2021年6月3日木曜日

評伝 KATABIRANOTSUJI Ⅻ

ミシシッピ川の州境にて 和手ぬぐいにI君の名が書かれている
9年間M高校で過ごしたが、我がブログは、このM高校8年目の12月から始まっている。そこまでの評伝を続けようかと思う。

まず、アメリカ研修旅行のことを記そうと思う。この研修旅行の企画は私が担当させてもらった。予算は1人当たり13万円ほど(当時)。同じ大阪市立の高校としては高額だが、これで4日間ホームステイして、さらにシカゴで1泊なので、ほぼ航空運賃のみとだと言えるほど安価である。安く抑えれるのは、姉妹校のアイオワ州・デモイン(州都)にあるアーバンデール高校の生徒宅でホームステイするからである。(宿泊費がいらない)ありがたいことに、この旅行の旅行社を決める際に、M高校英語科OGが担当する某社が先行投資として最も安価な提示をしてくれた。(きっと赤字だったと思う。)しかし、山あり谷あり。国際交流部長のY先生が直前で行けなくなったうえに、ユナイテッド航空で関空から出発の予定だったが、午前中の団体客は不可との連絡が入り、急遽往路は、伊丹から成田、成田からANAになった。ユナイテッドの国内線でシカゴ・オヘア空港から夕方にデモイン着となった。復路は、R80をバス2台で、ミシシッピ中流を超え、トウモロコシ畑を爆走することになった。(朝食は、マクドのテイクアウトという早朝出発。)生徒にはいい経験になったと思う。と、いっても後で聞いたら、大平原を姉妹校の生徒の運転でドライブしたメンバーも多かった。(笑)みんなそれぞれいろいろなもてなしを受けていた。ちなみに、私もアーバンデール高校の先生のお宅でホームステイした。

私がコーディネイトしたのは、現地最終日のシカゴで、科学産業博物館(人体の輪切りやUボートの展示がある)、シカゴ大学(特に生協)に寄ること。夕暮れ時に水族館の近くからシカゴの摩天楼を見る事である。(これは以前大阪市の教員派遣研修旅行でシカゴを訪れた際の経験による。)本当は当時シカゴで最も高かったシアーズタワーにも行きたかったが…。博物館では男子を連れてUボートを見に行ったし、夕闇迫り、ライトがついていく摩天楼に間に合って、女子生徒が「ヤバーい」と合唱して感動していた。このヤバいというのは、危ないという意味ではなく、後で聞くと若者言葉で凄いという意味らしかった。(笑)

ところで、この研修旅行、私にとって非常につらい思いをした。I君が気胸という病気で参加できなかったのだ。入院先にも何度か訪れ、保護者とも何度も折衝したが、結局参加不可となったのだ。全員共通のおみやげとした「和手ぬぐい」に彼の名を記し記念撮影もした。お土産もたくさん買った。アイオワ州のモノポリーとか、シカゴ大学のロゴ入りシャツとか…。現地では寝不足で疲れて、失敗もしたし、私自身は楽しむ余裕はあまりなかった。

ちなみに、卒業直後、アメリカに行けなかったI君をはじめ男子全員と募集した女子2名とともに、北陸への一泊研修旅行をした。研修旅行のリベンジで3年間を共にした友人たちとの最後の旅を私が設定したのだった。ホテルで、アイオワ州のモノポリーをみんなで楽しんだのだ。I君は大学合格後、1人でアメリカ・ニューヨークへ旅に出た。報告を受けたが楽しい旅だったようだ。

この研修旅行をはじめ、M高校は米豪の姉妹校二校との交流・短期留学や様々な国際交流行事があり、国語科は中国に修学旅行に行く。これらを担当する校務分掌が国際交流部で、担任の後、教務1年をはさんで、ここで過ごした。国語科の修学旅行にも深くかかわり、二度北京へ付き添った。二度目は、胡同観光も入れたりした。受験指導と国際理解教育、そして国際交流部の仕事はなかなか面白かった。

こうして振り返ってみると、T商業高校では、キャンプファイアーとN市民会館でのミュージカル&本格的な舞台運営、イベントによる人づくりに燃え、I工業高校では、全校イベントに燃え、学年主任をやったり運協委員長をやったりして学校運営に関わり、M高校では、受験指導だけではなく国際理解教育と国際交流に燃えたように思う。さらに(管理職試験は3年で終えたものの)管理職の愚痴聞き係のような役割も加わった。

ずいぶんと好きなことばかりさせていただいたように思う。担任としての期間は意外に短い。T商業高校では、2+1/7、I工業高校では、3+3/15、M高校では3/9になる。ちなみにH高校では3/5、PBTでは、1+1/3.5である。私はやっぱり生徒に深くかかわる担任をするのが好きである。国際理解教育をやりながらイベントで人づくりが理想で、それはH高校で完結したように思う。

本来はM高校にもっと長くいたかったのだが、お世話になったF教頭が校長になり、「是非一緒に仕事がしたい、転勤希望を書いてくれ。」と連絡があったので、8校合同仮想世界ゲームなどやるべきことを全てやり切って、F校長の学校に転勤希望を出したら、意外なことにH高校に転勤が決まってしまったのだった。(笑)とはいえ、H高校にも実に縁を感じることになる。この辺は、すでにブログに書いているので割愛したい。

もう、自分の評伝を書いてもおかしくはない年齢になっている。当然ながら、書きたくないことはあえて記していないことを告白しておく。(笑)現実には数えきれないほどの苦労をした。これこそが財産になっている。評伝 KATABIRANOTSUJI シリーズは、ここらで一度筆を置きたい。またその気になれば、書ききれていないことも書こうと思う。

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