2026年1月27日火曜日

オーソドックスの教材研究Ⅳ

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『東方キリスト教の世界』(森安達也著)の備忘録的なエントリー第4回目。正教会における修道士と神秘主義について、さらに記述を追う。

修道士の修行の段階としての苦行(アセティシズム)と神秘主義(ミスティシズム)の正確な定義。苦行は、故人の努力による修行形態でいわば「獲得された」徳である。しかし目的ではなく、あくまで手段である。この点が(ヒンドゥー教の)ヨーガやディクル(イスラムの神の名や祈りの言葉を繰り返し唱える)との違いである。一方、キリスト教の修道生活における神秘主義とは、聖霊の賜物が人間の努力に打ち勝っている状態をいう。魂が受動的になった状態である。

古代哲学からキリスト教神学に取り入れられた基本的な命題は、あらゆる認識は感覚の「経験」をもとにして成立するということで、神の認識も例外ではない。ところが、神は感覚・経験の外にあるので認識し得ないものである。このような不可知論は、正教会の神学の基本的な立場ではあるものの、人間には絶対的に認識しえない神に終わっては、キリスト教が宗教として成立できない。さらに汎神論に陥る可能性がある。

キリスト教にとって、神は被造物の認識を超越した絶対神であると同時に、自己を現し行動する人格神でもある。この二律背反を認めるところに、キリスト教の存在意義がある。この問題は、西方では神の恩寵と人間の自由意志の矛盾というカタチで現れたが、東方では、その点は問題にならなかった。神が自己を現すとは、父と子と聖霊の聖三者として現れたことである。”ロゴスの受肉”はまさにそのことであって、神が人となられた以上は、人が神になる可能性もあるのではないか、と東方の修道士たちは考えたのである。旧約聖書はキリスト予言の書であり、新約聖書は主の臨在を告げるものである。全てのキリスト教徒は洗礼の際にその保証を得る。これが救いの神秘である、したがって、キリスト教徒であれば、この神秘(=神の賜物)に預かれるはずだが、修道士は(修行を積んでいるので)超自然的な霊的・神秘主義的なものにあずかれやすいのは当然ということになる。

…ここは、極めて重要な記述だと思う。”ロゴスの受肉”とはイエスの存在を意味する。ヨハネの福音書の冒頭”はじめにロゴスありき”に繋がるのではないかと推測できる。

神秘主義者の修道士が目標とする神化は、神の姿を見ることである。具体的には神の「非創造の光」を内的に知覚することである。教父たちによれば、キリストがタボル山(イスラエル北部の山:画像参照)の頂上で変容を遂げた際に、キリストを包んだ光で、ペテロやヤコブなどの弟子も目にしたもの。(この出来事はマタイ福音書の17章に描かれるが、山の名は示されない。)

…ここも重要な記述である。正教会の修道士の目指す、神になること=神の姿/具体的には「非創造の光」を内的に知覚することであること、この伝統は正教会に今も息づいているようである。

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