2017年5月18日木曜日

書評 ラザク先生の戦後(2)

広島・興南寮跡の碑 http://home.hiroshima-u.ac.jp/hua/public/hirodai_forum/345.html
スクールホリデー期間中に予定していた補習も終わったので、今日は休暇を頂いた。昨日の書評の続きをエントリーしたい。上の画像は、ラザク先生が広島文理大学(現広島大学)に留学していた時の留学生の寮の後に建てられている碑である。ここに集ったアジアの留学生たちの写真が収められている。まずは、ラザク先生の人柄を、本書から抜きだしてみたい。

ラザク先生と著者とのインタビューの中で、非常に良く笑う人だと書かれている。あつい心を持つ人だとすぐに気づかされたそうだ。日本人にむけた話はどこまでもあたたかく、マレーシア独立に向けての話では、テーブルをこぶしで叩いて熱くなった。日本語教師として留学生を送り出す話は、どこかの国の力強いリーダーたちの姿に重なって見えたという。柔らかなほほえみをたやさないラザク先生だが、ただ原爆投下の惨事のことだけは違った。原爆ドームの写真を見ながら静かに話し始めたが、しばらくすると、言葉が途切れ、ついにはでなくなった。みるみるうちに表情が硬くなり凍りつく。沈黙が続く中、部屋の空気のふるえさえ感じたという。ラザク先生は、このことを忘れることができない。たからこれまで多くのマレーシアの若者たちに自ら語り続けてきた。

ラザク先生の戦後は、マレーシア語を教えることから始まった。ところで、ラザク先生は、「マレーシア語」といい、「マレー語」とは決して言わない。マレーシア語は、「バハサ(ことば)・マレーシア」、独立以後国語となった「マレー語」を指すのだが、特別に力を込めて「ことばはね、精神なんです。道具ではありません。」と言った。彼の教授法は、ユニークで工夫に満ちていたといわれている。それは文法や会話法はもとより、ことばを学ぶことで得られる精神性がなによりも大切だったからではないか、と著者は考えている。

長男の言。スルタン・イドリス師範学校へ赴任することになり、引っ越しの準備を始めた。家具を全て持って行けないので近所の人に売ることにした。値段交渉を父(ラザク先生)がするのだが、近所の貧しい人がやってきて、おずおずと値段を尋ねたところ、父はそっと「あなたからお金は取れない。そのまま持って行って下さい。」と言ったという。父はたとえ自分自身や家族が恵まれた状況になくともいつも他の人を助けようとしていた、と言う。

ラザク先生は、戦後、師範学校に入学し一から学び直し、小学校の教員となる。さらに母校の師範学校の教壇にたつ。マレーシア独立後、1960年、KLの語学研修所に勤務。国語としてのマレーシア語を教える教員づくりに励むことになる。1966年、イポーの師範学校に講師として赴任する。この時に「5月13日事件」が起こる。この時家族はKLにいた。民族衝突は全土に波及した。何か重大なことが起きたらしいと聞き、ラザク先生はホンダの車を飛ばしKLに向かったという。妻に「なんという危険を冒したのか」と責められたらしい。そんな中、自宅近くのインド人の商店主が「先生、こわいよ。私たち家族に何が起こるかわからない。」と訴えてきたそうだ。これも長男の言。「何も怖がることはない。不安ならば私の家においで。」とラザク先生は激励したそうだ。すると、このインド人商店主は他のインド系の人もつれてぞろぞろと25人もやってきたらしい。2日間、他に居場所をみつけるまで非難していたとか。長男がラザク先生になぜこのようなことをしたのかを訪ねたら、「彼らは家族の一員のようなものではないか。いつも彼らのおかげで我々が暮らしているんだから家族のように助けなくてはいけない。ヒンドゥ教徒・インド系としてではなく、人間として助けなくてはいけない。」と答えたという。

…ラザク先生のお人柄を、こうして記しているだけで心が清々しくなる。(つづく)

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