2016年2月14日日曜日

「ヨハネの黙示録」と666

こういう黒ビールがあるらしい。
http://toronto08.blog92.fc2.com/blog-entry-60.html
橋爪キリスト教本のいいところは、何度も言っているが「社会学者的視点」だと思う。この新書(昨日のブログ参照)のあとがきに、聖書について、このようにまとめられている。

旧約聖書の創世記・出エジプト記・申命記はいずれも預言書である。預言者が神の言葉を記したものであり、フツーのヒトは(神の言葉を聞くことができないので)預言書を書くことはできない。これに対して、新約聖書の福音書は証言であり、マルコやマタイはちょっと立派な弟子であったかもしれないが、要するにフツーのヒトである。交通事故を目撃したヒトの証言のようなもの。イエスは、神の子、つまりは神本人なので、神本人がみんなの間でしゃべったことを伝えるのは預言者でなくてもいいわけである。パウロの書簡も預言書ではない。パウロは、イエスの幻を見たけれども、それは1回だけ。だからパウロも預言者ではない。この書簡は自分の頭で考えた論文である。それが何故、神の言葉であるかというと、パウロには聖霊が働いているからである。神がパウロに書かせた文書なので、神の言葉(聖書)であってよいということになる。ヨハネの黙示録は、パトモス島のヨハネの預言をまとめた書物故、旧約聖書と同じく預言書ということになる。

なお、旧約聖書をなぜキリスト教徒が聖書として扱うのか、そのメカニズムの理解には、劇の脚本という見方が有効である。第1幕、第2幕で完結していた劇(旧約聖書)に、第3幕が付け加えられた。この第3幕も作品として成立しているのだが、第1幕と第2幕は、第3幕が加わると全く違った意味になっている。しかも第1・2幕の脚本には全く手が加えられていない。テキストの積み重ねで、それまでのテキストの読み方が変わるのは哲学と同じであるというわけだ。
さて、昨日に続き、興味深かったところをエントリーしておこうと思う。

■聖霊について
 旧約聖書には「霊」の考え方があったが、キリスト教はこれを「聖霊」の考え方に発展させている。パウロのローマ人への手紙・5章5節に、「なぜならば、私たちに与えられた聖霊を通して、神の愛が私たちの心のうちに注がれているからである。」とある。(旧約の)霊は、神から出て生き物(動物)のうちで生命として働く。また風とか息吹とかにイメージされ、霊は人間のうちでいつも働いているものだった。それに対して、(新約の)聖霊は、生き物すべてに働くのではなく、人間だけにやってくる。生命の活動そのものではなく、精神のレベルの働きである。精霊は上(神)からやってきて、その実態はひとつ。(ニケア信条では父なる神とその子イエスからやってくると定義。)精霊は、特別な働きなので、働く人もあれば、働かない人もあるし、働くとき(ON)もあれば働かないとき(OFF)もある。精霊は「使徒言行録」に出てくる。炎のようなかたちで弟子たちのところに現れ、異言(知らないはずの外国語)を語らせたりした。普段はもう少しおとなしく、聖霊は信仰をもつ人々に働いているとされる。

■666
黙示録には、様々な怪獣が出てくる。全く想像でないほどの姿である。7つの顔があるとか、不可解極まりない。(この辺、読むのがしんどい。)有名な666の数字の話も出てくる。第7のラッパが鳴った後、最後の審判が始まるのだが、42ヶ月間蔓延る最後の獣がでてくる。この獣の支配を受ける人々の右手から額に666が刻印されている。ヘブライ語、ギリシア語のアルファベットは、各文字が数値をもっていて、ローマ皇帝・ネロの名前をヘブライで書いた文字の数値を合計すると666になるそうな。

■最後の審判
地と天が跡形もなく消え去った後、大きな白い玉座の前に死人たちが立っており、書物にしたがって裁かれていく。命の書に名が書かれていない者は火の池に投げ込まれていく。この火の池が第二の死であるらしい。その後、新しいエルサレムが着飾った花嫁のように天から降ってくる。玉座から「神の幕屋が人の間に立てられ、神が人とともに住む。」「私は万物を新しくする。ことは成就した。私はアルファーでありオメガである。」という声が聞こえる。新しいエルサレムは、水晶のように輝き、12の門があり、12部族の名と12使徒の名がある。長さと幅と高さは2200km?(よくわからないが、巨大であることは確かである。)

…さすがに、ヨハネの黙示録は不可解であった。最後に、また橋爪式社会学的視野な話。D・H・ロレンス(チャタレー夫人の恋人を書いた作家)が「黙示録論」というのを書いているそうだ。彼はイギリスの田舎の炭鉱町の出身で、父親も近所の人々も、文化・教養がなく、石炭まみれで働いて、酒飲みで乱暴である。そういう労働者たちは、ハネ黙示録が大好きだった。この間違った世の中がやがて正される、終末には天使の軍勢がやってきて罪深い人間たちをみんなやっつけてくれる、ああ胸がスカッとする、というわけだ。そんな労働者文化が嫌いで、D・H・ロレンスは脱出しようと小説家になったというのである。こういう、ヨハネ黙示録を好むメンタリティ、凄いな。

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