2021年8月16日月曜日

聖山アトスと黙示録

http://narajin.net/2007/02/post-76.php
「知の旅は終わらない」に、聖山アトスの話が出てくる。ギリシア北部アトス半島にある20の修道院群。ギリシア政府より大幅な自治が認められている世界遺産(1988年認定)である。(立花氏が訪れた1983年にはまだ登録されていない。)ここを訪れるのは容易ではなく、アクセスもさることながら、入国許可・滞在許可を得なければならない。完全に女人禁制で動物も猫(ネズミ駆除のため)以外の雌はご法度である。歌ったり、踊ったり、水にもぐったり、肉食したり、許可なく修道士の写真を撮ること、修道院内部の写真を撮ることも禁じられている。ただし、カトリコン(教会堂)の外側の壁画はOKだそうだ。

立花氏が見たかぎりカトリコンの壁画には、「ヨハネの黙示録」の図が描かれていたという。ヨハネの黙示録には、奇怪な獣が登場する。おそらく13章などに記された獣の図ではないだろうか。この事実を立花氏は『修道院の黙示録信仰の重要性を物語っています。』と書いている。さらに『もし世界の終末も、最後の審判も、死者の復活もないのならば、「私たちは飲み食いしようではないか。明日もわからぬ命なのだから」と、(自暴自棄になり信仰を捨てる可能性が高まる)と聖書にある。(中略)修道院に終末論は不可欠なのです。』と記している。(自暴自棄云々は私の注釈)

…私はブディストなので、キリスト教(というより一神教・三宗教の)の説く、子羊が出てくるとか、7つのラッパが鳴るとかいった黙示録に書かれているような終末を信じてはいない。仏教では、四劫=成住壊空(じょうじゅうえくう)と説く。よって、世界がいつか終わる(壊劫)のは必定だという立場だ。これは現代の天文学による科学的な論証もある。

…修道院を否定するつもりはないが、修道士が「大淫婦の支配する大いなるバビロン」を避けて閉じこもっている事は、決して好ましいとは思えない。禁欲的な彼らの生活はサルトルの言う対自存在であって、その上位にある対他存在たりえない。まあ、彼らからすれば無神論的なサルトルを使って批判しようとも屁でもないだろうが…。果たして、終末があったとして、彼らだけが天国に召されてそれでよしなのだろうか。少なくともバビロンの民を1人でも救うという選択肢はないのだろうか。イエスの説く神の愛とはそのような上座的・独善的なものなのだろうか。

…ブディストである私が、またまた語りえぬこと、沈黙すべきことを破っているような気がするが、この天災の多い今現在(洪水や山火事や異常気象が地球を覆い、地震がハイチをはじめ各地で起こっている)、そんなことを想うわけである。

せめて、ハイチの人々のために祈ってやってくれ。彼らは正教徒ではないが、同じクリスチャンも多いはずだ、と思う次第。

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