2017年5月10日水曜日

シーク教研究3

https://www.quora.com/Can-you-be-a-Sikh-but-believe-that-God-is-feminine
旧暦の4月8日は、2017年では今日である。釈迦の誕生日で、マレーシア全土で休日となる。チャイナタウンでは夜の7:30くらいから電飾の山車もでるようだ。マレーシアには、各民族の宗教行事が国民国家としてかなり恣意的に祝日化されている。この前はヒンドゥー教徒、今日は仏教徒、次はイスラム教徒、みたいな感じである。とと言いつつ、そういうこととは関係なく「シク教」の書評を続けたい。(笑)

どうしても、まずシーク教の宗教原理を明確にしておきたい。書評第三回目は、”Ⅰkk Oan  kar” の「Oan」のことについて。シーク教における唯一なるものを表現するのに、アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語などあらゆる言葉を用いることができたのだが、初代グルのナーナクは、パンジャブ語の”Oan”を選択する。同じ観念を表すサンスクリット語では”Aum”または”Om”で、「存在」を意味する。英語なら”being”,ドイツ語なら”sein”となるだろうか。

本書では、ヒンドゥー教の聖典『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』を引用して、サンスクリット語の”Aum”と同義としてこう解説している。”Aum”のAは第一次段階の「認識作用の範疇」を意味していると。人々はこの段階で世間を意識し、他の人との乖離を認識する。(仏教で言えば「差別」を認識するという意味になる。ちなみに仏教に於ける差別は、差別意識というような使い方の差別ではなく、区別の意味である。)
次のUは第二の段階で、絶対的な範疇が崩壊していく意識下の状態である。この状態では人々は心の広がりを経験する。論理の世界が崩れ始め、より高次の認識作用によって2つの場に同時に存在する、といった経験をするかもしれない、とある。(これは、仏教で言う唯識の発想に近い。意識下にある末那識や阿羅耶識の湧現。たとえば、野に咲く花に心を奪われ涙するような感覚である。)
Mは第三段階、深い眠りの状態、あるいは完全なる無意識の状態。それはちょうど、あまりにぐっすり眠ったので、1分間寝たのか1日中寝たのかわからないような区別がつかない状態をさす。(これも仏教では唯識的なスタンスである。数値的な時間の概念を生命状態が凌駕するような感覚である。)
第四の段階では、このAとUとMあ融合する。これは完全な和合の経験である。この段階、個我が”絶対真理”との合一を経験する。シーク教徒にとって、ナーナクが”Oan”あるいは”Aum”を(言葉として)利用したことは、”絶対真理”というものが、神という客観的知識というよりは、むしろ人の内的経験であるという信仰を表現しているのである。

…つまり、シーク教の”唯一の絶対真理”というのは、外部にあるのではなく、人間の内部にあり、それとの合体、融合をめざしているということになる。これは、ますます仏教の「法」あるいは大乗仏教的な「仏」の概念に近いといえるわけだ。

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