2020年2月8日土曜日

地味に凄い会津出身の軍人考

会津藩校 日新館に残る什の掟 https://nisshinkan.jp/
うちの妻は、暇があるといろんなYouTubeにアクセスしている。私がPCに向かっている横で音声を流しているので、耳に入ってくるのだが、昨日今日と「会津藩」出身の陸軍軍人の話が続いた。妙に気になるのでエントリーしておこうと思う。まずは、会津藩の明治維新時の歴史的背景について考えたい。

会津藩は、実に不運な運命を背負う。尊王思想が高まり、江戸から政治の中心が京に移った際に京都守護職を拝命する。松平容保という人は、養子であるがこそ、幕府を守るという藩是に従う。様々な文献によると、朝廷の貴族は金銭的な恩恵から薩長についたが、孝明天皇個人は薩長より、松平容保を最も信頼していたようだ。

会津藩は薩長、就中長州にとっては、京から彼らを追い出した仇敵であり、多くの志士が倒されたテロ装置・新選組の雇主である。よって、戊申戦争では恭順の意を表したのにもかかわらず、朝敵とされ何が何でも会津城を陥落させ、さらに下北半島斗南に流した。極めて非常な仕打ちをしたわけだ。革命にはスケープゴートが必要なのである。

松平容保の凄いところは、孝明天皇より御宸翰(しんかん:天皇直筆の手紙で、会津藩を最も頼りにしていると書かれている)を1863年八月十八日の政変の際に頂いていたが、生涯これを他者に見せなかったことだろうと思う。天皇の信頼が厚い事を示せば様々な場面での申し開きが可能だったはずだが、徳川慶喜への忠義とこの御宸翰の与える影響の大きさ故に秘していたものと思われる。「ならぬことはならぬ」という什の掟(じゅうのおきて:会津の武士への教育)そのものである。会津武士は、地位に胡坐をかいていた旗本などよりはるかに武士精神を守ってきたわけである。

明治維新後、西南の役で旧会津藩士が活躍したこともあって、朝敵の汚名を少しは晴らしたものの、薩長土肥の新政府では冷遇されていた。とはいえ、実力主義の時代になって、柴五郎や、松江豊寿といった凄い会津出身の軍人が出てくるのだ。つづく。

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