2016年2月13日土曜日

「申命記」とミレーの「落穂拾い」

鼻炎のため耳鼻科に行ってきた。すごい混みようで、2時間半も待つ羽目になった。唯一の救いは、このところ通勤時に読むスピードが遅くなっていた「教養としての聖書」(橋爪大三郎著/光文社新書・15年3月20日発行)が完読できたことである。

この新書は、社会学者である橋爪氏によるキリスト教理解シリーズの1つで、私自身は社会学からのアプローチがなかなか面白いと思っている。旧約聖書から、「創世記」「出エジプト記」「申命記」、新約聖書から「マルコ福音書」「パウロのローマ人への手紙」「ヨハネ黙示録」の6編について解説されている。「申命記」と「ヨハネ默示録」について書かれたものはあまりない。興味があったので購入した次第。

書評のまず前編として、旧約聖書について書かれている前半についてエントリーしたい。社会学者橋爪氏の真骨頂は次のような説明から始まることである。「聖書はキリスト教の習慣で、翻訳したものも聖書です。」イスラムでは、コーランは翻訳禁止。翻訳を通して人間の考えが混ざってしまう故。ユダヤ教もヘブライ語をかなり重視しており、神定法であるユダヤ・イスラム教との差異が、こんなトコロにもでているわけだ。以後、いくつか印象に残った箇所についてエントリーしておく。

■創世記の1章1節、神は天地を創造した。英語ではheavensと天は複数になっている。原文が複数なのだ。鳥が飛び交い雲が流れる空間(大気)は、ドーム(空)で、さらにその上に天が何階建てにもなっているとされた。一方地は平で1つの単数になっている。

■出エジプト記の13章9節、申命記6章8節・11章18節には、「それはあなたにとって、あなたの手の上で徴(しるし)となり、あなたの両目の間で覚えとなる。ヤハウェの律法があなたの口にあるためである。」となる。ユダヤ教徒は、これらを文字通りにとってモーセの律法の重要箇所を羊皮紙に書き、小箱に収めて革の紐をつけ、祈りの時に左腕と額に巻きつける。

■出エジプト記のマナについて。シナイ半島に脱出したイスラエルの民に、神が「天からパンを降らせるから拾って集めよ。」とした、あのマナというパンである。実は、このマナとは、木の葉の樹液を吸ったアブラムシ科の昆虫の分泌物で、地面に転がり落ちて気温が下がると固まり、集めることができたという。イスラエルの民はカナンに入るまでの40年間これを食べたというわけだ。

■出エジプト記の十戒に続く20章22節から23章に及ぶ契約の書には、様々な規定が語られている。有名なホロコーストは、ここで語られる「全焼の供犠」を意味する。供犠とは、犠牲のことで動物を殺して火にくべ、ヤハウェに捧げる。真っ黒焦げになるまで焼くので、食べられない。人間が食べられないのだから、100%神のために献げたことになる。ちなみに、この「全焼の供犠」をホロコーストとはっきり書いているのは後のヨシュア記である。

■出エジプト記25章から31章には、聖所の建設の方法や祭儀の細かな規定が書かれている。契約の箱のつくり方を見るとまるで発注仕様書のようで、この蓋(ふた)には一対のケルビムをつけること、とある。ケルビムとはケルブの複数形でスフィンクスのことである。

■申命記は、第二の律法(申は重ねての意味)といわれるほどの律法書である。全体がモーセの遺言というカタチになっている。面白かったのは、「隣人の畑」の律法。「あなたが隣人の葡萄畑に入るとき、あなたは思う存分葡萄を飽きるまで食べても良い。しかしあなたの器の中に取り入れてはならない。隣人のムギ畑に入るとき、あなたはあなたの手で麦の穂を摘んで食べても良い。」満足に食べられない貧乏人や飢えた子供や、仕事のない寡婦やいろいろな社会的弱者の生存を保証するための律法である。
http://www.artmuseum.jpn.org/mu_ochibo.html
…この隣人の畑を読んで、ミレーの落穂拾いの絵が浮かんだ。どうやら、その推理は正しいものだったようだ。キリスト教世界においても、この申命記の記述を隣人愛として内包し、落穂拾いを可能にしていたのだった。
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_109.html

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