2024年2月25日日曜日

平和村職員の平和村総論

https://www.felissimo.co.jp/company/contents/sustainability/medicalactivity/2022-peace/
「平和村で働いたードイツで出会った世界の子供たち」の最後にある第5章には、現在職員として働く中岡麻記さんの総論的な平和村の紹介がされている。これまで記した内容とかぶらない内容をエントリーしておきたい。

平和村の歴史は、1967年、第三次中東戦争をきっかけに、紛争で傷ついた子供を助けるというオーバーハウゼン市民のアイデアで設立された。第三次中東戦争は別名のように6日間で終結したので、ベトナムの子供を受け入れることにした。ナパーム弾の被害を受けた子供や当時ベトナムでは治療の手立てがなかったポリオの子供たちがドイツにやってきた。5年後には約130人のベトナムの子供が平和村で生活していた。一方で、母国ベトナムでも治療が受けれるようにと、病院やリハビリセンター建設の計画も立ち上がり、平和村の現地プロジェクトも始まった。1975年、ベトナム戦争終結で、南ベトナムから来た子供たちが帰国できなくなり、平和村内でも激しい論争があったようだが、結局100人ほどの子供がドイツに残り、学校や職業訓練を支援することが主な活動となった時期もあった。この反省から、治療が終われば必ず帰国させることがルールとして確立した。これによって親も信頼を寄せてくれるからである。ベトナムに建設したリハビリセンターは1990年代に入って再開し、11か所に。ベトナム各地に100か所以上の診療所を建設、カンボジアでも39か所の診療所ができ、検診や予防接種、簡単な手術まで行えるようになった。ウズベキスタンでは手術の技術向上が行われ今では心臓手術までできるようになった。その国人たちが自分でできる内容を中心に平和村スタッフが協力し、さらに医療器具や薬を届けるといった、プロジェクトが進行している。

(この本が発行された2021年9月)現在、アフガニスタン、アンゴラ、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス、ガンビア、カンボジアの2歳から12歳の子供たちが平和村に来ている。現地で、医師などのスタッフが家族と面会してドイツで治療する必要(=母国では必要な治療ができない)があるか判断し、チャーター機で連れてくる。ヨーロッパでの治療でも治る見込みがない場合は連れてこない。貧困家庭が優先される。援助飛行は年4回。骨髄炎の子供が多い。これらの国では医療が不足し、栄養不足(=抵抗力の低下)と重なって悪化するケースが多く、また中央アジアではやけどの子供も多い。ドイツ国内には、無料で治療してくれる協力病院が100以上あり、それぞれの方法で目がくらむような高額の治療費を負担してくれている。

子供たちは、様々な国の子供とと二段ベッド2台の4人部屋で共同生活をし、キッチンスタッフが考えた栄養のある3度の食事とおやつは全員でいただく。ミートソースのスパゲティが一番の人気メニュー。

治療のアフターケアは特に重要で、包帯の交換や腕や足の固定具の消毒などを、大きな子供には母国に帰ってから自分でできるように指導する。また平和村には「学びの場」という小学校の教室のような建物があり、グループごとに、算数や地理、お絵描きや工作、パズルなどをする。母国語を話すボランティアが訪問した時は、母国語の勉強もする。ピアノもあり歌の練習もするし、調理室では母国の料理を披露することも。幼稚園ぐらいの子供がのびのびと遊べる部屋や、イチゴやハーブを収穫できる畑もある。カードゲームでは、UNOが人気で、女の子は互いに髪を結ったりする。帰国が近づくと、パーティーが開かれる。子供たちがグループに分かれて出し物(小さな女の子の靴下を人形に模した人形劇や、大きな子たちの母国を思わせるダンスなど)を披露、この日は、特別?にピザやハンバーガーが出て、子供たちは大喜びするそうだ。

アンゴラで母親と再会する子供たち
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帰国時は「ナーハ、ハウゼ(家に帰る)」「チュース(バイバイ)」とにぎやかに挨拶が交わされ、市が無料で提供してくれるバス、運転手も休暇とってボランティアで空港まで運んでくれる。同乗するスタッフは、現地での子供と家族の再開する瞬間が一番嬉しいと言い、この活動を続ける理由にもなっている。

平和村には「出会いの場」が作られており、世界中から学生や社会人のおよそ100のグループがやってくる。平和村を知ってもらい、平和とはなにかを肌で考えてもらうためである。

ちなみにここでは中岡さんの平和村との関わりは全く書かれていないのだが、WEB記事によると、2000年の世界ウルルン滞在記の第3回取材時に、たまたまボランティアとして関わっていた中岡さんは、その後日本からの問い合わせが殺到した故に日本との対応に特化した部署が新設されて職員になったそうだ。彼女もウルルン滞在記で人生が変わった一人だった。

…私の友人や教え子の中に、国際協力士と呼べる人達がいる。語学も重要だし、専門的な技能・知識も重要である。どちらから入るのもOK。その両方ともダメな私は、このような事実を伝えることしかできない。だが、私の授業をきっかけに国際協力の世界に興味を持ってくれる生徒を少しでも育てたいと、今も思う。

2 件のコメント:

  1. 現在、僕のサッカーチームで、選手のコンディションを見てくださっている理学療法士の方が、平和村に訪問した経験がある方で、自身の診療所でも募金の支援を今でも続けている方です。
    前のブログに触れられていた、ウルルン滞在記のVTR、覚えています。グリーンデー(世界脳性麻痺の日)のイベントで、東ちづるさんに、僕が関わる脳性麻痺サッカーの事をお話させていただきました。

    未だに海外経験もなく、予定もない中ですが、僕ができる範囲で何かをしたいと思い続けていて、良い年になる今まで、障がいがある人とサッカーをし続けているので、日頃の練習や試合だけでなく、主催のイベントや他の競技の人を巻き込んだ事をできたら良いなと考えています。

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  2. 中村くんへ。頑張ってくれているね。嬉しい限りです。

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