2016年7月3日日曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」13

apostate で画像検索したら、こんな画像が。 http://mormonismschism.blogspot.my/2011/03/apostates-and-anti-mormon-propaganda.html
バングラディッシュのダッカで、IS関係者(ISのカリフに忠誠を誓った者と言った方がいいと私は思う)による、凄惨なテロ事件が起こった。亡くなられた方々のご冥福を心から祈りたい。まして、日本の被害者は、私もいろいろとお世話になったJICAのプロジェクトで赴任していた方々である。しかも極めて平和的で普遍的な交通停滞緩和を目的にしたプロジェクトであって、途上国の持続可能な開発のための貴重な人材が多数失われたことに悲嘆を隠せない。あらためて無意味なテロ行為だと非難せざるを得ないのである。

この「クルアーンを読む」のエントリーは、私の備忘録的な自主学習のノートのようなもので、だいたい土日に行っている連続物なのだけれど、今日はすこし順番を飛ばそうと思う。最近は、中央アフリカやナイジェリア、さらに今回もそのような場面があったような報道があるのだけれど、イスラム教徒か否かがテロの対象か否かに結びついている。このことにまつわる中田考氏の論説を抽出してみたいと思うのだ。

中田氏は「イスラームは戒律の宗教であるという誤解があります。確かに戒律・法は守らないといけないんですけれども、法が救済の条件ということでは全くありません。」「救済の条件はあくまで信仰であって、しかも信仰自体にその力があるのではなく、あくまでも神の一方的な慈悲によって救われるのです。」「そもそもイスラーム教徒の信仰とは何かと言えば、スンナ派だと基本的には、心の中でアッラーの存在を認めて、口でそのことを証言すること、というのが標準的な信仰の定義になっています。」

…というわけで、テロリストが処刑の際に使う手段、信仰告白をアラビックで言えない人間は、イスラム教徒ではない、という判断がなされるわけだ。一方で、良き行為を沢山やっている人間のほうが信仰は深いだろうという常識的な判断がある。信仰と行為は別物だけれど、そういった信仰と行為の結びつきは、特に穏健なイスラム国家マレーシアなどでは日常的に見受けられる。

イスラーム教徒かどうかが重要な問題になる場面について。例えば結婚する時、イスラーム教徒同士でないと結婚できない。男性はユダヤ教徒やキリスト教徒の女性と結婚できるけれど、葬式の礼拝はイスラーム教徒にしかあげれないので、イスラーム教徒であるかどうかをどうやって判定するかということは法的にすごく重要になるそうである。心の中のことはわからないので、それについては問わない。自称・他称でイスラーム教徒だと言われている人間をイスラーム教徒として扱うのだが、非常に明示的に偶像を拝んでいるとか、アッラーなんかいないと言ったり書いたりすれば、それは不信仰の印として扱うことができる。そういう場合、不信仰者、背教者として処刑されたり、お墓に入れてもらえなかったりする。それ以外のイスラームで禁じられている行為をやっても、それが悪いことであると認めていれば背教者とはみなされない。ただし、カリフが任命したイスラーム法裁判官(カーディー)によってきちんと審理して有罪になった場合は背教者となるのだという。とはいえ、基本的にはそもそも問わないものらしい。結婚の際に親族が認めず背教者として訴えた時ぐらいの話らしい。

「実際には、背教者として処刑することはまずないのです。ほとんど狂人として処理するからです。イスラームは理性的な宗教だという自己認識がありますので、健全な理性があって正しい知識があれば、イスラーム教徒でなくなることはありえないというのが基本認識です。」

…と、まずは背教者という概念を提示しておきたい。しかも現状では、そんな扱いはほとんどありえず、狂人として扱われるということである。うーん。フーコー(仏の現代思想家)だな。

0 件のコメント:

コメントを投稿