2017年5月16日火曜日

シーク教研究7

http://www.hotstar.com/tv/sherepunjab-maharaja-ranjit-singh/13447
いよいよ、「シク教」の書評も最後のエントリーとしたい。この本の最終章は、10代続いたグルの地位は「聖典・グルグラント」に取って代わられた後の、シーク教徒の歴史になっている。本来平和主義的なシーク教が、ムガール帝国やイギリスの支配の中でさまよう、苦難の歴史なのだが、シーク教らしい光を一度だけ放っている。

1801年に「パンジャーブの獅子」ランジート・シングが、12に分かれていたシーク教徒の戦闘集団を統合し、シーク教徒は彼をマハラジャに据えた。彼は新しい意見に偏見なく耳を傾け、ヨーロッパやアメリカから宮廷にやってきた人々を歓迎し、パンジャーブの環境に適応できそうな人々を雇い、彼のカールサーは、世界でも有数の戦闘集団となる。軍医総監はフランス人、技官はスペイン人、砲術教官はアメリカ人だったという。多くの西洋人の訪問者が「他のインドのどの地方より安全。」「首都のアムリサトルは、シーク教徒のアテネでありエルサレムである。」などと述べている。彼が王位につく時(つまりシーク教王国が成立した時)ヒンドゥー教徒は自分たちの寺院で、イスラム教徒はモスクで、その長寿を祈ったという。まさしく、グル・ナーナクの創唱したシーク教らしい姿なのである。しかし、彼の死後は、詳細は省くが、戦乱の中にうずもれていく。今も、パンジャーブ地方では比較的多いとはいえ、インドでは人口の2%ほどの少数派でしかない。

…仏教では、正法・像法・末法という弁証法と全く反対の歴史観があるが、まさにそのようにシークの理想が衰退していくかの如くのである。しかし、世界的に近代国家化し、国家領域が定まり、安定化する中で、シーク教は多くのイギリス連邦の各国へ移民しつつ、自らの共同体を平和裏に築いているようだ。マレーシアのシーク共同体も同様であろうと思う。

…すでにシークのカールサーは、一部の過激派を除いて「伝統」や「歴史」になっているようだ。本来のシーク教の示す思想は、現代になっても色あせることはない。これからも機会があるたびに、学んでいこうかと思っている。これもマレーシアに来たが故のことである。

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