2017年7月2日日曜日

「マル経」恐るべし。

https://twitter.com/lsegovernment/status/794111119430447104
東洋経済のWEBページに、実に興味深い小論(本日付)が掲載されている。神奈川大学の的場教授の「かつて民主主義は資本主義と蜜月関係だった~なぜ民主的でないルールが広がったか」である。自分なりに整理してみた。
http://toyokeizai.net/articles/-/178396

ドイツの社会学者ヴォルフガング・シュトレック(上記画像参照)は「公共社会学」という分野から、民主主義と資本主義の問題をうまく説明している。今から50年前の高度経済成長期、機会均等という民主主義を、先進国の人間は満喫した。労働運動における階級闘争はなりをひそめ、賃上げ闘争に衣替えした。自由を求める「市民」の運動は、権力側にとっては、市民の自由=個人の確立であり、体制を脅かす集団をバラバラにする役割を持っていた故に容認されてきた。自由と開放は、資本主義の過剰生産のはけ口として利用されたのだ。自分らしさの追求は、消費を伸ばし、民主主義にとっても資本主義にとっても有為だったわけだ。それが、かげりを見せるのが、第一次石油危機以後のスタグフレーションであり、今や先進国の経済成長率は、約1%という低成長時代にある。

1929年の世界大恐慌後のドイツ経済の破壊的な状況下で、「オルドヌンク・リベラリズム」(秩序づけられた自由主義)が謳われる。この意味は次のようなものだ。自由主義は規制の緩和・国家権力や法の介入を少なくするように見えるが、実際には公正厳格なスポーツと同じで、国家や法による規制は増えていく。当時のドイツでは、官僚や経済界のエリートによる統制が行われていったというわけだ。

自由から統制経済が生まれるという皮肉。1980年代のネオ・リベラリズムも同様だという。民主的権利意識が利潤率を低下させ、経済を停滞させる。したがって、資本主義の側からは、自由主義によるこれまでの規制を撤廃し、新たな規制の必要性を必要とした。これは実際には、労働者の賃上げと高度福祉社会の崩壊を目標とするものである。

…なるほど。この辺で、私はかなり膝を打ち続けた。ネオリベラリズムは、日本語では経済学思想としての「新自由主義」と訳す。サッチャリズム、レーガノミクス…。日本では小泉・構造改革…。

そして、EUは、そのネオリベラリズムの実験場であったという指摘に続く。このEUは、たしかに近代国家を超えた存在であるが、その意思決定システムは、ヨーロッパ中央銀行の政策金利政策も含めて、まさに秩序づけられた自由主義である。「各国の利害が存在する中、意思統一などできない。すべてはEUの官僚と経済界に委ねられているといってよい。国家を超えたグローバル権力は国家が培ってきた民主的ルールを飛び越えてしまう。民主主義の崩壊である。」

的場教授は、最近では珍しくなってしまった「マル経」(マルクス経済学)の権威であるようだ。したがって、結論的な部分では、こう言う書き方になっている。「グローバル化という魔力が国民主権を危機にさらし、市民権を奪い去ろうとしている。なるほど、地球は今一つの世界国家に近づきつつあるという表現ができるのかもしれないが、その実態は資本とその代弁者であるエリートによる世界国家にすぎない。」

…なるほど。実に面白い視点である。先日、IBTの公民分野のテキスト作りをしていて、EUのことをさらに深く調べていた。政策決定に関して、いくつか疑問が新たに生じたのだが、見事な1つの回答がここにある。当然これが絶対なる正義だとは私は思わないが、この視点は重要だ。現在の様々な問題を解くひとつのカギになると思う。…うーん。「マル経」恐るべし。

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