2016年10月17日月曜日

大森実「ヒトラー」を再読す。(3)

ミュンヘン一揆(映画の1シーン)
http://www.br.de/themen/bayern/hitler-vor-gericht104.html
ミュンヘン一揆は、ヒトラーを合法的な政権奪取に向かわせたというくらいで、世界史の授業でも十分に触れることはないし、その背景もなかなか難しい。その理由のひとつにSA(突撃隊)のスタンスが極めて微妙な問題であることがあげられる。SAは、失業中の若者たちが多く参加していた。ベルサイユ条約で制限された軍にとって、SAの存在は目障りでもあり、同時に事あれば編入可能な予備軍でもあり、微妙な存在だった。ヒトラーは政権を握ってからもこのレーム指揮するもろ刃の剣に最後まで悩まされる。ミュンヘン一揆も、このSAに突き上げられた感がぬぐえないようだ。何といってもムッソリーニのローマ進軍の11か月後の話である。全くもって無謀な一揆とは言えない面がある。

意外な話は、ヒトラーは60Km離れた友人の別荘宅で負傷の手当てを受けてから自首するが、これも負傷したゲーリングは近くのユダヤ人銀行家で応急手当てを受け、その主人に助けられ国境を越えてオーストリアに潜入、インスブルッグの病院に入院したことだ。その後のユダヤ人迫害を考えると信じられない。ヒトラーの秘書だったルドルフ・ヘスもオーストリアに逃亡する。しかし、ルドルフ・ヘスは、その後自首し、ヒトラーの監獄でマイン・カンプ(我が闘争)の口述相手になる。

ところで、この監獄生活ではヒトラーは牢名主的存在となる。監房にはアポロンの霊木・月桂樹が飾られ、自ら受難の使徒であることを気取り、食堂の壁にはハーケンクロイツがかかげられていたという。ピアノ製造業者の夫人がヒトラーの義母と偽り面会に通ってきた。「可愛いヴォルフちゃん」とマザコンのヒトラーを呼んだらしい。ヴォルフはオオカミの意味である。
ヒトラーが総統になって、フォルクスワーゲンの本社のある街をヴォルクスブルグ(オオカミの城)と命名させたことは有名である。ヒトラーは監獄で、国中にフォルクスワーゲンの高速道路網をつくることを夢想した。アウトバーンである。塗装は22Cmもある。戦闘機が発着できた。戦略目的と失業対策の一石二鳥の代物であった。

出獄したクリスマスイブの夜、ヒトラーは、ミュンヘンの画商ハンフシュテンゲルという人物の家に泊まった。トリスタンとイゾルデのピアノ曲を所望し髪をかきむしったという。愛の水を飲んでしまった男女の悲劇を歌ったワグナーの曲である。
このハンフシュテンゲルは、ハーバード出身。当時の米国の国務長官がスポンサーで、どうやらアメリカのスパイだった可能性が高い、と大森実は言う。ヒトラーは気前のよいパトロンゆえに疑っていなかったようだが、この時点でアメリカは、ボルシェビキに対する対抗馬としてヒトラーを飼育する方針をとっていたと推測している。

…なかなか現代史は複雑怪奇。それを実感するハナシである。

0 件のコメント:

コメントを投稿