2024年2月27日火曜日

宮沢賢治 どんぐりと山猫

三田市立図書館で、宮沢賢治の文庫本を3冊借りてきた。前述(2月16日付ブログ参照)の梅原猛の「地獄の思想」にあった宮沢賢治における法華思想の影響を確認するためである。3冊のうちたまたま手に取った「注文の多い料理店」の最初の童話、「どんぐりと山猫」について今日は考察してみたいと思う。

内容を非童話的に概説すると、一郎という子供のところにハガキが届くところから始まる。山猫からで、面倒な裁判をするので来てほしい、というものだった。その面倒な裁判とは、どんぐりたちの”一番偉い”形態を決めるということであった。頭の尖っているもの、丸いもの、大きいもの、背の高いものなどが、それぞれ自分が一番偉いのだと主張する。今日で3日目、このままでは埒が明かない。山猫は一郎に相談する。一郎は、お説教で聞いた「一番馬鹿で、メチャクチャで、まるでなってないものが偉い」としてはどうかと答える。これには騒がしかったどんぐりたちも静まり返った…。

考察その1 このどんぐり達の自分が一番偉いと主張する姿は、修羅の世界の様相である。修羅の相は、他者より優位にありたいという煩悩で、宮沢賢治にとっては、忌むべき現実世界そのままの実相である。

考察その2 どんぐりたちを黙らせた一郎の説は、法華経に出てくる須梨槃特(=周利槃特)のことだとすぐわかった。愚鈍だった彼は、優秀な兄と違い、教えの句のひとつも覚えられなかったが、釈迦の指示により掃除三昧を20年間続け、阿羅漢の悟り(上座部での最高の悟り)を得た。

…このように、「どんぐりと山猫」は、おそらく一郎が”お説教”で聞いた須梨槃特の話が元になっていると推察できるわけだ。

ちなみに、法華経以前の経典では、成仏できないといわれていた二乗(声聞・縁覚=舎利弗や阿難といった優秀な釈迦の高弟)と呼ばれる頭の良い者より、須梨槃特のように愚鈍でも素直に精進する者を称えていた。しかし、法華経では、二乗作仏が説かれ、女人成仏も説かれている。

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