2012年4月3日火曜日

羽田正「新しい世界史へ」を読む

先日、本校の図書館に頼んでいた岩波新書が届いた。羽田正東大教授の『新しい世界史へ』である。このサブタイトルが『-地球市民のための構想』とある。是非とも読まねば…と思ったのだ。最初に告白しておかねばならない。図書館で借りた本なので、綺麗に読まねばならない。線も引けないとういうのは苦痛だ。(笑)まして、学術書である。かなり浅い書評になると思う。

この本で、羽田先生が言われているコトを極言すると、「このグローバル化した世界の中で、地球市民を育成するためには、全世界共通の世界史をつくっていくべきである。」ということになる。
我々は(当然私も含めてであるが…)、日本の高校教育で学んでいる世界史が正しいと思っている。たとえば、フランス人も日本の教科書に書かれているような歴史を学んでいると無意識に思っている。ところが、フランスの歴史教科書(フランスには、日本のような国史と世界史の区別がない。)には、フランク王国のことなど書かれていないのだ。これには驚いた。もちろんフランス地域中心の歴史なので、日本のことは日露戦争でやっと登場する。日本のファッション大好きのフランス女子たちは、そういう日本に対する歴史認識を持っているわけだ。私の書庫には、中国の文革後の歴史教科書があり、日中の歴史認識の違いは知っていた。しかし世界各国、それぞれ大きく違うのだ。もし世界中の地球市民を自称する人々が一堂に会したとしても、そういう意味で、どうしても大きなズレが生じるのである。このことに対する危機感が、この新書を貫いているといってよい。

そもそも、イスラームの歴史を研究していた羽田先生は、「イスラム世界」というコトバで地理的・文化的にくくるコト自体を強く批判されている。当然、「ヨーロッパ世界」という概念も批判的だ。世界史を、様々な地域の集合体と捉え、こういうジグソーパズルのピースのようなくくり方をすると、どうしても特定の地域から見た、それぞれの世界史のデザインが生まれるだと言われている。
しかも、世界的に見ても、「ヨーロッパ中心史観から自由ではない」と羽田先生は批判する。これは、全くその通りで、現場の教師としても大きく頷かざるを得ない。民主主義、資本主義、国民国家、近代科学技術といったものが、西ヨーロッパで生まれ発展し、帝国主義によって世界的に普及しててきたことは事実である。本校の3年生の世界史Bも、一気に大航海時代からスタートということになっている。ルネサンス、宗教改革とほぼ同時期の大きな歴史的流れをやって、絶対主義から近代国家の誕生へと続くのだ。

アフリカの開発経済学を考える上でも近代国家論からの視点は必要だと私は思っている。だが、たしかに、そういった視点から見ることが絶対ではない。最近、そういうことを考えている。

P164に次のようにある。『新しい世界史は、むろん単に「ヨーロッパ」と「非ヨーロッパ」の区別をなくすためだけに構想されるものではない。現代世界において重要とされる価値がどのようにして生み出されてきたかを語り、人間社会の未来に向けての展望を示すべきものであるべきだ。兼原信克は「戦略外交原論」で現代地球社会において人々が持つべき重要な価値として次の五つを挙げている。①法の支配②人間の尊厳③民主主義の諸制度④国家間暴力の否定⑤勤労と自由市場。現行の世界史ではしばしば「ヨーロッパ」がこれらの諸価値のすべてを生みだしたとされ、「非ヨーロッパ」との区別が強調される。しかし、それは「ヨーロッパ」人の見方である。兼原も強調しているように、世界各地、特に日本や中国の過去を予見なしに振り返ってみると、用いられている言葉こそ異なるが、これらの価値とほぼ同様の内容を持つ概念が論じられ、その実現が図られていたことがわかる。新しい世界史では、積極的にそれらの例を取り上げ、過去から現代に至るまで、人間がどのようにこれらの価値を追求してきたかを紹介することを心がけたい。』

なんとなく私が実感していたこと。それが上記の文章に凝縮されていた。

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