2023年3月1日水曜日

ビスマルクの時代

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「プロイセン王家12の物語」の書評第5回目 。ユンカー出身のビスマルクは、骨の髄まで反革命・王権維持派で、フランクフルト議会のプロイセン代表(代議士)から宰相に任命された。小ドイツ主義による統一というのが、ビスマルクとヴィルヘルム1世の共通目標で、65歳の老王と47歳の宰相の二人三脚がスタートする。意外に対立することも多かったのだが、老王の崩御までこの絆は崩れなかった。

「政治上の腕試し」と言っていたデンマーク戦争に勝利し、次はオーストリアである。普墺戦争の一ヶ月前にビスマルクが暗殺未遂に合う。犯人はビスマルクに組み伏せられ手首をひねられてしまった。普墺戦争も同様であった。わずか7週間で終わった。オーストリアは、この後支配下にあったハンガリーを王国として独立させ、同君連合とした。ハプスブルグ家はまだまだ滅びない。一方、プロイセンは22の諸邦と北ドイツ連邦を結成、連邦主席にヴィルヘルム1世、宰相にビスマルクがつく。バイエルン王国、ヴュルテンベルグ王国、ヘッセン大公国など南部のカトリック国は、棄教させられるのではと考えていたようだが、ビスマルクにはそんな考えはなく杞憂だった。この南部諸国が、ルター派のプロイセンより嫌っていたのがフランス(ナポレオン3世の時代)であった。次の狙いはフランスで、いわゆる普仏戦争である。そのきっかけは、スペインの空位になった王座に、ホーエンツォレルン家の傍系の公子が候補にあがり(ビスマルクの工作らしい)、フランスが猛然と抗議してきた。辞退をしたが、フランス大使が図に乗って、「二度とホーエンツォレルン家からスペイン王家の後継者候補を出さない。」という念書をとりにきたのである。ヴィルヘルム1世からこの件について受け取った電報をすこし書き換え、いかにも王の憤激、そしてフランスの傲岸さの現れとして新聞に載せたビスマルクは、両者の国民を見事に焚き付け、対立を煽った。(=エムス電報事件)外交の魔術師の面目躍如である。その数日後、フランスは宣戦布告してきた。

プロイセンは、事前に観光客を装い、フランス各地の戦場となるような地を調査していた。準備万全である。初戦(小さな局地戦)はフランスが勝利したが、後はプロイセンの驀進に次次ぐ驀進。兵器の性能もそうだが、仏軍の紺色の上着と赤いズボンは格好の標的となった。6週間で追い詰めたプロイセン軍はセダン要塞に立てこもったナポレオン3世を1日半で降伏させた。仏の側近は「ここで討ち死になされば帝政は守れます。」と進言した。パリで留守を預かっていた妃は(捕縛の報を受けて)「嘘です。夫は戦士したはずです。」と叫んだらしい。結局、妃と皇太子は亡命、(ナポレオン3世も亡命)第二帝政は崩壊した。

1871年、ベルサイユ宮殿・鏡の間でドイツ帝国皇帝即位式を行うことになる。(画像参照)ドイツの第一帝国は神聖ローマ帝国、第二帝国はこのヴィルヘルム1世の帝国、第三はナチの帝国、今はEUの経済的盟主で第四帝国などと呼ばれている。この帝国即位式にあたって、ビスマルクは、各王国、大公国、公国の推戴であるということを重視し、事前協議にに励んだ。やはりこの辺が大政治家であるわけだ。ちなみに、この即位式ではヴィルヘルム1世は不機嫌だったらしい。

年老いてからプロイセン王になり、ドイツ帝国皇帝にのぼり詰めてもなお、ヴィルヘルム1世にはメンタル面で闇の部分があった。若い頃、相思相愛だったポーランド・リトアニアの公女だった6歳下のエリザとの結婚を望んでいたのだが、エリザの父方の祖先に問題がありプロイセン推定相続人の妃とはできないという話になり、一時はロマノフ家の養女としてから結婚という話も出たのだが、結局破談した。その後エリザは若くして(母・ルイーゼと同様に)急逝する。皇帝となった後も死ぬまで机の上には、エリザのミニチュア肖像を飾っていたという。

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