2020年6月22日月曜日

「哲学と宗教全史」備忘録2

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久しぶりに「哲学と宗教全史」について書こうかと思う。塾でランチを取りながら少しづつ詠み進めている。

アレクサンドロスの死後、シリアからイラン、さらにインド西北地方(現パキスタン)へとギリシア人の王朝は続いていく。インド・グリーク朝の第8代の王がミリンダである。このミリンダ王が仏教僧ナーガゼーナと対話している。(ミリンダ王の問い)著者は、コイネー語(口語ギリシア語)で対話したのか興味があるところだと書いているが、おそらくギリシア哲学の素養があったミリンダ王は、これらの対話を通じて仏教徒になったという。西洋の主導性ばかりが強調されているが、東西の高度な文化・文明が融合したグローバリゼーションの好例ではないかという主張には、私も同感である。

イスラム教の箇所で、印象に残ったのは、ムハンマドは商人であり、イエスのような殉教や、ブッダのような出家者(世捨て人)ではいという視点である。多くの人が受け入れがたい極端な思想や攻撃的な行動を協議とすることはなかった。し、六信五行もそれほどの無理はなく、それなりに合理的である。東南アジアで布教が進んだのも、商人の宗教であったからではないかという推論はかなり整合性があると私は思う。

シーア派の話の中で、アリーはムハンマドの娘ファーティマと結婚し、その次男フサインの妻の1人はササン朝ペルシャの王女で、その子供たちはイスラム創始者の地とササン朝ペルシャの桜桃を継ぐ存在で、カルバラーの戦い(アシューラーが行われる元になった戦い)で、フサインは殉死したが、幼かった子供たちは残った。彼らがペルシャのイスラム教徒にとって、誇りとすべき子供達で、彼らが十二イマーム派のイマームとなっていく。

イブン・スィーナーはイスラム神学のそのような人で、プラトンやアリストテレスを読破し、無から有は生じない、だが、アッラーからすべてが流れ出たと考えた。神学と哲学を融合させたイスラム神学は精緻な論理となった。また、イブン・スィーナーは空中浮遊人間説という思想を提示した。空気も存在せず、光もない真っ暗な世界に人間が一人浮かんでいたと仮定し、彼は何も感じることはなく、意識することもない。ただ、ここに浮遊している自分が存在しているということだけは意識する。そう、近代哲学のデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という第一証明の萌芽がすでにここにある。これは、ちょっと感動的ですらある。

まだまだあるのだが、今日はここまでにしたいと思う。

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