2023年3月15日水曜日

山本七平 「禁忌の聖書学」

「山本七平の思想」のエントリーも長くなった。最終回は、キリスト者としての七平についてである。七平は、神学の中でも歴史神学の徒である。当時流行していたバルトの危機神学や、実存論的神学には懐疑的であった。
面白い記述があった。マリアの処女懐胎について、である。イエスがエルサレムに登場した時期のユダヤ人はヘブライ語ではなく、ギリシア語を話していたので、聖書をギリシア語に翻訳(=七十人訳聖書)が普及した。その際翻訳のトラブルが発生した。ヘブライ語のイザヤ書の「アールマー(乙女)」には必ずしも処女という意味はないが、ギリシア語の「パルテノス(処女)」と約されたことから、新約聖書のマタイ伝で処女受胎の意味になり、後から書かれたルカの福音書でも既成の事実とされ、そういう信仰が定着したようである。七平は、歴史神学者・ハルナックのこの説をとりながらも、さらに他の宗教との習合が行われたのではないか、と言う。出エジプト記の前段のヨセフの物語も奇跡が起こらない点やあまりに整合性がとれすぎているので聖書としては異質と断じている。ヨブ記についても、最後はヨブが救われるが、それは後世に付け足されたものではないかと疑義をはさんでいる。太平洋戦争後復員船上で、まさしく七平はヨブの如く神を呪ったという。旧約聖書では、因果応報などは全く意味を持たない。サタンの挑戦に応じて滅びるのもまた「義」である。これに対し、七平は「そうかも知れぬ。」というアイロニーを含んだ懐疑を示している。*ヨブ記については、一神教の根幹を示しているような気がする。私も興味があって、2015年8月24日付、2017年3月12日・13日付に少しずつエントリーしている。

ところで、七平は内村鑑三に対して、山崎闇斎同様のエキセントリック性を感じていてあまり評価していなかったようだ。また、遠藤周作が描き、求めた日本的キリスト教にも批判的である。こうした日本的キリスト教を求める日本人の心性そのものが、「沈黙」に登場するロドリゴの師フェレイラの言う”恐ろしい沼地”だとする。それは、常に新しい「空気」を生み出し、「水」をも空気に変えてしまい、天皇そのものというより「現人神」への絶対的忠誠への圧力を醸成するものである。七平は、ユダヤ教のシナゴーグで過ぎ越しの祭に招待された時、「継続性の保証のない文化が果たして永続するであろうか?」という疑問にとらわれる。ヘブライ大学の日本学の教授はこの疑問の回答を天皇制に見た。七平は、承久の変後に北条泰時が天皇を政治から切り離し、象徴天皇制にしたことを称賛している。いわば「天」が自然秩序の象徴ではなく、天皇を日本的自然秩序の象徴にしてしまったわけで、この機能は今も続いている。逆説的だが、もしこの機能が失われるとすれば、それは「空気」によるものであり、それを醸成してやまない日本教が元にある。

著者は最後に、内村鑑三が唱えた「2つのJ」について述べている。内村は第一高等学校奉職時代に、Japanではなく、Jesusを選択し、友人の新渡戸稲造も「武士道」を書きながらも最終章で武士道の終焉を説き、キリスト教への帰依を説いている。では七平はどうか。日本教(=天皇制=空気)と戦いながらも、合理的な象徴天皇制を称賛し、日本的資本主義の良さも認識してきた。彼なりの基準の中で、2つのJが最後まで相対していたのだろう。あえて結論を導かないまま彼は鬼籍に入ったのだと。…山本七平、なかなか興味深かった。

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