2010年11月8日月曜日

ジンバブエ・ハラレの公園にて

 今日の現代社会・アフリカ開発経済学の授業で、バズ・セッション形式でワークショップをした。お題は、私のジンバブエでの経験である。<今日の画像はハラレの街角>
 首都ハラレの公園。私はベンチに座り、煙草をふかしていた。そこに、小学1年生と4才くらいの兄・妹がやってきた。周りには人影も少ない。彼らは黙って私に手を差し出した。まあ、子どもの乞食といっていい。身なりはそれほど汚れていない。私は、ポケットにあった飴を手のひらに置いた。子供は、ニコッと笑って自分のポケットに入れてから、もう一度手を出した。お金が欲しいわけだ。さて、皆ならどうするか?という問いかけである。6人グループでワイワイと討論していた。なかなか盛り上がる。さすが3年である。男子のいるA組は特にノリが良い。順番に結論と、その理由を発表してもらう。
 素直にあげると言ったグループが、2/6。他は、たとえばゴミを捨ててきてもらって、その対価としてお金をあげる。など、素直には渡せないとしたグループが3/6。残りの1グループは面白い答えであった。その手を握って愛を送るというものである。なんじゃそれ?
 当然、正解などない。ただ私は、その時、お金をいくばくか渡した。親が陰でいることはわかっている。だが、こんなかわいい子どもたちだ。あげていい。別にあげたからといって、インドのように膨大な数のバクシーシが集まってくるわけでもないのだから。これは、彼らのインフォーマルセクターなのである。生徒は、純粋に金をいうものは、労働の対価である、と考えている。金をめぐむのは親も子供も堕落していくのではないか、という危惧を表明した班もある。想定内の回答だ。ただ、私は、そういう考えを否定はしないが、先進国の勤勉を普遍的に捉えている奢りだと感じている。彼らに仕事はないのだ。だから、こうして食いつないでいるのだ。富める者が貧しい者に施すのは当然であるし、貧しい者が富める者にたかるのも当然である。これが途上国のスタンダードである。私は、貧乏バックパッカーだったが、彼らにとっては大金持ちである。だから、子供のかわいさにお金をあげて当然だ、と私は思う。日本的な常識はアフリカでは、高慢である。
 情の経済を説き、ハクナマタタやポレポレを語り、今日は終わった。気がつくと、Yシャツだけになり、腕まくりをし、汗までかいていた。、いつも、「7時限目だしまあ、今日も適当に頑張ろう。ジャンボ!ハバリ?」で始まる。みんなダラーと「ジャンボ!ムズリ!」と答えて始まるのだが、結局のところ、毎回気合いが入ってしまうのであった。…変な授業をしていると自覚している。(笑)

追記:今日OGで韓国籍のP君がやってきた。韓国の大学で国際関係をやることが決まったらしい。しかも、入学までに、知人の外交官が最近ジンバブエに赴任したということで、見聞を広げに行くつもりらしい。嬉しいなあ。是非とも肌で、アフリカを感じてきて欲しい。

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