで鉄臭煤気の喧騒の工場から緑陰清風の都、雅な離れ座敷へでも出てきたような感じであるとも書いている。どうやらパリの魔力に魅せられたようである。…私はロンドンを知らないので何ともコメントし難いが、たしかにパリには、そういう魅力があると言えなくともない。(私はあまりパリが好きではない。笑)

ところで、この普仏戦争の賠償金は、久米が教えを請うた経済学者ブロック博士によると、次のような話になる。「そもそもドイツ国民は貧乏でフランス人の資金を借りて経済のやりくりをしている。平和の際はフランス人も別に貸金の取り立ても厳しくないが、今回のようなことになって大金がドイツに流入すると、これらの債権の取り立てを厳しくする。さすれば、いったんフランス政府からドイツ政府に金が流れても、結局個人の手で取り戻すことになる。まあ、50億フランといっても7年もあれば全額回収してしまうだろう。」事実、フランス政府がドイツへの賠償金を払うために国債を募ったところ、これがたちまち売り切れた。それは国民がそれだけの財力をもっている証拠であり、国家の信用が高いということでもある。この間フランはほとんど下落せず、ビスマルクやグラッドストーン(英国首相)を悔しがらせたのだという。
…ここで、昨日書いたロンドンの貧民街視察の話が出てくる。使節団は、英国の貧富の差、富の偏在が大きいことにすでに気付いている。

英国人の8割は商工業に従事しており都市中心であるが、フランスの工業は4割程度、農・工・商のバランスが取れている。
フランスの土地は豊かで気候が温暖であること、フランス革命とナポレオン1世によって自作農が多く生まれ、勤労意欲も高く生産性も高いことによってフランスの自作農はまさに小金持ちになっている。この土地資産も含めた農業の強さこそが、フランスの冨の基礎なのである。…久米は、様々な学者から学び、受け売りとはいえ見事な分析をしているわけだ。

さて、フランスで木戸も、ブロック博士に教えを乞う。書生気質で気軽に出かけるところが木戸なのだが、岩倉も自分から行くと言いだした。「文明開化も、独立自由も、よくよく考えてやらぬと大変なことになる。」という木戸の思索に影響されたらしい。木戸は、この頃からかなり慎重な考えに陥っていたようだ。…木戸のこういう姿勢は、帰国後も続くことになる。だから維新の三傑でありながら、大きな仕事ができていないわけだ。

一方、大久保は「先のことは心配してもよくわからないから、当面できることからどんどんやっていくしかない。取り込むだけ取り込み、その弊害が出ても十年か十五年後には必ず人が出てそれを修正し、害を除いてくれるだろう。そう信じてやるしかない。」と腹を決めたようだ。木戸日記によると、両者は、この点でかなりの議論があったようだ。洋行前、開明派だった木戸が保守化し、保守派だった大久保が開明化していくのである。大久保は、それにしても、英米仏は開化すぎて、日本が直接師とするにはちょっと手が届かない。ドイツやロシアあたりが手頃かもしれないという予感をもっていくのである。…英国で自信喪失したリアリストの大蔵卿・大久保が腹を決めたのはフランスでの話なのである。今度は反対に、木戸がかなり神経質になっていく。司馬遼太郎は木戸のこう言う資質を何度も指摘しているが、ここにルーツがあったようだ。なかなか面白い。

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