2011年6月2日木曜日

ダリの気分で『虫眼とアニ眼』

ダリ / ポルト・リガトの聖母
私は、月初め、サルバドール・ダリの気分である。昔々高校生の頃、デザインの先生からダリの精神的気質について、講義を受けた記憶がある。ダリの後期の作品は特にこれでもか、これでもかと様々なオブジェが描かれ、空間を残さない。まるで空白恐怖症のような感じをうける。これを”パラノイア”と言うのだと。私も月初めになると、このブログのアーカイブがリセットされ、それまで書いていたタイトルが消えてしまうことに不安を覚えるのである。で、月初めには少しでも多くアーカイブを増やそうと、エントリーしてしまうのである。今日は2日だが、このエントリーで4つアーカイブが記入されることになる。(笑)但し、無理して粗製濫造するつもりはない。本日2つ目のエントリーは、養老孟司と宮崎駿の対談集、『虫眼とアニ眼』(新潮文庫)についてである。遠足の帰りに阿倍野の本屋で買って読んだ。平成20年2月1日発行だから、だいぶ前の本である。薄い。が、中身はなかなか濃い本だった。

このお二人は、私たちの上の世代である団塊の世代のさらに上である。そういう大先輩の気取らない対談集である。印象に残った部分は多々あるのだが、主に「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」をベースに対談されているところにしぼって書き残しておきたい。

「もののけ姫」について、宮崎駿は、サン=もののけ姫の人間に対する憎悪とか不信感を果たして解放できるかどうかが課題だったと述べる。周りをみると、みんな「人間嫌い」になってると感じた。悪い人間をやっつけてせいせいするような映画にはしなかった、エンタテイメントの逆をいかざるを得なかったと述べている。
-なぜ人間嫌いになってしまったのか。二人の対談は、虫や鳥や植物といった自然が破壊され、あまった「感性」が人間に向いているからだという方向に行く。養老孟司が言う。平たく言えば、感性とは「なんかほかと違うぞ」って変化がわかることと言っていいんじゃないか。現代の人間、特に子供は人間関係の中にそれを見ているのではないか。また、こんな発言もある。画一的な教育の対極として、個性尊重って言うけれど、尊重するほどの個性なんてまだ養われてないでしょう。ところが学校も親も都合のいいところで手を打って、それを個性という名で呼ぶもんだから、個性の中身がどんどんつまらなくなってしまった。(宮崎)イジメが深刻になっちゃう根本には、人間ごとにしか関心が向かない狭い世界があって、昔からあったことが、実は拡大されてしまった。いや、拡大というか、世界が狭くなったぶんだけ、拡大されて見えるんです。(養老)
うーん。示唆に富む発言である。

「千と千尋の神隠し」について、養老が電車のシーンが最も印象に残ったと述べると、宮崎はあれが映画の「山場」になったと答える。電車に乗って行くだけで、映画を終わらせれたことにホッとした。カオナシが巨大化して暴れて湯屋をグチャグチャに壊して、お父さんとお母さんの豚小屋に迫って食おうとした時に、ハクにのった少女が駆けつけて何かしたとか、そういう話にしなくて済んだ。それは第一に思いつく方法ですから。大体エンタテイメントはそういうものになっている。養老は、そこに宮崎の気品を感じる、抑制を感じるとし、宮崎の作品を日本的なる文化から読み解く。日本語は、仮名だけで50音、その上に漢字が常用でも2000、英語なら26文字、どちらの世界が複雑か、すぐにわかるであろうと述べる。物理や化学の世界では、世界は100あまりの原子でできているとする。こういう考えは、日本人の直感にはほど遠いものがある。放っておけば、つまりアルファベット圏の影響がなければ、日本人はまず原子論を立てないであろう。全世界がまさか有限の記号で書けるとは信じていないからである。アルファベットを使っていれば、そう思っても当たり前なのに。文化の違いとは、これほど根源的なのである。
…うーん。なるほど。宮崎アニ眼は、極めて日本的な複雑な眼から生まれたものだというわけだ。さすが、虫眼の養老孟司である。

0 件のコメント:

コメントを投稿