2011年6月4日土曜日

大阪府内に勤務する教師として

条例を可決した大阪府議会
先日、大阪府議会で知事の私党と思える大阪維新の会が、他党の反対を押し切って、卒業式・入学式での君が代斉唱と起立を条例化したこと、さらに懲戒免職を含むと言われている罰則規定も制定する予定であることに対して、私の個人的見解を書いておきたい。何度か書いているように、私はこの知事の教育政策を支持している府内の教育関係者を一人も知らない。(今回の件では大阪府の教育長まで反論した。)

まず最初に、私の「君が代」や「日の丸」に対する立場を明確にしておく。私は、国歌斉唱という指示に必ず起立してきた。理由は、日本の国歌であろうと中国の国歌であろうと、アメリカの国歌であろうと、それが常識ある地球市民としての礼儀だと思うからである。生徒に起立を指示・指導する立場でもあるから抵抗はない。ただし君が代を歌うか否かについては、生徒には自由にさせている。在日外国人の生徒や宗教上の理由から歌わない生徒もいる。それについては思想信条、ならびに信教の自由を侵すことはできないと信じている。私自身は、歌っても大きな声ではっきりとは歌わない事が多い。個人的には昭和天皇は凄いヒトだと思うし、今上天皇の「私」のない姿勢に非常に好感をもってている。日本の歴史において天皇制が果たしてきた役割も理解しているつもりだ。ただ、その判断(メリット・デメリット)は、生徒自身がするべきもので、強制するべきものではないと考えている。

今回の府議会の条例制定(来るべき罰則規定の制定も含めて)は、必要ではないと考えている。その論点は4点ある。
1点目は、知事が、教育現場の官僚主義化を進めていることが間違いであることである。本日付毎日新聞によると、知事は「校長の職務命令に教員が従うという当たり前のことをやっていかなくてはならない。これまで教育は自由業的な個人商店的な役割だったが、学校組織としてみるいう第一歩が踏み出せた。」と述べている。
学校は、役所や企業ではない。相手にしているのは児童・生徒なのである。その成果はすぐに出ないことも多い。また数値などには表せないことも多い。組織的な効率だけで判断・評価できるものではない。知事はそういう形而上の問題を無視している。
校長の職務命令云々とあるが、これにも反論したい。幸いにも私は人格的に尊敬できる管理職(校長・教頭)のもとで長く仕事をしてきた。しかし他の先生方から聞くと、どこかの総理のようように何の展望も指針もなく、「私」の保身のみに執着する管理職も多い。生徒のことより、「私」が大事な管理職は、当然人望もない。学校の世界は、善意の世界である。教員は基本的に善意で動いている。その善意という形而上の世界に、官僚主義的・組織的な形而下の職務命令が下るのは、ふさわしくない。人望のある管理職なら、「職務命令」などという伝家の宝刀を抜かない。それが、善意の形而上の教員の世界なのである。管理職が、「公」の善意で学校をこうしたい、ああしたいと指示すれば、教員は自ずと動く。そういう世界なのである。知事は、教育の世界こそ、善意の人が動かし、人をつくるという、役所や企業とは違う集団であることを認識すべきである。

第2点は、そういう善意の通じない教師についての論点ある。すなわち悪い教師の規定とその対応についてである。私は教育現場は様々な個性のある人間がいていい、と思っている。父親的な人、母親的な人、クラブに頑張る人、進学実績にこだわる人。児童・生徒はそういう様々な価値観をもつ人の集団の中でこそ、うまく育つと思う。ただ、生徒を愛せない、やる気のない人は困る。協調性や社会常識のない人も困る。こういう人々がいない、とは私は思わない。たしかに存在する。これをなんとかするのが管理職の大きな役目である。そのための権限に関しては必要だと思う。ならば、やる気のある有能な校長を育て、長期にわたって学校をまかせ、大きな権限をもたせるべきである知事は、国歌斉唱時に起立しない教師を、悪い教師だと決めつけているようだが、それは私の経験から普遍的な事実ではないと言える。担任として、衆目の集まる場所で起立した際、同僚の教師が立たなかったことが何度かある。だが、その先生がどんなに生徒を愛し、苦労し、今日を迎えたかを知っている私は、そんな短時間の出来事で、その先生の3年間を評価して欲しくない。私は、組合に入っていないし、起立しなかった先生方とは、生徒のことで熱く議論することはあっても、そういう政治的な話はしない。それが、善意の組織の仁義なのである。本当に良い学校組織をつくるつもりなら、「人間という視点から」そういう風に改革すべきである。

第3点は、組合のマイノリティ化が進んでいること、その組合のドグマ性と今回の維新の会のドグマ性は、そう変わらないということだ。幸いにも、そういう起立しなかった先生方はすでに多くがリタイアされている。知事はその多さを指摘するが、組合の組織率は低下の一途をたどっている。昔は組合が強かった。私も嫌な目にあったこともある。組合のドグマチックな姿勢は私の嗜好と相容れないので、抜けさせてもらった。残っている先生方であまりドグマチックな人を私は知らない。近代国家における学校教育の隠れた目標は、国民国家とすること、すなわち国民皆兵を実現するためのであったと歴史は教えている。(日本では山縣有朋によって牽引されてきた。)戦後失われた日本の誇りと愛国心を取り戻すため国旗・国歌法案が可決したのも理解できる。教育が立たされている位置は、そういうものだという合理性を私は認識している。同時に、このことが国民皆兵に道を開くものだ、という組合の考えは、ドグマだと私は思う。
公務員として法に従うのは当然だということも理解できる。しかし、同時に憲法には、思想・心情の自由があり、表現の自由が保障されている。起立しないことが公共の福祉から制限されるのだという議論も成り立つかもしれない。とはいえ、条例として成立させ、「職務命令違反」ゆえに「懲戒免職」などという罰則を決めなければならないことなのだろうか。組合のドグマも嫌いだが、起立や斉唱を強制し、罰則を設けることこそドグマだと感じる。

第4点。今回の件は、知事の人気取り・話題性のためのパフォーマンであるという疑念が払拭できないこと。大阪市の平松市長は、「あえて条例化する必要のないものを、数の力でできるんだというパフォーマンスにつなげている。」(同日毎日新聞)と批判した。私も全く同感である。知事の短慮で、「私」な、単純な心意気は害である。

ちなみに私は大阪市の教員である。大阪市でよかった。面白いYAHOO知恵袋:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1362855218

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