2015年1月31日土曜日

「明治天皇という人」を読む。Ⅳ

山岡鉄舟
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「明治天皇という人」には、様々な資料をもとに、明治天皇の人間としての側面を描写した箇所がある。明治天皇は好き嫌いがはっきりしておられたらしい。

著者の松本氏の洞察によると、天皇は、西郷隆盛を愛し、そして彼の推挙で侍従となった山岡鉄舟を鎌倉時代の郎党のようにを愛していたらしい。山岡鉄舟は、江戸無血開城の際、勝海舟に依頼され、幕臣として西郷に命がけで駿府に向かい交渉にあたった人である。西郷から、「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない。」と称賛された。実際、皇居火災の時は、すごい速さでかけつけ、天皇に「飛行術でも心得ているのか。」と言われるほどだったという。また皇居に向かい、結跏趺坐(禅の姿勢)のまま死去したという「忠臣」であった。

西郷は西南戦争で逆賊になってしまったが、大久保とともに天皇の信頼は死後も極めて強かったらしい。岩倉も含めて、天皇が信頼した維新の功臣亡き後、天皇が信頼したのは、伊藤博文だけであるようだ。陸奥宗徳などはかなり嫌われていたようで、黒田清隆、西郷従道、川村純義、井上馨も性格がよくないとされ、大隈重信も山縣有朋も決して好かれていない。伊藤も、最初はあまり信用されていなかったようである。

…だが、伊藤は吉田松陰に「周旋の才」を認められていたように、事を進めるにあたって、慎重にネゴを重ねていく。私がこの書で最も印象に残った話のひとつに、憲法制定にあたって、伊藤は天皇と竹馬の友で、同じ学問的素養をもった侍従の藤波言忠を憲法理解のために1年間ウィーンに留学させるのである。もちろんドイツ語の通訳をつけてだが、この通訳は畜産の専門家で、法律用語が難解すぎそのドイツ語は用をなさなかったらしい。結局、通訳が英語でやりとりし、それを日本語で藤波に伝えたようだ。藤波は、この内容を、一年かけて天皇・皇后に進講した。天皇は熱心に耳をかたむけ何度も質問を重ねられたという。この辺の伊藤の深慮遠謀、凄いと思うのだ。

乃木希典について、明治天皇の思いは、山岡鉄舟に対する郎党に近いと著者松本健一氏は見ている。この話も面白い。日露戦争の際、天皇は乃木の解任に対し、「(そんなことをしたら)乃木は死ぬ」として反対したという。天皇は「忠臣」乃木を愛していた。だが、乃木は「元帥」になっていない。山縣や大山巌、西郷従道、東郷平八郎などは元帥になっているが、乃木はなっていないのだ。大元帥・明治天皇は、乃木を郎党と認識し、昭和天皇の教育を託し学習院院長に任じたが、軍務顧問(優秀な軍人)とは認識していなかったのだ。

…天皇は、横井小楠の弟子にあたる元田永孚らに若いことから「論語」を学んできた。だが、革命の原理を含んだ「孟子」を学んでいないのだという。だからこそ「忠臣」を深く好まれたのだのかもしれない。意外な話だったのは、北朝に繋がる明治天皇が、南朝を正統としたことだ。これも、天皇が忠臣・楠正成を愛する嗜好が影響したのかもしれない。

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