2010年11月18日木曜日

ジャパニーズ・スタンダード


Let's forgive and forget.
  今年のMW校留学生は、明るく楽しい連中である。2時間目に日本文化論の初授業を行った。日本文化の多層性について説明した後、(こういうとカッコ良いが、サバイバル・イングリッシュとボディランゲージで教えるのである。)最下層に位置する日本の伝統的思考について、稲作による集団主義と、古事記や日本書紀をもとに、八百万の神をいただく多神教世界を概説した。(こう言うとカッコいいが、同上。)結局、結論は、『水に流す』というケガレとミソギの話になった。「日本人は、すぐ忘れる。と、言うより水に流すのである。」「?」「もしJ君とホストが喧嘩しても、きっとホストは、嫌なことは忘れようと努力する。J君にはケガレがインサイドしていた。きっと今は大丈夫だと考え、2,3日したら仲直りできるよ。」「?」「祓ったんだ。ほら…」と神主のお祓いの真似をする。「えーと、ホワイト・ペーパー。」すると、C君が「I see!」「ヨコズナ!」「そうそう。」と言う感じで、まるで吉本新喜劇である。ふー。かなり体力を消耗した。(笑)多くの日本人は、この『水に流す』という概念をグローバル・スタンダード(世界標準)だと思っている。だから、韓国や中国が、過去の戦争の話を持ち出すとしつこいと感じるのである。これは完全にジャパニーズ・スタンダードである。


Jean-Paul Charles Aymard Sartre
  さて、5限目の日本史Bで、「えーと、今日はどこからだったかなあ。」と相変わらずの気合いの入らない始まり方をすると、生徒諸君が声をそろえた。「サルトルの”人間は自由の刑に処せられている”からです。」…おお、忘れていた。自由民権運動の話から、脱線したままであった。実存は本質に先立つことの説明をして、サルトルはだからこそ、人間は自由に生きるしかないと言う。「自由の刑」という表現について具体的に話した。おお、調子が出てきた。ここで、8月7日付ブログで紹介したマグナム44と抵抗権の話に突入した。アメリカ人は自由を守る為に銃を持つという、勝ち取った自由の話である。ところが、日本の自由はどうか。GHQによって天から降ってきた自由なのである。欧米人が勝ちとった自由には、個人として自立し、責任を負うという裏付けがある。しかし日本人には、その自覚が全くない。これまでの経験を元に、自由であることは、個人として責任を負うことであることを熱く語ってしまった。先年、本校で3年担任の時、クラスの生徒の超重要書類である進学の調査書にミスをしてしまった話をした。私は、正直に生徒にその旨を伝え、結局2日ほど夜遅くまで残り、60通あまりを作り直し、自腹を切って各大学に送った話もした。自由に生きると言う事は、自分の責任を全うする尊厳な世界である。自らの責任をどこかに置き忘れて、権利ばかりを主張する日本人の自由は、自由ではない。単なる未熟な甘えでしかない。日本の自由は、これまたグローバル・スタンダードではなく、ジャパニーズ・スタンダードにすぎないのである。

 奇しくも、ジャパニーズ・スタンダードについて熱く語った1日であった。

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