2020年2月11日火曜日

仏・少女の「冒涜する権利」考

昨年11月のパリでのイスラム教徒のデモhttps://www.sudouest.fr/2019/11/10/marche-contre-l-
islamophobie-des-milliers-de-manifestants-a-paris-6807058-710.php
フランスは、カトリック国だが、信仰の自由というか信仰しない自由を歴史的にも追及してきた国だ。そのフランスで、16歳の少女のインスタグラムでの、イスラム教への冒涜発言とそれに対する脅迫が問題になっている。
https://www.jiji.com/jc/article?k=20200210039698a&g=afp

問題の少女は、あまり反省の色もなく、「冒涜する権利がある」「自分の言いたいことを言いたかった」と発言している。現在、警察に守られ学校へもいけない状況だそうだ。フランス内相やイスラム関係者、あるいは政治学者の意見なども載っているが、私もSNSにおける言論の自由と自己検問のリスクについて考えてみた。

…まず指摘したいのは、この問題の当事者が16歳の少女であるということである。環境問題でも過激な発言の少女が国際的な関心を集めているようだが、私はあまり重視していない。若いと言うことは良く言えば、純粋であるわけだが、それが絶対善ではない。様々な「学び」をし、経験を重ねて自分の思想を構築し、責任をとれる範囲での言論の自由がある。自由の裏には必ず責任がある。16歳の少女がイスラム教の何たるかを学んだうえでの発言だとは思えないし、自分の思想をすでに構築しているとも思えない。よって、この問題の核心は、彼女の幼稚さにあると思う。

…イスラム教徒が、冒涜に対して敏感に反応するのはこれまでの経過を見ても十分理解できる。16歳の少女が相手であっても、不信心者への厳しい姿勢はシャリーアにあるとおりで、彼らが神の意志で行っている行為故に責めることはできない。ただ、民主主義国家フランスの法上は犯罪行為となるだろう。ここでも、神定法が人定法であるフランスの刑法より上位にくるだろうから、仏ムスリム評議会のある幹部は、「脅迫を招いたのは自業自得である」と言っているわけだ。また違う幹部(議長)は、あえて「殺害脅迫を正当化するものなど何もない。」とイスラム教徒への非難をこれ以上強めることは得策ではないと現実的に判断し、フランスのイスラム教徒ならびに異教徒に対して、あえてこう発言したのだろう。これが分別と言うものである。

…多民族共生は、極めて難しい。フランスは日本と異なり、情や空気を読むという風土ではない。激しい論争を基盤に社会は発展してきたと思っている。マレーシアでは、他民族への干渉(特に宗教に対する批判)はご法度である。シャウィーウィー派は、かなりシャリーアには厳格だが、南国の風土もあって、マレー系の人々は穏やかだ。しかも上(政府)からの圧力で、国是の多文化共生を教育現場で長年徹底されてきたことも大きい。民族が違えば、宗教が違う、それをとやかく言ってはならないという精神が全国民に徹底されている。言論の自由が多少制限されていることは、ヨーロッパから見れば人権侵害かもしれないが、フーコーの言うように、これらは19世紀の近代以降の理性万能主義に由来しているに過ぎない。ヨーロッパの正義が絶対では決してないと私は思う。

…不特定多数の人々に発信するSNSにおいては、日本人として、自己検問するのは当然であると私は思う。それができないのなら発信すべきではない。自由の前に責任ありき。これは年齢には関係ないと思われる。若くても幼稚でない者もいるからだ。残念ながら、今回の少女には記事を読む限りにおいて、この事実をわきまえていないように思えるのだ。

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