2017年5月11日木曜日

シーク教研究4

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「シク教」書評の第4回目エントリー。第二回目で紹介したムール・マントラの第二行目は、Sat Nam(サト・ナーム:真理が彼の御名)とある。これは、その後の聖歌ジャブで「それは時を超えた永遠の昔より真理であった。それは様々な一時性の輪の中でも真理であった。それは現在においても真理であり、永遠に真理であり続ける。」という記述で説明されている。

ここで、重要なのは、シーク教徒にとって、真理とは1つの客観的なカテゴリーではなく、存在の在り方そのものであることである。聖歌ジャブで、「真理に即した行き方とはどのようなものなのか?虚偽の障壁を打ち破るにはどうしたらよいのか?」と問い正す。真理から正しい生き方への移り変わりは、即座に、自然に行われる。真理とは単に客観的に知覚されるものではなく、自分の生き様とされねばならぬものである。

したがって、シーク教徒は信仰に生きることに焦点を合わせる。同信共同体意識、地域社会、そして家庭生活が信仰の中心に据えられており、シーク教徒は他のシーク教徒を自分の兄弟姉妹と考える。海外に出たシーク教徒はその土地の電話帳でシーク教徒の名前を探したりするのは、自分たちが同じ家族として歓迎されるのを知っているからである。結婚と子供も重視され不貞は禁じられている。またタバコや心を麻痺させる飲み物を用いることはない。グルは、ヒンドゥー教のような苦行を否定している。また菜食主義者ではない。歌も楽しむし、ゲームやスポーツも興じる。休日は祭りのように盛り上がるし、地域社会への貢献を重視している。善良な市民として一生懸命働き、娯楽も楽しむ。

正直な労働と誠一杯働くことは、輪廻を信じるシーク教徒にとってより良い来世のための善行である。いかなる職業も軽蔑されない。怠惰と他の者の厄介になることは容認しない。神聖なるものが全ての人の中にあるのだから全ての人は平等である。シーク教徒は、社会的階層、人種、信条などの差別を否定する。差別は唯一なる絶対真理から乖離させる者であると信じているので、男女も平等である。誰でもシーク共同体への参加が歓迎される。

シーク教徒は、シーク教の寺院(グルドゥワーラー)の維持の手助けをすることなどの奉仕活動で自らの信仰を表現する。その奉仕の精神は、シーク共同体内だけにとどまらず、貧しい人たちへの慈善行為にも捧げられる。グルドゥワーラー内の食堂での食事はサンガト(集団施食)と呼ばれている。(本日の画像参照)

…以前KLのグルドゥワーラーに行った時、どう見ても異教徒の我々夫婦は、自然に、しかも暖かく向かい入れられた。これは、上記の平等観によるものだと思われる。もし我々がサンガトでの食事を望んだらおそらく問題なく許されたであろうと思う。

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