2020年7月22日水曜日

日本国憲法第一条の謎(2)

https://plaza.rakuten.co.jp/monochrome45/diary/200702110000/
昨日のエントリーの続きである。明治維新は、天皇制のある意味復活であったわけだが、「玉」として、「権威」としての復活であって、「権力」が復活したわけではない。大日本帝国憲法ができた時、天皇主権となったが、これはあくまで建前である。大日本帝国憲法のルーツは、岩倉使節団にある。この使節団がアメリカからヨーロッパを回る中で、不思議に感じたのがキリスト教の存在である。書記として参加した漢学者は、このキリスト教の不条理を指摘し、欧米人が信仰していることを不思議がっている記述がある。木戸孝允(桂小五郎)は、各国の憲法に非常な興味を抱き、留学生にその翻訳を命じている。大久保も憲法に着目していた。この二人に共通した認識は、先の漢学者と同様であった。各国憲法が、キリスト教の伝統下にあることを見抜いていたのは流石と言うべきか。二人は日本の憲法制定を考えるとき、神ではなく天皇をその中心に据えるべきだと結論付けた。

その後、木戸が病死し、(西郷が切腹し)大久保は暗殺される。木戸の子分で、木戸の精神的疾患もあって、後に大久保についた伊藤博文が、この天皇中心の憲法作成という衣鉢を継ぐことになる。大日本帝国憲法の天皇主権は、ブロイセン憲法がルーツではなく、はるか昔の岩倉使節団での木戸と大久保の共通のアイデアにある。

大日本帝国憲法は、欠陥憲法であると私は思う。天皇主権を主張するあまり、内閣の各大臣の任命まで天皇としたことが、統帥権と相まって軍部独裁への道を開いたことは間違いない。つまり、陸軍大臣、海軍大臣が内閣不一致な意見を持つと、内閣総辞職せざるを得ないシステムであったからだ。天皇は、「玉」である。天皇主権は、極めてあいまいなカタチであって、昭和天皇は何度か、自分の持つ「権威」の威力を知ることになる。軍部やそれを許した首相(張作霖爆殺事件時の田中儀一内閣)を下問した際、辞表が提出され、以後自分の意見を押し通すことを極力避けるようになった。2.26事件の際は激高したらしいが、これはあくまで信頼する臣下(高橋是清ら)を殺され、首相、侍従長、内大臣等が不在となり天皇が(内閣の輔弼なしで)裁可せざるを得ない状況におかれたこともある。昭和天皇は君臨すれども統治せず=「玉」の原則を叩きこまれていたようだ。

さて、「玉」の則を超えたのは、2.26事件と、もう一つある。終戦の御前会議である。ポツダム宣言の受諾を昭和天皇自らが決めたのである。

私は、天皇に戦争責任がるか否かを論じるような力量はない。ただ、これまで読んだ大量の本を基準にすると、大日本帝国憲法の天皇主権は、多分に概念的で、実質は「玉」であったと思っている。その意味では天皇機関説の美濃部達吉派かもしれない。(笑)…つづく。

0 件のコメント:

コメントを投稿