2016年7月31日日曜日

レヴィナスと愛の現象学を読むⅢ

フッサール
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内田先生の「レヴィナスと愛の現象学」の第二章を読んでいる。哲学書なので、常に赤ペンを持って2度読み・3度読みが必要ゆえになかなか進まない。(笑)第二章は、まずフッサールの現象学とレヴィナスの現象学の相違について描かれている。およそ倫理の授業で高校生に教えるように、ちょっとその内容を紹介しようかなと思う。

まず現象学について。現象学は、デカルトの「省察」(われ思う故にわれ有りという近代哲学の原点・第一証明)をさらに進めたものである。デカルトは、その後第二証明で神の存在を、第三証明で物体の存在を証明していく。このデカルトの構築した哲学的な構造に対して、素朴実在論者(素朴にその存在を認める人々)、懐疑論者(それを疑う人々)が現れる。
レヴィナスは、この素朴実在論者を演劇にたとえて、「夢中になって舞台を見ている観客」、懐疑論者を「しらけた観客」にたとえている。そして現象学者は、「演出家」である、としている。覚めているが同時に(劇に)没入している、と。すなわち、あらゆるモノの実体をある、と盲信するのでもなく、懐疑して、考えても無駄とするのでもなく、それらをいかにして知っていけるかを考え、実践していく存在であるといってよい。

内田先生は村上春樹とある編集者のハナシから、現象学を解き明かす。編集者が村上に普段どんな文具を使っているかを聞いたところ、「Fの鉛筆」と答えたのだが、編集者は「セーラー服を着た女学生」のようだ、と揶揄する。村上はその場は流したが、後々気になったというハナシである。「F」の鉛筆をこのように編集者は見ているわけだ。こういう「対象の意味的に把握」をフッサールは「ノエマ」と名付けた。この様々なノエマの「諸相」が1つの中心的な核の周りに群がっている。この核こそが対象的意味であるというわけだ。

…たとえば、「マレーシア」とは?と様々な人々に聞けば、年配の方なら「天然ゴムとスズ」、日本の商社マンなら「天然ガスとパーム」、高校の社会の教師なら「プミプトラ政策」などと様々なノエマが返ってくるはずである。マレーシアの「意味」は、それらの中心にある核的存在だ、というわけだ。ただし、そういうノエマを加算していって一定量に達したからといって、普遍的なその本質的直感を得る、というのではない。実際に4ヶ月住んでみて、もっともっと様々なマレーシアが私の前に現出している。これから先、さらに増えるだろうと思う。常に、前から、上からあるいは横から、さらに斜めから見るというノエマの”厚み”が、「知」の獲得には必要であるということである。

ところで、レヴィナスの大きな特徴は、前述(7月12日付ブログ参照)のユダヤ教のラビがタルムードを様々な視点から読み論争するように、常に他者との関わりを求めていく点である。レヴィナスは、フッサールの現象学に共感し、会いにいく。しかし、フッサールとは対話が成立しなかった。「共同的に構築される知」、「他者への開かれた知」であり、現象学はそのツールだと考えるレヴィナスにとって、質問を発してもすでに発表された草稿を読み上げるようなフッサールとの対話は、「哲学者は永遠の初心者でなければならい。」と確信する彼に大きな失望を与えることになる。

と、今日はここまで。

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