2011年5月17日火曜日

昭和天皇 第二部 読後メモ

昭和天皇第二部をやっとこさ読み終えた。本来なら三日もあれば読めるのだが、通勤時間の短縮だけでなく、内容も第一部同様、興味深く大事に大事に読んだ故だろうか。第二部は、皇太子時代の欧州訪問の内容が半分、その後が半分といったところだろうか。大局的な読み方はひとまず置いて、印象に残った部分のメモを記しておきたい。

スエズの手前で、供奉(ぐぶ)艦「鹿島」のボイラーが爆発し、三人の機関兵が死亡した。御召艦「香取」でも4日後ボイラーが爆発、二名の機関兵が死亡した。数日後、皇太子(昭和天皇)は、兵員用の作業服を着て、機関室を見学している。私には、かなり意外な事実であった。

スエズ運河は、エジプト太守が破産し、運河の株を手放す羽目になった時、レセップスの故国フランスの金融不況のスキをついて、ディズレーリ英首相が機敏に動いて即金で手に入れてしまう。この裏には、ロスチャイルド(ユダヤ資本の大御所である。)男爵がいた。ディズレーリーの秘書が、ロスチャイルド男爵邸に駆けつけた。食事が終わったところだったらしい。「首相は、400万ポンド欲しいのです。」「いつかね。」「明日。」男爵はつまらなそうにマスカットを一粒口に入れ「担保は何かね?」「イギリス政府。」「承知した。」というやりとりだったらしい。コミッションは2.5%、10万ポンドだったという。

オックスフォードでのやりとり。「あの村は、グレイが言及している村ですか」と皇太子が尋ねる。ー皇太子は、詩人トーマス・グレイの『エレジー』のことを語っているのだ。皇太子が社会的知識だけでなく、かなりの教養を備えていることをリッデル(英海軍の接待役)は認めざるを得なかった。また、皇太子は、英語より、フランス語の方が流暢だったらしい。(当時の慣習とはいえ、かっこいい。笑)

当時の日本とヨーロッパの航空技術の差ははなはだしかった。ケンレー空軍基地にて、ヨーク王子が乗ってみませんかと皇太子に声をかける。侍医たちが喜んで代わりに乗ったが、軍の関係者はその宙返りやキリモミ降下などに大きなショックを受けていた。その後30人の英軍パイロットが招聘され、厳しい訓練を施すことになる。その中心者セルビル大佐のコトバが凄い。「日本では男で肝っ玉の小さいことを、男子の大切なモノを落として来たというそうだ。日本の海軍士官の中には、初めからそれを持ち合わせてない者があって心配したが、近頃はどうやら土浦辺りで拾って来たようだ。」…強烈である。

スコットランドの田舎でアンソール公の屋敷で世話になる。最後の夜、領民たちがやってきて、アンソール公(彼は勲章をいっぱいつけていた正装だった)と踊る姿に感激する。公爵夫人もドレスのまま、百姓爺を腕を組んで踊っている。皇太子も領民の女房と手を組んで踊ったという。連なって肩を組み、スコットランドの離別の歌を歌ったそうである。

エッフエル塔で、土産物屋の間に立った皇太子は、「良子さん(後の皇后)に買っておいて」と木製のエッフエル塔の模型を指さして頼んだという。弟たちや侍従の誰それにと、かなりの数の絵はがきを選んだという。面白いのは侍従たちが現金を持ち合わせておらず、新聞記者に借りたという事実だ。

バチカンにも皇太子は足を運んでいる。意外な気がするが、熱心なカトリックの武官の存在と、当時カリフォルニアでの日本移民排斥法との関わりなどが関連していた。昭和天皇は、後にバチカンとの外交を重視する。戦争を始めるとき、戦争の収拾役としてバチカンというチャンネルを昭和天皇は考えていたようである。このあたり、ただの「あっそう。」と言って帽子を挙げていたオジイサンという昭和天皇の印象は間違っている。

うーん。今回も、とても後半までいかない。とりあえず長くなったので…。

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