2011年5月1日日曜日

民博 ウメサオタダオ展に行く

久しぶりに民博(みんぱく・国立民族学博物館)に行ってきた。私は、大阪在住であることで得をしているな、と思うことが2つだけある。1つは食いだおれの街であること。もう1つは民博が大阪にあることだ。この博物館は、それくらい好きだし、日本の博物館の中でも有数のものだと誇りに思っている。その初代館長・梅棹忠夫先生の特別展が開かれていたので、妻と行ってきた。
http://www.minpaku.ac.jp/special/umesao/
昨年亡くなられた梅棹先生の貴重な資料が展示されていた。浅学の私などにとっては「文明の生態史観」の著者として強いインパクトを受けたくらいで、詳しいことはそんなに知っていたわけではない。
入館して、梅棹先生のコメントが様々なカタチで示されていた。一言ひと言が凄いのである。
妻が、「お父さんへのコメントがあるで」と上を指さした。うーん。と唸るのである。『国際文化交流とは、安全保障の不可欠の一部であるというわけです。』まさに、その通りである。梅棹先生は古くからの『地球市民』の草分け的存在であられたようだ。

様々なカード、こざね(メモをホッチキスで繋いだ構想のまとめ)、スケッチ…直筆のものを見ていると凄い人だったのだと改めて思うのである。昔は、コンピュータなどというものはなかったわけで、カードに、様々なメモを書き、検索しやすく分類ししておられたことがよくわかる。そういえば、私が教師になった頃(昭和55年頃)、こういうカードを使って教材研究をしようとしていた。性格的に根気がなかったので諦めた。コンピュータを始めて手に入れた頃も、マックのハイパーカードやウィンドウズのTHE CORDsというようなソフトを使おうとして挫折したことを思い出す。梅棹先生は、凄いコメントを残しておられる。『カードはコンピュータに似ている。…どちらも知的生産の道具としては、いわば「忘却の装置」である。』私は心の中で、思わず手を打ってしまった。

2階には、詳細な梅棹先生の軌跡が展示されていた。梅棹先生が三高時代、山に入れ込みすぎて3回も落第していることを知った。京大に入り、動物学をやり、海外調査を盛んにされている頃は、かなりやばい時代で、結局徴兵されるのだが、大学院からの要望で、優秀な研究者ゆえに大学院に戻された。落第するくらい山に入れ込み体力を培ったおかげで海外調査を実りあるものと出来たおかげ、あるいは3年遅れという年齢的なものもあったのかもしれない。幸運な歩みである。

さらに素晴らしい実績を積まれていくのだが、ある日急に両目の視力を失われる。しかしながら、口述筆記などで、さらに研究を進めて行かれている。不屈の研究者であられたわけだ。感動した。

ウメサオタダオ展。地味な展示だが、強烈なインパクトがある。超オススメである。

6 件のコメント:

  1. 中村です。2011年5月1日 20:28

    ここ、遠足でいきましたよね!!
    懐かしいです!!
    たしか、民博の学芸員の方に、視覚障害を持っている方がいて、その人が視覚障害を持つ人がプレーする「ブラインドサッカー」を日本に持ち込んだ方がいらしてたと思います。

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  2. 中村君、コメントありがとう。そういえば生野工業高校の時もみんぱくへ行ったねえ。

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  3. M高校第61期のU田です。わかりますか?
    偶然にもこの次の日に民博へ行き、東南アジアブースとウメサオタダオ展見てきました!!
    論文の情報整理の参考にもとてもオススメですね。

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  4. 東南アジアブース?ミャンマー?阪大のうっちゃんかな?間違ってたらゴメン。論文の情報整理術、凄いよね。

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  5. 当たりです!
    ビルマ語の内田です。これからもちょくちょく覗きに来ます。ではでは。

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  6. うっちゃん、コメントまた書いてなあ。(笑)

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