2018年10月21日日曜日

在馬インド人の視点を探る 4

KLのインド人街にて
『多民族国家マレーシアの国民統合-インド人の周辺化問題』のエントリーを続けたい。第3章は、独立後のラーマン初代首相の時代の12年間のインド人社会についてである。
ラーマン首相は、マレー・中華・インドの3民族の融和を進めるわけだが、それは、話合いで独立を勝ち取る上でのイギリスからの条件でもあった。「独立の希望を抱くのならば、3つの主要なコミュニティが互いの相違を解決した後」との声明である。
この状況下で、インド系の政党・MICは、人口比以上の優遇を受けることになる。ラーマン首相は、個人的な信頼関係を築き、3民族の融和を図りながら、建国初期の困難を乗り越えていく。
ところで、政治的視点から見ると、多数派であったマレー系にとって最も脅威だったのは当然ながら経済力があり、しかも人口が多い中華系勢力であった。それに対しインド系人口は少なく政治的にも微力故に、両者の調整役が求められたわけだ。

しかしながら、MICとインド人社会には、大きな問題が内在していた。MICの最大の支持基盤は、タミル系のプランテーション労働者であり、北インド系の都市居住者にとっての利益代表ではなかったことである。したがって、その不満は、同じくラーマン政権にあるMCAに不満を抱く中華系の人々と結びつくことになる。野党の政党は、主としてこういった中華系・北インド系の人々が支持する構図になっていく。本書では、その経緯や選挙での得票数が詳細に記載され分析されている。

1969年5月10日の総選挙は、与党連合党(マレー系UMNO・中華系MCA・インド系MIC)の大幅な議席減となった。野党との対比で前回89対15だったのが、この選挙では66対37。得票率は48.5%対51.5%と逆転した。(マレーシアは小選挙区制なので死票が多い。)そう、この結果が、多民族国家マレーシアを大きく揺さぶる5.13事件を引き起こすことになる。

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