2017年5月12日金曜日

シーク教研究5

http://www.sikhspokesman.com/content.php?id=645
これまでの4回の書評の中でシーク教の原理的特徴を示してきた。シーク教の信仰対象である「唯一の絶対真理」は、極めて抽象的な概念であること。これは他の宗教の神々をも含み、人間に内在するものであること。さらにこの「唯一の絶対真理」は信仰生活において表現されるものであること。それは平等観と真摯で教団外の地域をも含む奉仕的な生活態度あることなどである。

次に「グル」について述べるべきであると私は思う。初代のグル=ナーナクがシーク教の道を開いた。彼の幼年期は、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立が激しかった時期である。(15世紀後半)彼が覚醒後、「ヒンドゥー教もおらず、イスラム教徒もいない。」と述べたのは、人類にいける一切の宗教的セクト的相違の否定で、多様な宗教的信条やその豊かさを否定したものではなく、むしろ全てを包み抱き、人類すべての分かち合える基盤を讃美するものであるといえる。

このグル=ナーナクの教えがセーワー(共同体に対する自発的労働奉仕)・ランガル(共同体集団施食)・サンガト(シーク教徒の地域的共同体)に昇華している。
セーワーは、シーク教徒への奉仕を超えたもので、こういう説話がある。グル=ゴービンド・シングの軍隊にいたガーヤナという戦士が傷ついた敵兵に水を与えていたのを同僚の兵士がグルに報告した。ガーヤナはその行動の説明を求められた。彼は「戦場を歩き回っていた時、そこで見たものは、友の顔でも敵の将兵の顔でもなく、ただグルの顔がいたる所にあったのだ。」と報告した。グルは、彼に薬と包帯を与え、傷ついた者を助けに行かせた。赤十字や赤月社の活動に先行すること数世紀の話である。
ランガルは、前回エントリーした集団施食であるが、社会的平等と全ての人々は一家族であることを証明するものである。インド世界において異なったカーストの者が一緒に食事をすること自体大胆で革命的と言って良いほど画期的なことであった。
サンガトは、シーク教徒の集まりであるが、彼らは同志関係を極めて大切にする。彼らの信仰生活の基盤はこの共同体にある。「弟子1人は単なるシーク教徒。2人寄れば聖なる団体となる。しかし5人集う処では”絶対真理”そのものが存在する。」

グル=ナーナクは、弟子のレーナーを呼び「アンガド:彼自身の一部分という意味」の名を与え、銅貨5枚とココナッツ1個をレーナーの前に置き、彼の足下で礼拝した。こうして第二代目グルが新たな指導者となった。グルは神聖なものではなく、キリストのような存在でもなく、人々を啓発して「絶対真理」をわからせる道先案内人である。
1539年9月7日、ナーナクはこの世を去る。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒はそれぞれの方法(火葬と土葬)で葬送したいと申し出た。しかし遺体を覆っていた布を取り除くと、そこには花がいっぱいあっただけだったと言われる。両教徒は、布と花を分かち合い彼らの慣習にしたがって葬送したという。全世界の和合が幾世代も続くようにというメッセージを残して、ナーナクの遺体は消えてしまったのである。

…このナーナクという人物も、シーク教も実に興味深いではないかと私は思うのだが…。

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