2016年11月15日火曜日

大森実「スターリン」再読(2)

旧レニングラード(現ヴォルゴグラード)
http://www.russian.language.ru/about/locations_facilities/volgograd/
大森実の人物現代史3「スターリン」は、やはり詳しすぎるほど詳しい。ロシア革命についても、世界史や総合科目で講じるのだけれど、そんなに詳しくは講じることは時間的にも不可能である。特にレーニンからスターリンへと権力委譲し、トロツキーが追い出されてしまうことは語っても、両者の力関係の推移などは語ることがない。当然、30年来の再読なので、一度読んでいるとはいえ、新たな発見があった。いくつか備忘録的にエントリーしておこうと思う。

トロツキーは、そもそもマルキストの間では超有名な人物でレーニンもそれを認めている。赤軍の創始者だし、外務人民委員(「私はユダヤ人だから。」と内務人民委員就任を固辞した。)としてNo2の位置を占めていた。一方、スターリンは、革命直後は15番目の男で民族人民委員。グルジア人だから適材適所ではるけれども、そもそもそんな役所はなかったので、他から資金や机・イスもやりくりしたらしい。

そんなスターリンが、力を得るきっかけは、WWⅠでの対ドイツ降伏後始まった内戦である。ボルシェビキ政権に対して、皇帝派の白軍とドン・コサック、ムンマルスクに攻め入ったイギリス、オデッサに攻め入ったフランス、そして同じマルキストの社会革命党左派といった敵が、レーニンの政権を潰しに襲いかかってくる。

内戦最初の危機は、コーカサスの交通の要所ツァリツィンがドン・コサックを包囲したことだ。ここの北部は食糧が豊富で、反対にここを抑えられるとモスクワは危機に陥る。そこで、ここを守る赤軍の支援にスターリンが向かい、奪還する。ツァリツィンで、スターリンに助けられた赤軍の政治員(スターリンの同郷人でもある)オルジョニキーゼ、軍師団長ヴォロシロフはその後スターリンの股肱の臣となる。後に、ツァリツィンは「レニングラード」と改名される。これは、当然スターリンの功名の表れである。WWⅡで他の戦局を度外視してまで死守した理由もここにあるようだ。

トロツキーも、この内戦では、カザン奪還で大活躍する。装甲列車作戦と、前線の赤軍の逃亡阻止のための12人組作戦。逃亡者が出たら、12人のうち1人を即時射殺させたという。射殺隊はトロツキーによって編成された中国人だけで編成された督戦隊が使われた。モスクワに創設された、孫逸仙大学(劉少奇も1920年代に留学)もあったり、フランスには1000名もの中国人社会主義者がいたらしい。かなりの数の若い中国人がトロツキー陣営に参加していたと見てよい、と大森実は言っている。この勝利の後、ドイツで革命が起こり、前述の英仏の内戦介入が始まる。この内戦が終わった直後、レーニンが死ぬわけだ。

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