2011年5月7日土曜日

梅棹忠夫「裏返しの自伝」

ウメサオタダオ展で1冊だけ文庫本を購入した。「裏返しの自伝」という本である。梅棹先生の自伝なのだが、構成がおもしろい。梅棹先生がなれそうでなれなかったJOBを6つ挙げ、…というわけで…にはなれなかった、と記してある。先日も述べたが、通勤時間の短縮化によって、読書スピードが落ちている。とりあず6つのうち半分読んだので、その時点での私の感想を書いておきたい。
梅棹先生は、文化人類学者として大成された方だから、大いに研究生活の人生に満足されていたのだろうと思ったが、なんのなんの、もの凄いエネルギーと極めて多彩なベクトルをお持ちだったのだ。

とりあえず、梅棹先生がなりたっかたと記されているJOBを記しておきたい。大工・極地探検家・芸術家・映画製作者・スポーツマン・プレイボーイの6つである。このうち、読んだのは前者の3つだが、特に、極地探検家と芸術家の章が私には面白かった。

梅棹先生は、戦前から南極探検に深い思い入れをもっておられたようだ。この章では、そういう冒険に関する様々な人物が登場する。本多勝一氏もそのひとりである。なるほど、カナダエスキモー、ニューギニア高地人、アラビアの遊牧民と、文化人類学的な著作は、梅棹先生のバックアップのもとに書かれていたのだった。また有名な昭和基地に取り残されたタロ・ジロの話も出てくる。梅棹先生の人脈の広さと強さに驚愕する。イヌといえば、日本で最も早く犬ぞりの論文を書かれたのが梅棹先生であったことも興味深い。樺太で行われたフィールドワークは実際はかなり大変であったというのも面白く読んだ。

ウメサオタダオ展にて (かなり拡大して見れます)
芸術家については、基本的に美術の話である。先生は子供の頃から画才があったようだ。みんぱくでのスケッチも素晴らしいものだった。三高の理系でのデッサンや図学、京大理学部での分類学実習などで、鍛えられたものだと思うが、先生は絵を描くこと自体がお好きだったようだ。だから、退官したら、油絵を描きたいと思っておられたのだが、残念なことに目を患うことになり、その夢は果たせなかったのである。
しかし、民族学博物館自体が自分の芸術だったという満足感をお持ちなのが、私には嬉しい。大阪の誇りである。もちろん多くの著名な画家やデザイナー、建築家などとの合作であるが、美への熱い想いがある館長が毅然と存在したが故のことだと私も思う。
もうひとつ、面白い記述があった。先生の息子さんは、陶芸家となられているのだという。少し引用してみたい。
『彼はいっこうに売れない陶芸作家であり、経済的にはパッとしない。個展をひらくたびに、父親のほうはその何点かを買い上げさせられるばかりであるが、わたしはそれでよかったと思っている。自分の好きな道で生きてゆけるのだから、しあわせというほかない。私自身も、たしかに自分の好きな道を生きてきたのだから文句はないが、私にはもうひとつの好きな道もあったのである。そちらのほうが充足されないままに、年をとってしまった。その芸術家への道は、マヤオが実現してくれたものと思って喜ぶべきであろうか。』

…この梅棹先生の気持ち、まことに僭越ではあるが、私にも思い当たる。息子が、バックパッカーとなり世界を旅し、私の興味あるところの学問をしていることに、同様のコトバを記すべき時がくるのであろうかと思った次第。

2 件のコメント:

  1. 私の大学時代の恩師は、万博跡地の利用方法を決める際に、梅棹先生の民博案と最後まで争った案(世界の学術情報集積センター)を提案した方でした。

    ですから、梅棹先生の話題が出ると、その先生を思い出してしまいます。当時、科技庁関連団体で官僚をしていた先生ですが、独文科出身なのに数学にめっぽう強く、民俗学/民族学にも高い関心を持たれていました。

    はねっ返りを絵にかいたような人で、一面、カミソリのような人でもありました。職場で会わなくてよかった(笑)と思ったものです。

    でも、この時代の人って、人間的に魅力的な人が多いですよね。

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  2. 非常勤講師さん、コメントありがとうございます。腰痛のほうはいかがでしょうか。私も、梅棹先生の本を読んで私の父親の世代の魅力みたいなものを感じました。能力も高いし、スケールが大きいし、人間として面白いですねえ。
    社会的な『制約』も、あまり無かったような気がします。学校でも同様で、若い人は、なんか周囲を見回しながら仕事をしているようでかわいそうです。もちろん常識は必要ですが、『俺は俺だ』みたいな部分が失われつつあります。
    私は、梅棹先生の世代と今の優等生的な若い世代の中間で、適当に自我を押し殺したり、引けないところは、突っ込んだりしています。(笑)

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