2022年3月9日水曜日

受験の世界史B 研鑽ー55

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このところ多忙で、世界史の研鑽が止まっていた。今日は、随のことをエントリー。ネタ本はやはり「なぜ?がわかる世界史」である。

随は、北魏にルーツがある。辺境に置かれた軍団が6つあり(六鎮)、その中の一つ、武川鎮(ぶせんちん)が、北周の支配者軍団となり北周の外戚・楊堅(後の文帝)が589年南朝の陳を滅ぼし、中国の統一を実現した。南朝も北斉も華南の貴族文化に侵され軟弱化していたのに対し、楊堅の妻は鮮卑族の有力貴族出身であり、楊堅自身は漢民族であったとしても実質的には鮮卑貸していたと思われる。

ここからは受験用語的になるが、随の土地・税制度は、北魏の伝統を次いで、均田制租庸調(穀物・労働力・特産品)制をとり、均田農民には兵役を課していた。これを府兵制といい、随王朝は、豪族に頼らない軍事力を持つことになった。官僚登用制度は選挙制(後の科挙:宋代から)の採用が始まったが、官僚はやはり貴族が多く、ただこの貴族は地方官にはなれなくした。豪族的な要素をなくし、徐々に王朝(=皇帝)権力に依存させていった。

南朝が江南(長江より南)に開発した農業地域を北部(首都は西安の近く大興城:だいこうじょう)と結ぶ大運河(杭州→北京近郊:1500km)を建設、以後の中国の発展に大きく寄与した。

文帝の死後、あとを継いだのが煬帝(帝をだいと読むのは貶める意)で評判が悪い。人民を徹底的に酷使し、女性までかりだした。また高句麗遠征でも多くの戦死者を出し、恨みを買ったのである。

随は冊封体制(さくほう:周辺国との形式的な君臣体制)をとり、東突厥なども臣従したのだが、高句麗は、東突厥と同盟を結び随に対抗しようとした。612年第1回高句麗遠征が行われるが大敗。翌年の第2回遠征では後方支援の大臣が反乱を起こして撤兵。随の政権内部の乱れが表面化し、全国各地で遠征への不満が爆発し民衆の反乱が起こり、第3回を実施するも反乱でそれどころではなく、高句麗は形だけの幸福をしたが、実質的には敗北した。618年、親衛隊長に煬帝は暗殺され、随は滅びた。

607年小野妹子が遣隋使として、聖徳太子の有名な国書「日のいずるところの…」を渡すが、これは対等の立場を表しており、冊封体制にそぐわない。これは、高句麗の仏僧で太子の師であった慧慈が、倭が髄と同盟を結ぶことを止めたのではないかという仮説を著者は紹介している。この話、なかなか面白い。

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