2024年2月6日火曜日

横山源之助 日本之下層社会

鹿野政直氏の「近代社会と格闘した思想家たち」の第2章「生命を見つめて」から、ジャーナリスト横山源之助についてエントリーしたい。日清戦争を契機として、産業革命が進展すると、工場労働者という階級が成立し、低賃金で長時間労働を強いられた。この情勢を受けて、社会に警鐘を鳴らす人々が少数ながら現れ、多くの人が視界から遠ざけたいと思っている”近代化によって作り出さている新しい悲惨”の認識を迫った。横山源之助は、その先頭に立つ一人であり、1899年に出された彼の主著「日本之下層社会」は、後(1925年)の細井和喜蔵の「女工哀史」と並ぶ社会調査の双璧である。

近代化は、従来の意味での貴賤の基準を大幅に緩和した半面で、貧富という基準を押し出し、しかも貧富の基準が新しい貴賤を生み出して、貧は賤に押しやられた。横山は、繁栄には「表面」「裏面」があり、後者が前者を支えていること、しかし全く無視されていることに義憤を感じたのである。横山は、自分では語ることはなかったが、富山の魚津の町の網元と奉公に来ていた母との間に生まれている。母は主家から放逐され、左官業の横山家の養子に出されたという生い立ちを持つ。よって、虐げる存在への体質的拒否感と虐げられた者への鋭敏な感受性が養われたといえるだろう。

横山は最初弁護士を目指したが失敗、放浪の後、毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係。旧横浜毎日新聞)の記者となった。「日本之下層社会」は、記者として積み重ねたルポタージュ記事を元に生み出され、東京の貧民状態・職人社会・手工業の現状・機械工場の労働者・小作人生活事情の5編と付録としての日本の社会運動からなる。しかも聞き取りとともに統計的な手法が新機軸を編み出し、その非人間的な暮らしが瀰漫(びまん)していることを掘り起こした。

労働運動に対し最初は「大いに勇み肌を養うべし」と期待したが、貧民や職人、労働者を未分化のまま下層社会ととらえる横山には、社会主義運動化は違和感があり、貧民のために新天地を求めて無人島探索や南米移民を企てたりしながら、やがて孤立化を深める。(とはいえ、二葉亭四迷や樋口一葉とは友誼を結んでいたようである。)やがて、横山と「日本之下層社会」は長く忘れられていたが、戦後になり研究者の努力で復活した。

…昨日WEBの記事で、私立の伝統進学校と中堅進学校の違いについて体験談的に書かれたものを読んだ。結論的に要約すると、進学成果を挙げている伝統校では各教師が常に向上心を持って専門分野の勉強を維持している、とのことだった。私自身、教師はそうあるべきだと信じて、このブログを書いている。そういう意味でも、鹿野政直氏の文章には、今はあまり使わなくなった語彙も多く登場してありがたい。「瀰漫」なんて初めて知った。気分や風潮が広がり、はびこることである。ちょうど昨日、職員室でよく話をする国語科のK先生が明治期の語彙についてまとめているという話をされていて、こういう各先生方の試みがこれからも学園を支えていくのだろうと感じた次第。

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