2018年10月20日土曜日

在馬インド人の視点を探る 3

https://www.beritadaily.com/mic-agm-to-discuss-ge-14-preparation/
朝7:00からタマンデサの病院に行ってきた。2週間前の血液検査の結果をもとに診察を受ける約束をインド人ドクターとしていたのだ。何故7:00かというと、EJU直前土曜日補習が10:30からあるためである。診察を受けて、薬を貰って、PBTで一仕事していたら突然停電になった。結局、その後の補習は中止になって、帰ってきた次第である。なんか不思議な気分である。(笑)

とはいえ、バスも含めて、待ち時間の間に『多民族国家マレーシアの国民統合-インド人の周辺化問題』をだいぶ読み進めることが出来た。さっそく第2章のインド人社会の結合課程について概略をエントリーしたい。

第1章で、マレーシアのインド人社会の成立を見てきた。大多数のタミル人を中心とした南インド系労働者と、少数ながら力を持つインド本国の国民会議に繋がる北インド系エリートが、マラヤに存在していたわけだが、WWⅡ後からマラヤ独立までは複雑な展開を見せる。1947年にインドは独立を果たす。ネル-が1946年にマラヤに来て、『インドに帰りたいのなら帰りなさい。残りたいなら残りなさい。必ず一方に決めなさい。残るのなら政府に従いなさい』とマラッカで述べたそうだ。やがて、MIC(マレーシア・インド人会議)は、国民議会からの自立を求められ、インド独立ではなくマラヤの独立へと向かうことになる。おりしも、周恩来と共に第三世界・非同盟主義の外交政策の流れの中にあったわけだ。とはいえ、政治的にインド系の人々が結集するには、様々な問題があった。言語(ヒンディー語?タミル語?)、宗教(ヒンドゥー教?イスラム教?)、階層、そして人口比…。さらにマレー系、中華系との関係…。

MICの歴代総裁の変化が面白い。初代はマラヤ出身のエリートで、反英のインド独立連盟の指導者の1人、ネルーと国民会議派の信奉者でキリスト教徒。第2代は、同じくネルーと国民会議派の信奉者で反英感情の強いシーク教徒。第3代はマレー系・中華系との協力体制を提唱したパンジャブ人のヒンドゥー教徒。第4代は、パンジャブ出身で、マレー系のUMNO、中華系のMCAとの連合加盟を推進したが、タミル人と対立、再選を阻止された。第5代はタミル・ヒンドゥー教徒。すなわち、多数派のタミル人の総裁である。若い頃ネルーの薫陶を受けた人物で、マレーシア独立後の内閣では、労働、郵政・通信、公共事業、保険大臣を歴任した。

この総裁の移り変わりが、およそのインド系の政治的変化を表している。国民会議派の影響下にありインド独立が中心課題だった時代から、マレーシア独立へ。マレー系、中華系と紆余曲折を経ながら連合し、北インド系からタミルなど南インド系へと、中心軸が移っていくわけだ。

この本の話を、ドクターにしていて、ドクターもタミル人であることを知った。私がそういうことを調べていることに、ドクターは満面の笑みを見せたのだった。

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