2024年2月16日金曜日

宮沢賢治 春と修羅の世界

https://www.goto.co.jp/planeta
rium/program/yodakanohoshi/
梅原猛の「地獄の思想」は、メインの仏教学における地獄思想の変遷に入る。かなり専門的な話が多いが、大学で仏教を専攻した私には、いささか梅原の論議に違和感を感じるところもあるが、十分理解できる。ただブログのエントリーには適さいないと思うのでカット。さらに、地獄の文学として、源氏物語、平家物語、世阿弥、近松を対比していく。反対に私はこの辺の古典の造詣が浅すぎるのですっ飛ばし、明治以降の文学についての記述までワープすることにした。

梅原は、日本において真面目に人間を見つめた文学者たちは、どこかで地獄の思想に触れ、己の個性的な地獄を作り出した。仏教に背を向けた明治以降も魂の深部で地獄と対決した、と書いている。

夏目漱石は、則天去私の理想と強い自我意識の矛盾に悩みつつ、人間の心の底に潜むエゴイズムと対峙した。これが夏目漱石の文学の主題(=漱石の地獄)であった。夏目の正反対の自然主義の立場にある島崎藤村は、人間を赤裸々に描く、すなわち煩悩を描いたに過ぎない、小説『新生』で姪との情事を暴露し、懺悔したのはキリスト教的な意味合いより、煩悩即菩提の仏教的確信ではないかと梅原は書いている。また、この藤村の懺悔を偽善として罵ったのは芥川龍之介で、藤村の仮面をはぎ、本当の悩みはそこにはないと避難した。おそらく芥川龍之介は、この時己の内なる地獄の苦悩をどうすることもできないと感じていたに違いない。懐疑地獄に陥った彼は自殺を選んだ。梅原は、この記述の後、宮沢賢治と太宰治について論じるのだが、私は宮沢賢治を選ぶことにする。(太宰は、高校時代の先輩が、『グッドバイ』のあるページを開けて自殺したので、以来一切触れないことにしている。)

さて、宮沢賢治は盛岡高等農林学校の生徒であった18歳の時に、「法華経」の寿量品を身震いしながら読んだと言われている。彼の詩集は、「春と修羅」と題され、第一集、第ニ集、第三集と続く。梅原は、その詩集の「序」に、法華経の一念三千論を想起させるとし、世界は一つの大生命の流れだという信念を感じ取っている、これが宮沢賢治の魂であると。また宮沢賢治は、詩や童話を書いたが、小説は書かなかった。書けなかったのではなく、人間世界のみを語る小説ではなく、自己の世界観(動物も植物も山川も人間と同じ永遠の生命を持つ存在)の必然として詩や童話に帰結したのであった。このあたりは、イソップ童話などが、人間の比喩・風刺として動物を登場させているのと大きな相違となっている。ところで、この「春と修羅」という題名について、梅原は、「春」を時間の中に移りゆきつつ(=無常観)しかも永遠の生命の輝きをもつ自然(=一念三千論)を表現しているとし、「修羅」は宮沢賢治が『よだかの星』で示しているとして、内容を示している。(私も小学生の頃、『夏の友』という夏季休暇の宿題で読んだ鮮烈な記憶がある。)

夜鷹は羽虫やカブトムシを毎晩殺していることに苦しみ、飢えて死のうとかんがえた。さらに鷹に食われる前に遠くにいってしまおうとお日様に向かって飛ぶが、昼の鳥ではないので断られ、星に向かって何度も飛び、最後には星になったという内容である。梅原は言う。この物語は近代日本文学が生み出した最も美しく、最も深い、最も高い精神の表現であると。全ての生けとし生きる者の世界は殺し合いの世界、修羅の世界である。これが、宮沢賢治の現実の世界に対する根本直観であると。

この修羅の世界から、仏の世界への道は、利他行である菩薩道となる。宮沢賢治は、貧しい農民のため無償で土壌の分析をし、肥料の改良をして飢えから農民を守った。しかも菜食主義者でもあったので、乏しい栄養によって己を養いつつ超人的な利他の労働をした。大きな慈悲の喜びと歓喜に満ちていようとも、心身を披露させずにはおれない。宮沢賢治の一生は、利他行の実践であった。科学(農学)はその手段、文学はその表現であった。ただ、身体は彼を長生きさせなかった。

…宮沢賢治の見た地獄は、この修羅の世界であり、それを乗り越えようとしたわけだ。宮沢賢治、一度読み返してみようかな、と思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿