2024年2月3日土曜日

鹿野政直「人間喜劇」志向

学園の図書館で借りた鹿野政直氏の「近代社会と格闘した思想家たち」(岩波ジュニア新書)を読んでいる。これまでエントリーしてきた「近代社会を構想した思想家たち」の続編である。まずはプロローグの概説から。

戦後派の著者が、近代の作られ方を歴史学から見続ける中で、公害、大学紛争、ウーマンリブ、ベトナム戦争と反戦運動などが起こってくる。著者は、恩師西岡虎之助氏と「日本近代史」(1971年)という共著を出しているが、荘園史・民衆史の大家である恩師は、公事につくした立派な人中心の歴史ではなく、排除されてきた弱者の「人間喜劇」という嗜好、在野的な気風に満ちた方で、大きな影響を受けたと記している。

近代を問うという歴史学の問題意識の組み換えによって生まれたのが本書である。よって、私の見識にはない人物も多数描かれている。今回は第1章の「文化をひらく」から、著者の大先輩にあたる早稲田の歴史家・思想史家の津田左右吉(そうきち)を取り上げたい。

津田左右吉は、19世紀末の日本の天皇を不可侵とする国体の聖域化に対して、その由来を歴史学の立場から解き明かそうとした人である。記紀における神話の部分も史実とされていた当時、記紀を聖典視することなく、歴史書として吟味・批判の対象とすべきであるとし、「神代史の新しい研究」(1913年)、第ニ作として「古事記および日本書紀の新研究」を出し、1924年に「新」をそれぞれ外した両書を再度世に問うた。美濃部達吉が天皇機関説で法学の分野から学問的な学説を出したことと、津田左右吉が、歴史学の分野から学説を出したことは、国体に対しての学問的純粋さに類似性がある。ただ、美濃部の天皇機関説は、実は官僚などエリートの世界では当然視されていた(既成事実的)のだが、そういう教育を受けていない軍部や国粋主義者らに大反発・大弾圧を受けた。津田の場合、神武紀元2600年の前年・1939年末に、弾圧を受ける。発行者の岩波茂雄(岩波書店の創業者)とともに起訴された。結局戦局の悪化の中、免訴となったが、大学側は庇わず、大学をやめざるを得なかった。(=津田事件)

津田は、学制の整わない時期とはいえ、二、三の学校や私塾を経て、東京専門学校(現早稲田)へも、最初は講義録を取り寄せて読むという校外生としてかかわり、編入試験を受けて正規生となっている。卒業後は関東の中学校教師を転々としている。この非エリート性が、「国家」や「国体」を振りかざす「お上」の横暴性を認識したと思われる。ほとんど独学で取り組んだ学問故にアカデミズムの枠を大きく破る古代の発想に至ったと見るべきである、と著者は書いている。(本書では省かれているが、満鉄で地理歴史調査室研究員として勤務し、東洋史の研究に勤しむ。その後東大に研究室は移管されるまで勤務したとのこと。)

…こうして見ると、同じ学問の自由に関わる事件であるが、貴族院議員だった美濃部達吉と同列に扱えない気がする。

…津田は戦前から天皇制に反対していたわけではない。また仏教や儒学、国学、神道などの歴史観、左翼の思想には反対の立場と取っている。よって、「先生の立場は唯物史観ではないか。」と問われた時、「唯物史観は学問ではない。」と喝破している。あくまで学問として記紀を検証したようである。戦後、学士院会員(1947年)、文化勲章(1949年)を受けている。私も妥当だと思うが、対応が早い。戦後日本政府のこの「手のひら返し」が凄いと感じざるを得ない。これが権力の姿なのだろう。

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