2015年1月27日火曜日

「明治天皇という人」を読む。Ⅲ

松本健一著「明治天皇という人」(新潮文庫/本年9月1日発行)を先日やっと読破した。今日の日のために様々な作業があった故なのだが、とにかくも伊藤博文と二人の「井上」(1月11日付ブログ参照)を、書評のⅡとして、今回のエントリーはⅢとしたい。 
この松本健一氏の著作は文庫ながら670Pにも及ぶ。とても一回や二回のエントリーで書評を書くことはできない。そこで今日は、この書の非常に重要な部分である大日本帝国憲法の第一条についてエントリーしておこうと思う。

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 

松本健一氏は、こう書いている。『この「万世一系ノ天皇」という国体論こそ、伊藤博文=井上毅のいちばんの苦心のしどころであり、のちに大きな問題を残すことになる仮構(フィクション)であった。』

そもそも、井上毅の草案は、「万世一系ノ天皇之ヲ治ス所ナリ」であった。この「治ス」は「しらす」と読む。古事記に、「…天(あめ)の下(した)治(し)らしめしき」とあり、治者(君主)と被治者(国民)の支配関係を超えるコンセプトを見出される。天皇は統治しない。神と国民の間に立って「しらす」のである。井上は日本の天皇は史上一度も権力的な統治・支配(和語で、うしはく:領く)をしてこなかったと考えていたのである。

だが、伊藤は、近代憲法の前提は、国家権力が国民を統治し、国民は国家権力を制限するという関係において成立していると考えていた。井上の「しらす」は近代憲法の前提を否定する破壊力を内包していたのである。伊藤はドイツ人顧問ロエスレルの提案した「之ヲ統治ス」を選択する。近代国家論の上に立つことを選択したのだ。しかし、ロエスレルが削除を主張した「万世一系」(天皇制をシステムとして永続性をもたせればいい、という天皇機関説)を削除しなかった。天皇を天皇たらしめているものが「万世一系」だとし、天皇がこの憲法を制定する正統性を確保したわけだ。

しかも伊藤は天皇の統治大権を認めつつ、同時に「天皇の大権を制限せざるべからず」と考えていた。天皇=国体論にたち主権を認めながらながら、近代国家論的な天皇機関説的な運用、すなわり立憲君主を天皇に期待していたのだ。この矛盾が特に日露戦争後の近代日本を危うくしていくわけだ。…つづく。

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